(五)
海を見ていた。そして、そこでさざめく波を、そこで移ろう空を。
寄せては白く砕け、砂浜を犯しては返していく。けれど、何度打ち寄せようとも、伸ばした私の足先にさえ到達することはなかった。
また一つ。水面の向こうから波がやってくる。そして、引いていく波によってやってきた波は形を崩し、歪んで、砕けた。ぶつかった波によって水中で砂が煙立ち、引いていく波と共に消えていった。遠雷にもよく似た波の音が繰り返す。いつからか、いつまでか。
海面には、私を水平線の彼方にまで誘う光の道。波で時折、形を変えながらも私を暮れなずむ太陽の処まで導こうとしている。陽光は晩春の水分を多分に含んだ空気のせいで赤く。ために、風に惑って伸びた雲は影となって、重く、暗い。
徐々に、しかし着実に太陽は、没し始めて、水面とぶつかった。
水平線から燃え上がるように見える空の色も最早僅か。東の空から現れて中天をも覆う闇に圧されて、消えていく。
この世界は、夜になろうとしていた。
「アルマ。準備が整ったよ」
その声に振り向けばレフがいた。
夕日に照らされて赤い。少年から青年へと変わった顔。身長は私を大きく超えた。身体つきは少し細身だが、筋張っていて、男なのだと思った。
立ち上がり、黒いローブに付いた砂を払う。そして、頷き、聖剣の柄に指先で触れた。
私の足元から伸びる影は、レフに重なる。
「それじゃあ、行こうか。レフ」
そう言って頷き、近付く。
履き潰れそうな革の靴。緩い紺色のボトムスから見える足首。旅から旅の生活で余計なものが少ない身体。手で夕日を抑えて、眩しそうに目を細めている。すこし伸びた黒髪、長い睫毛。相も変わらず白い肌。纏う雰囲気は柔らかく、静かで。
そんな彼を見ていると、胸の奥からじんわりと温かいものが広がった。
ああ、私は好きなのだ。
レフが、好きなのだ。
近付けば弾み、触れれば高鳴る。
これが恋なのだと、そう思う。彼の近くにいたい。彼に触れたい。そんな思いが、胸の中で暴れまわる。
つまり、勇者失格だった。
この世界は誰の命よりも重いと、生と死は天秤で計れると、信じられなければならなかった。それができなければ、終わりまで責任を持つこともできない。なのに、今の私は他の何よりも彼が大切だ。だから、勇者失格。
けれど同時に、そうだろうと私以外に聖剣を持てる者がいないのも事実だった。私の身体は、子供が産めるようになるよりも早くに成長が止まってしまっている。つまり、私は勇者の血族の最期。
だから仕方なく、私は今もこうして勇者として旅を続けている。
ここベンタスは寂れた漁村だった。
家々の壁にはツタが張り付き、木材は朽ちかけている。ここがかつてこの国で五指に入るほどの街だったとは到底信じられない。ヘプタ海に面し、製塩と漁業で莫大な利益を上げていた。多くの人がこの町に住んでいた。
転機は二十一年前。私の父が勇者の責を投げ捨て、そして、人間はその領域を徐々に狭めた。そのせいで、ベンタスは魔物の領域と近くなった。恐れた人々は、王都へと逃げていったという。そうして、少しずつ人は減って、今は千人に満たない。
私が何故ここにいるかというと、魔物の侵攻を事前に察知したここの領主であるプーラナ・カッサパが私に依頼してきたからだ。明日の朝にはこの街にオーク十四体とゴブリン三十七体、合計五十一体の魔物が襲ってくる。私はそれを迎え討つ。
贄の準備は整ったらしく、今は儀式をしに行くところだ。
「お兄ちゃんが勇者なの?」
陰干しされた魚の奥から現れた六歳くらいの少女が話しかけてきた。浅黒い肌と、すこしパーマが掛かった髪で地元の子どもなのだと思った。
「僕じゃないよ。勇者はこっち」
「え? こっちのお姉ちゃん?」
レフが否定して私を指す。すると、少女はこちらを見て、首を傾げた。
「そう、私が勇者。勇者、アルマ」
「へー、お姉ちゃんが。そうなんだ。じゃあ、お姉ちゃん、おばあちゃんをよろしくね」
「おばあちゃん?」
私がそう聞き返すと、少女は少し誇らしそうに笑った。
「そう、私のおばあちゃんが聖剣の贄?に選ばれたの。だから勇者様、よろしくね」
