誰そ彼のココロ
「愛美? おーい、まーなーみー? 大丈夫?」
覚醒した目に映るのは、既に失われたはずの姿。私の目の前で手を振り、首を傾げる動作に合わせて、揺れ落ちる絹糸のような黒髪。
「こ……ころ……?」
「そーですよー、こころちゃんですよー? 急に黙ってどったん愛美?」
茫然自失。そんな言葉がぴたりと当てはまるほどに、今の状況が理解できない。首を巡らせれば、飛び込んでくるのは黄昏の公園、寂れた遊具に大きな樹。ベンチに腰掛ける私を覗き込む、こころの愛らしく透き通る瞳。
正面に向き直り、再び視線がぶつかった瞬間、制御しようの無い衝動に突き動かされ、頬を伝い落ちる雫、動く体。
気が付けば私はこころに飛びつき、その体をきつく抱きしめていた。
「わわっ、ど、どうしたの愛美!? 熱烈だね!?」
触れるこころは幻などではなく、確かな温もりと、命の鼓動を以って、私に現実を突きつけてくれる。
「こころっ……こころぉ……っ。私、私、ごめん、ごめんねこころ……」
こみ上げる激情は、喜怒哀楽様々な彩りをもって、私の心の中のキャンパスにぶちまけられる。渦を巻き、混ざり合い、また溢れ出すそれは、一向に収まってくれる気配が無い。
「ん……大丈夫だよ、愛美。ちゃーんと、僕はここに、愛美の目の前に居るからね」
支離滅裂な言葉を繰り返す私を、こころは優しく抱きとめ、背中を摩ってくれる。その優しい手のひらから伝わる温もりに、あぁ、私はこの人が好きなのだと、抵抗無く受け入れ、理解する。優越感ではなく、ただ、貴方に認められたかっただけなのだと、今ならわかる。
「何か……思い出したの?」
ぽつり、少し遠慮がちに投げかけられる小さな声は、とても明瞭に私の中に入り込む。そうだ、聞かねばならない。話さなければならない。既に訪れないと思っていた機会、母がくれた、人生最大の贈り物。
思い至れば、あれほどに暴れまわっていた激情が、不思議なほど静寂になり、私に冷静さをもたらしてくれる。
「思い……出したわ。ごめんなさい、取り乱して」
名残惜しさを感じながら、温もりから距離をとる。しっかりと、正面からこころを見据え、涙でぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に手で拭いながら、言葉を紡ぐ。
「教えて、こーくん。私を、ここに呼んだ理由を。貴方の心の中を」
軽く息を呑む気配。ゆっくりと瞑目し、また開くその目に浮かぶ感情は読み取れない。
「やっぱり、みーちゃんなんだね」
「ええ、間違いなく。魔法使いのみーちゃんよ」
そんな私の言葉に、きょとんとした顔を作るこころは、やがて小さく吹き出した。
「魔法使いのみーちゃんってなんかいいね、アニメみたい」
そんなつもりで言った訳ではなかったのに、改めて言葉として突きつけられると、羞恥で顔が赤く染まっていく。今が夕方なのがせめてもの救いだった。
「私は、まじめに話してるのに……」
ごめんごめん、と片目を瞑りながら小首をかしげるこころ。その仕草を、既に懐かしいと感じてしまう。
「僕ね、ずっとみーちゃんを探してた、もう一度会いたかった」
おどけた表情をしまい、ゆっくりと紡がれる一度は聞いたその言葉。聞こえない振りをして、逃げ出した言葉。だけど、今は向き合うと決めた言葉。
「どうして、私を探していたの?」
しばしの沈黙に、吹き抜ける風。しかし今は不思議と寒さは感じない。
「謝り……たかったの。許されるなんて、思ってないけど、どうしても、みーちゃんに謝らないといけなかったの」
「どうして、こーくんが謝るの? 謝らなければいけないのは、私の方なのに」
「ちがうよ! みーちゃんは何も悪くない! 僕の身勝手で、みーちゃんを傷つけたんだよ!」
眦に光るものを携えながら、真剣に語るこーくんから、私は顔をそらすことができなかった。
あの後、目が覚めたら、そこは病院だったんだ。どうしてそこに居るのか、最初はわからなくて、ただ広がる白い天井に戸惑ってたの。
だけど、だんだん意識がはっきりして来て、僕は自分が車に轢かれたって事を思い出したんだ。