少女の無垢な表情。ああ、この子は聖剣の贄になるということがどういうことか分かっていないのだろう。けれど、教えるべきでもない。
「うん、私に任せて」
私に任せたらどうなるのか、そこまでは言わなかった。
「それじゃあ、勇者のお姉ちゃん。バイバイ」
そう言って笑った少女に私も手を上げて、別れを告げた。
それから暫く歩くと、街の中央にある寺院に辿り着いた。かつて多くの人がいた名残で、かなり大きな寺院だ。極彩色に塗られた石像が目立つ。この中に五十一人の贄がいる。もう準備は整っていて、あとは私が儀式を行うだけだ。
「お待ちしておりました。勇者様」
寺院の入り口で、一人の男が待っていたくっきりとした目鼻立ち、南方の出だと一目で分かるその浅黒い肌。どこか見覚えのある顔だ。
「十二貴族が一人、プーラナ・カッサパです。此度は私の依頼に応じて頂き、感謝を申し上げます」
「勇者、アルマです」
少し苦そうな顔をしたままプーラナはそう挨拶した。私が名乗り返すと、隣にいたレフも頭を下げた。
昼過ぎに街に入ってから、レフがこの状況にまでをしてくれたから、恐らく先に挨拶は済ましていたのだろう。
「贄は、この中に?」
レフからそうだと聞いていたが、一応プーラナに確認する。
「はい。五十一人、きっちりといます。あの、この街を。……、ベンタスをよろしくお願いします」
聞きなれたその言葉に、ゆっくりと頷く。
「はい。任せてください」
息を吐くのと同じように、その言葉を返す。
そしてプーラナの脇を通り抜けて寺院の中に入るため、木の扉に手を掛けた。
「あのっ」
その瞬間、プーラナが少し詰まった声で私を呼び止めた。
「勇者様、謝らなければならないことがあります。二年と少し前のあの日、勇者様に無礼を申したことを。本当に、すみませんでした」
そう言われて、プーラナという男とどこであったのか思い出した。私が初めて王都に行ったあの日、父を許せないと言ったあの貴族だった。
頭を下げるプーラナを一瞥する。
「大丈夫、気にしてない」
父が逃げたせいで、多くの犠牲が出た。それは事実だ。
勇者の責務を投げ捨てるというのは、人間を見放すということだ。それを許せない人がいるというのも、勇者として数年過ごした私なら理解できた。
けれど、それで何が変わるのだろう。人間よりも魔物の数の方が多いのだ。即ち、人間の末路は覆らない運命として遥か昔から鎮座している。
何故私が、父が、祖父が、私の一族が、変わらない定めのためにその理不尽を受け、死力を尽くさないといけないのだろう。
その疑問を、ため息にして吐き出す。こんなこといくら考えようとも、私がなさなければならないことは変わらない。
「ありがとう、ございます」
頭を下げたまま、プーラナはそう言った。頭頂部には白髪が幾筋か見えた。二年前のあの日にはなかったものだ。彼も、レフも、少しずつ世界は変わっている。多分変わってないのは、私だけ。ルーティン、勇者の責務。
プーラナに背中を向けて、寺院の扉を開ける。
そこは大きなホールで、真ん中奥に一際大きな像が飾られていた。そして、その前に多くの人が並んでいる。老人が多いのはいつもと同じ。
前に立つと、聖剣を鞘のまま彼らに掲げた。
「勇者、アルマです。これより儀式を始めます」
そうしていつも通りに私は彼らの血を飲み始めた。指先を切って、滲みだす赤色。それを口に含めば鉄の味。飲み込めば、贄となった人から一言二言掛けられて、いつかの誰かに返した言葉と同じ言葉を返す。
「ありがとうございます」
いつか誰かがそう言ったのと同じように、また一人その言葉を吐いた。
十分程度でそれは終わった。人の命を使うのに、随分とあっさりしたものだといつも思う。いや、命の重さなどこんなものなのだ。命が消えていくのに時間など掛からない。命が奪われていくのも容易。
軽く、脆い。
この後は、現在ベンタスから南南西十キロメートル辺りを侵攻中の魔物を迎え討つだけだ。
数は多いが、この程度の経験なら何度もある。そして、一度の失敗もない。私は今回もやれるだろう。