ベッドから起き上がろうとしたとき、ケンくん達が病室に入ってきたの。でもそのなかにみーちゃんは居なかった。なんでみーちゃんが居ないのって聞いても、みんな知らないって言うんだ。どこか行ったまま戻ってこないって。
そんなわけないって、言っても聞いてくれなかった。だから、僕はみーちゃんに会わなくちゃって、急いで病室から出ようとしたんだ。
そしたら、今度は病院の先生がやってきて、僕の状態を教えてくれたんだ。死んでいてもおかしくない程だったって。助かったのは奇跡としか言いようが無いって。
その奇跡が、何を指すかなんて、すぐに分かったよ。だって、朦朧としてたけど、みーちゃんの声、聞こえたんだもん。温かいものが、僕を包んでいたの、覚えてたもん。
とっても嬉しかった。みーちゃんが僕の事を助けてくれたんだって、そう思ったら、すごく愛おしさがこみ上げてきたの。だから、一分でも一秒でも早く、みーちゃんに会いたくて、病院からすぐに飛び出そうとした。
そしたら、ケンくんが言ったんだ、どうしてあんなヤツをかまうのって。なんか、おかしいなって思って、僕、皆を問い詰めたの。そしたら、口々にみーちゃんの悪口を言うんだ。化け物って。僕を襲ってたから、助けたんだよって。
最初皆がなんでそんな事を言うのか分からなくって、当り散らしちゃった。でも、一頻り暴れた後に、ふと思ったんだ、それなら、当のみーちゃんは今どれだけ辛い思いをしてるのか、って。
そこからは良く覚えてないや、とにかく無我夢中でみーちゃんの家に行ったの。でも、もうそこにみーちゃんは居なかった。家の前で騒ぎ立てる僕を見かねたんだろうね、ご近所さんが出てきて教えてくれたよ。周防さんなら、三日前に引っ越しましたよ、ってね。
愕然としたよ、後から聞いたら、僕、一週間も生死を彷徨ってたんだって。それだけ大変な状態だった僕が助かったのは、間違いなくみーちゃんのおかげなのに、僕はありがとうはおろか、ごめんねも言えないままお別れになっちゃった。
後悔してもしきれなかった。みーちゃんはすごいんだぞって、そんな自分勝手な考えで、みーちゃんとの約束を破って、魔法の事をばらして、挙句八つ当たりして……。それでも助けてくれた命の恩人に、感謝も謝罪もできないまま、もう二度と会えないのかも、なんて考えたら、すごく怖かった。
だから、なんとしてでももう一度会うんだって、いろんな方法で探したんだ。子供にできる事なんて、たかが知れてるけどね。いろんな学校の文集を探したり、新聞見たり、学校行事のサイトを見たり……。進学する度に、学級名簿を全部調べたり、転校生が来る度に、その人の事を見に行ったり。インターネットで名前を検索した事なんて、両手両足を使っても数え切れないよ。それでも、まったく手がかりすら掴めなくて、でも、諦め切れなくて。ずっとずっと、そんな事を続けてた。
一気に語るこころの声に、私は静かに耳を傾ける。こころがそんな事を考えていたなんて、全く知らなかった。ただ自分だけが被害者だと、都合よく記憶を忘却して、のうのうと暮らしてきた。
どれだけ私の事を想ってくれて居たのだろう。私には想像も付かない程に、苦しんだはずだ。それなのに私は、そんなこーくんから逃げた。それは、とても非道な行為に思えた。
「そんな時ね、また転校生が来るって、噂が流れてきたんだ。だから、またいつもみたいに見に行ったの」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに顔を綻ばせながら私を見詰めるその瞳には、隠しきれない喜びの光が瞬いている。
「食堂で見つけた時、すぐに分かったよ。昔から変わらない透き通る茶髪も、あんまり伸びなかった身長も、とっても美人になった、負けず嫌いな顔立ちも。全部全部、大好きなみーちゃんのままだった」
でも、と陰りを見せる表情で俯き、声のトーンを落とすこころ。
「嬉しさと同じくらい、怖かった。拒絶されたらって思うと、胸が苦しかった」