寺院から出れば、レフが穴を掘っていた。明日の朝には骸へと変わる百二の命のためだろう。
「レフ。儀式、終わったよ」
私がそう声を掛けると、彼は顔を上げた。
沈みかけの太陽が彼の額の汗を照らしている。
「お疲れ様、アルマ」
「レフも、お疲れ様。あとどのくらい?」
彼が掘っている墓穴を指しながら、進捗を尋ねる。
「ここで掘る分は、もうそろそろ終わりかな。魔物の分は、ここには埋めちゃダメだって」
魔物に散々苦しめられているのに、街の中に埋葬して良い気分がする人間はいないだろう。これまで守った街や村、どこであろうとレフはそれを断られている。魔物を埋葬するのは、大抵郊外だ。
「穴、掘りに行く?」
そう尋ねると、彼は頷いた。
「うん。そろそろ終わるから、ちょっと待ってて」
レフはそう言うと、また穴を掘り始めた。
「勇者の付き人は変わり者だ」と、そう噂されている。憎き魔物を丁寧に埋葬することが原因だ。彼が私の付き人でなくてそんなことをしていたら、もっと明確に軽蔑されていただろう。一般的に見てそれくらいふざけたことを彼はしている。何故そんなことをしているのか私も理解できない。尋ねたこともない。
「終わったよ、アルマ」
すっかり暗くなっていた。
夕日の残光が、僅かに世界を照らしている。
「行こうか」
そして私たちは、歩き始めた。
潮風にやられて傷んだ家屋、錆びた鉄。
そんな廃墟じみた民家の窓から街路へ、漏れる灯り、鼻腔をくすぐる炊事の匂い、話し声、湯気、物音。
街は日常だった。
魔物が迫っているとなれば逃げ出す人がいるのは私のこれまでの経験からはお約束であったが、そういった混乱がないのはプーラナの手腕なのだろう。
こんな日常も、私が守らなければ明日には消えて無くなる。いや、この街だけではない。何もしなければ、人間はものの三十年足らずで滅びると言われている。最近は侵攻が激しいので、もっと早まるかもしれない。
遥か数百年前、魔物の数が人間を上回ったいつかの瞬間、希望という名の太陽は沈んだのだ。
私が聖剣を振るって延命させたところで、十五年伸びるかどうかも怪しいところだと思う。
けれど、誰かが望んでいる。
実体のない微かな光が、少しでも長く世界を照らすことを祈っている。
そんな夕闇の中で、私が聖剣の刃を振るうことを願っている。
だから私は。
「さっきね、勇者のお姉ちゃんにおばあちゃんのことよろしくって言ってきたんだよ」
通りすがった民家の窓から、そんな言葉が聞こえた。レフを勇者と間違えたあの少女の声だった。
少女の祖母が贄となると言っていたことを思い出して、少し気になった。
無粋だとは思いながらも立ち止まって、窓から覗き、聞き耳を立てる。
「ありがとうね、お陰でおばあちゃんは無事に終わったよ」
その声と僅かに見えた顔から贄の中にあんな人もいたなと、思い出す。「ありがとうございます」なんて言葉をあの老婆も言っていた気がする。
包丁がまな板に当たるリズミカルな音が響く。老婆が夕飯を作っているらしかった。
他に家の人は見当たらない。二人暮らしなのだろう。
「わ、おばあちゃん。今日キーマ?」
「そうだよ。しばらく会えなくなるし、好きな物を作ってあげようと思って」
「ありがとう。でも、おばあちゃんとしばらく会えないの嫌だなあ」
老婆は少女に聖剣の贄になるということを「どこか遠くに行くこと」と説明しているらしかった。
「叔父さんの所に行くのは嫌かい?」
「叔父さんも好きだけど、おばあちゃんの方が好き」
「ふふ、ありがとう。でも、決まったことだから。ご飯食べ終わるころには、叔父さんが迎えに来るし、そしたらお別れね」
「次はいつ会えるの?」
「いつに…………、なるのかねえ」
少し遠くを見るような老婆の視線。無垢で無知な少女。
「いやだなあ」
そう言って、少女は老婆に後ろから抱き着いた。
「おばあちゃん……大好き」
それを見て、少女が老婆に対して抱いてる感情のありのままを見て、私の視界はぐるりと回った。
気付いて、しまったのだ。
これまで私は幾千の命を踏み付けにしてきた。
けれど。