右手で左手を握り込み、俯く胸元に引き寄せて強く握る。その仕草はとても可愛らしく、とても寂しそうだった。私は、きつく握られたこーくんの手を、二つの手でゆっくりと包み込む。重なり合った両手に、温かい宝石が一つ、また一つと降り注いだ。
「とても……とても怖かった。申し訳なかった。あんなに酷い仕打ちをして、みーちゃんを傷つけたのに、命まで助けてもらったのに、自分だけ何も苦労しないで生きて来た事が、途端にものすごく恐ろしくなって、足が竦んだ……」
流れては零れ、零れては弾ける。降り注ぐ宝石の粒は徐々に勢いを増し、私達の手を余すところ無く輝かせる。
「みーちゃんに何を言われても、受け入れようって、覚悟してた筈なのに、いざその時になったら、全然、体、言う事きいてくれなくて。動けなくなっちゃった」
泣き笑いの表情で紡がれる言葉の一つ一つが思慕に溢れ、伝わる想いに胸が熱を帯びてゆく。
「でもね、幸せそうに食事をしてるみーちゃんをみてたら、その笑顔の隣に居たいって気持ちが湧いてきて、すっごく暖かい気持ちに包まれたの。変だよね、謝らなきゃいけない人に勇気を貰うなんて」
私の手からそっと手を離し、右手は顔へ近づけ右目を拭い、左手でポケットからハンカチを取り出して私の手に宛てがう。
「みーちゃんがくれた勇気、まだ僕の中にあるよ。やっと……やっと、言える。ずっとずっと、仕舞い込んでいた言葉」
反対の眦に溜まる雫を指で払いながら、真剣な顔で私を射抜く眼差しに、自然と背筋が伸びる。私の臨む世界から、彼女以外の全てが排除されてゆく。
「みーちゃん。あの時、いっぱいいっぱい傷付けてごめんなさい。そして……僕を助けてくれてありがとう。貴方のおかげで、僕はこうして元気に生きています」
夕暮れの公園、皆と過ごした公園。
懐かしい公園、貴方と過ごした公園。
いくつもの時を経て、さまざまな顔を見せてくれた思い出の場所。
硬く閉ざされていた花弁は、ゆっくりと開いてゆき、暁に照らされながら、その美しい花びらを咲き誇らせ、私に満面の笑顔を届けてくれた。
「私のこと、恨んでないの?」
「恨むなんてありえない」
「私のこと……憎んでないの?」
「憎む理由が見当たらない」
「私……ひどい事……言ったよ?」
「それを言わせちゃったのは僕だもの」
打てば響く太鼓のように、錆付いた心の扉を押し開いてくれる愛しい声。
「こん……な私と……一緒に居て……くれるの?」
「みーちゃんと、一緒に居たいんだよ」
既に、目に写るのは歪んだ鏡のような世界。開かれた扉から押し寄せる数多の感情。こんなにも、沢山の幸せに包まれる事を許される日が来るなんて、思いもしなかった。
「私……私……こーくんと一緒に……居たい。ずっとずっと、一緒に……居たいよ……もう、離れたくないよ!」
握ったままだったハンカチごと、両手で顔を覆う。あふれ出る感情と涙。止まらない、止め方が分からない。狂おしいほどの多幸感に溺れてしまいそうだった。
「好きだよ……こーくんが好き。大好き」
「ごめんね」
こーくんが紡ぐ否定の言葉。その形の無い刃が私に牙を剥いた刹那、強い力でぐいと引き寄せられる体──
「僕は、みーちゃんを愛してる」
──唇に押し付けられる柔らかい感触は、とても温かくて、ほんのり甘かった。
窓の外には、青空が広がっていた。そよぐ風、たゆたう雲、輝く太陽。描き出される絵画のような世界に、温かみを加えるようにひらりと舞う桃色の花びら。
「うるさい……」
枕元で、まどろむ私にこれでもか、というほどに起床を促す大音量。使い古した四角いそれは、所々に傷やへこみを作りながらも、毎朝健気に私を起こしてくれる相棒。
「あと五分……」
そんな相棒を、優しく殴りつけ黙らせる。と同時に布団を引き上げ、頭ごと覆い二度寝を決行。包まれる優しさに、浮上しかけた意識はゆっくりと沈んでゆく。
「そんなこったろうと思ったよ! 早く起きて! 折角のご飯が冷めちゃうよ!」
勢い良く、私を包む温もりごと取り払われる愛しの布団。沈みかけていた意識が、肌寒さにより再度浮上する。恨みがましく見つめる先には、最愛の人がエプロン姿でお冠。
「さむいわ……」
「ご飯食べたら暖かくなるから! ほーら!起きた起きた!」
伸ばされる腕が、私の両脇の下に差し込まれ、抵抗する間もなく抱え起こされる。
「パンだけど、いいよね?」
「ええ……大丈夫よ……おはよう」
寝ぼけ眼で呟く私に、満足そうに頷き、
行為とは裏腹にとても優しい挨拶を返してくれる。
「おはよう。ご飯できてるから、着替えて顔洗っておいで?」
首を縦に振る事で了承を示し、ベッドから抜け出す私を見て、嬉しそうに笑った。
「今日ね、夢を見たの。懐かしい夢」
食卓に腰掛け、背中まで伸びた色素の薄い髪をゴムで結いながら、彼に話しかける。
「珍しいね、いい夢だった?」
掴んだトーストを齧りながら、小首をかしげる貴方の仕草は昔から変わらない。動きに合わせて、ふわりと踊る肩口で切りそろえられた黒髪は、今日も艶めいている。
「そうね、とっても良い夢よ、私達の再会した日の夢。いただきます。」
そう言いながら、香ばしく色づいた四角いパンを手に取り一口齧る。香る小麦に、ふわりと漂うバターの主張、絶妙なバランス。うん、美味しい。
「わ、本当に懐かしいね、十五年くらい前かな? あの日はすっごく目まぐるしかった記憶があるよ」
手に付いたパンのカスを、指を擦り合わせてお皿に落とす。隣に置かれたマグカップを持ち上げ、湯気のたちこめる黄色い液体を口へ。優しい玉蜀黍の香りが鼻を抜けて行った。
「懐かしくもあり、嬉しくもあり、悲しくもあった日……と言ったところかしら。そして私が盛大に騙された日でもあるわよ?」
目を細め、見つめる先の貴方は頬を掻きながらそっぽを向く。バツが悪いのだろう。
「騙すつもりは無かったんだけどね、別に嘘をついていた訳じゃないし」
「あら、この期に及んでそんな事言うのね、女子の制服まで着ておいて。分かるわけ無いじゃない。あんな美人が男だなんて、誰も想像しないわよ」
パンと共に盛り付けられた目玉焼き。艶めき、弾力を感じさせる白身の平原。その上に昇り太陽を思わせる輝きを放つ黄身。箸を差し込めば、トロリと溢れ出すその中身が、白身に綺麗なドレスを纏わせる。
「それに、ファーストキスだったのよ? 告白したのは確かに私だけど、それにしたって、初めてが同性ってどうなのかしらって、真剣に悩んじゃったんだから」
口に運ぶ目玉焼きは、思ったとおりの食感で、口の中を優しく飛び回る。パンにスープに目玉焼き。代わる代わる口へ放り込めば、絶妙な共演を繰り広げてゆく。
「仕方ないじゃん、あんな事言われて我慢できるわけないって! それに、そのまま立て続けにキスしてきたのは誰だったっけ?」
「うっ……。し、仕方ないじゃない、嬉しかったんだから……」
互いの顔を真っ赤に染め上げながら、熟れた果実は見つめ合い、次第に視線を逸らす。会話は無くなり、食器のぶつかる音だけが響く食卓。そして揃って食事を終えた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
揃った言葉に、どちらとも無く笑い声が漏れる。とても幸せな時間。とても大切な空間。私と貴方のこれまでとこれから。
壁にかけたスーツの上着に袖を通し、食器を片付ける貴方に目を向ける。
「今日はそんなに遅くならないと思うけど、帰るときにラインするわね」
手にしたスマホを振りながら、声をかける。一緒に揺れる小さな黒猫は今日もご機嫌だ。
「うん、わかった、気をつけてね」
何気ない会話、何気ないやり取り。そんな日常の一コマが、どれだけ大切なことか、今の私は知っている。貴方と過ごせるこの時間を、大切に抱きしめて、一緒に歩いていきたいと心から思う。
「こーくん、愛しているわ。行ってきます」
鞄を掴む私の左手の薬指にはめられた、銀色の絆。魔法が繋いでくれた確かな絆。
「いってらっしゃい、みーちゃん。僕も愛してるよ」
そう言って、彼はお揃いの絆を結ぶ左手を私の頬に添え、唇を重ねてくれた。
力を恨んだ事もある。望まぬ物だったと嘆いた事もある。それでも、彼が今ここに居るのは、私が今ここに居るのは、間違いなく魔法のお陰。故に、自信を持って答えよう。誰に問われても、胸を張って答えよう────
私、井上愛美は、魔法使いである、と。