けれど、私が何の迷いもなく奪って来た命も、誰かに大切に思われている人なのだ。
レフ。
私にとってはレフが一番大切だ。
二十六の命とレフ一人を比べた時、私にとっては彼の命の方が重かった。
いやもっと、レフと世界を天秤に掛けても、それでもなお、私にとってはレフの方が重いのだ。
それと同じなのだ。
世界のためだ、正義のためだと宣って奪ってきた命も、誰かにとってはそんな物より遥かに重かった筈なのだ。
「アルマ、アルマ。どうしたの?」
お腹の奥からせり上がってくる。吐き気。
地に足が着いていないような。浮遊感。
脳の奥が鉄塊のような重さ。鈍痛。
徐々に大きくなって、一切を聞こえなくする。耳鳴り。
いくら吸おうとも、空気を肺に取り込むことは叶わなかった。
立っていることができなくなって、身体はその場に崩れた。
私は。
……そんな大切なものを、私はどうしてきたのだろう。
「アルマ? 大丈夫?」
吸気が喉の手前で止まった。お腹の底から迫りくる何かに押されて、私は数度えずいた。
胃から上がってきたものが舌の上を通って酸っぱい。
「はあ、はあ」
無理矢理に呼吸を整えようとするけれど、できない。
胃から逆流して、食道も止まることなく突き上がってくるその塊。
我慢しなくては、と一瞬思ったが、耐えられない。
「おえっ」
遂にそれを、血を、吐き出した。
一度吐き出し始めれば、最早際限は無い。
止めることは、できなかった。
そして、人々の血を、五十一人分の覚悟を、勇者としての責務を、全て、私は吐き出した。
「アルマ……」
レフが少し悲しそうな目で、私を見ている。
少し目を閉じて考え込んだ後、彼は自分の服で赤く汚れた私の口元を拭いた。
「大丈夫、ありがとう」
そう言って、拭ってくれている彼の手を払う。
脱力した身体に力を入れると、民家の壁を頼りながら立ち上がった。吐瀉物を踏んで、ぬるりとした感覚。
そして、覚束ない足取りで、一歩二歩。
「どこへ行くの。アルマ」
彼のその言葉に対する言葉は一つ。
「魔物を倒しに、行かないと」
「今のアルマじゃ無理だよ。贄の血を吐き出ちゃった君じゃ。勇者だろうと、贄がなければ、魔物には叶わない」
「でも、それでも……」
私が行かなくちゃ。私が倒さなくちゃ。私が守らなくちゃ。私がどうにかしなくちゃ。私が斬らなくちゃ。私が救わなくちゃ。私が抗わなくちゃ。私が立ち向かわなくちゃ。私が頑張らなくちゃ。私が。私が。私が。
「私が………、勇者だから」
そうしなければ、これまで犠牲としてきた人たちに、私は顔向けできない。
体が思うように動かない。怠くて、足を前に進めることも儘ならない。
「今のまま行ったって、魔物は倒せない。アルマが死ぬだけだよ。もう一回贄の人たちにお願いして……」
「できないっ……。もう、……できない」
これまで幾千の命を奪って来た。今更こんなこと言ったって、何を言っているんだと思われるだろう。
けれど、もうできなかった。
命を奪って、命を斬り裂くことを。誰かの手から大切な何かを奪っていくことを。
「今のアルマじゃ魔物は倒せない」
「けど、私は戦わなくちゃ」
「……アルマ」
そう言って、レフが私の腕を引っ張った。
驚く暇もなく、私の軽い身体は彼の胸の中に吸い寄せられる。
ふわり。
大きな体。温かい。少し、落ち着く。好きだ。私はレフが好きだ。
レフがこうしてくれるから、彼が私を正義だと言ってくれていたから、自分の正義を信じて来られた。多くの命のために少数を踏み台にすることは正義だと、信じて来られた。
でも今は、こうしてもらえるからこそ、もうそれができない。
知らぬ間に私の目からは涙が零れている。
レフが私にとって大切になってしまったから。
人を好きになるということを、愛を、知ってしまったから。
私が踏み台にしてきたものの重さを、知ってしまったから。
暫らくの沈黙の後、彼がポツリと。
「……逃げようか」
太陽の残光さえ消えて、空は黒。
明かりは無く、何も見えない。耳鳴りのせいで、何も聞こえない。確かなのは触れたレフの温もりだけ。
――ああ。
――――世界に、夜がやってきたのだ。
〈夕闇の刃、完〉