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狂人

 学校を出ると、どこからともなくアヤメが現れて、タクトの半歩後ろをついてきた。けれども、学校から離れてゆくにつれて、半歩の差が徐々になくなり、アヤメがタクトの真横を歩くようになった。アヤメはやけにニコニコしていた。着物は昨日と同じものだったけれども、袖がなくなっているように見えた。だらりと下がった袖の余りがなかった。代わりに橙色の蝶結びが肩のところにあった。
 いつもと違う様子のことをタクトが言葉にしてみれば、アヤメ曰く、タクト様と一緒にいるからうれしい、というまっすぐな答えだった。袖は動いているときは邪魔だからたすきで留めてしまうのだ、とも。
「どうしていきなり、そんなことになったんですか」
「だってタクト様が表に出すようにおっしゃったのですから。わたくしはうれしいのです、一緒にいられるのですから」
「それじゃあその袖はなぜ」
「袖があると邪魔じゃありませんか。できるならばずっとたすきをかけていたいのですが、いかんせん、風格に欠けると永らく禁じられてきましたので、破りでもすれば苦痛の祝詞で痛めつけられました」
「ひどいことをされたんですね」
「なんと申しましょう、餅をのどに詰まらせて悶えるような苦しみでした。タクト様はそのようなことなさいませんよね」
「そんなことしませんよ。やるにしたって、祝詞なんて全然知らないんですから。そもそも祝詞ってなんですか」
 アヤメの感情が豊かになった。うれしいと言葉にすれば顔も前面に出して、苦痛を言葉にすれば、それを思い出して眉間にしわを寄せる。どのような苦しみを表現するのに、のどを手でつかむしぐさをしてみせた。
 言葉遣いが変わったのもタクトは気づいていた。以前のアヤメはもっと堅苦しい、格式ばった言葉を使っていた。故、とか、なさらぬ、といった冷めた言葉。けれども、表情豊かに語るアヤメはそれに比べれば随分と軽い調子だった。
 社までの道中で、タクトはヨシワラの様子を教えた。今後絶対に頼らないというヨシワラの決意をアヤメに伝えれば、笑みで持ち上がっていた口角がすとんと落ちた。者どもに頼られない神はいる価値がない、と落ち込んだ様子だったけれども、これもタクト様のお力ですね、と言葉を投げたときには無理やりに笑みをつくろっていた。アヤメを辛い気持ちにさせてしまった負い目を感じたタクトは、それからは卵料理の話をずっとした。
 社の前の黒鳥居に到着したふたりは、すぐに境内の異変を聞き取った。だれかが金切り声をあげていた。延々と叫びまくっているのではなくて、ときどき、なにか短い言葉を吐き出しているかのような声だった。いや、声というよりも音というべきか。なにを言っているのか分からないけれども、とにかく、なにかが断続的に耳障りな音を発していた。
 参道を下りて、参道途中の大岩から様子をうかがったところ、何者かが半狂乱になりながら暴れまわっていた。足元には黄土色と白色がごちゃまぜなモノが小山を形作っていた。その人はひとつひとつを手に取って、出っ張っている部分を掴むやいなや引き裂いた。その瞬間に獣のような声をあげた。一回もぐだけでは飽き足らず、原形をとどめていないそれをもう一度引っ張った。黄土色の、四つのでっぱりを持つもの。大量のわら人形を足元に置いて、ソレは一体ずつ壊しているのだった。
 まじまじと観察していると、奇声が人間の叫び声やうめき声のように聞こえてきて、声の持ち主がだれなのか分かった。母親だった。半狂乱になって、一心不乱に人形の手足をもいだ。胴体を引き裂いた。
 ヒステリーな母親の行為。息子は、終わった、と思った。母親は人間として終わった。ヒステリーならまだしも、眼下の母親は間違いなく正気を失っている。今まで境内の脚を踏み入れる人々を目にしたけれども、母親以上に狂気に満ちている人はいなかった。見ていて恐怖を覚えることは幾度もあったけれども、目の前にある恐怖は今までのそれ―人の心のおぞましさとは違った。人が人であることを辞めた瞬間のように感じられたのだ。
「全くひどいです。なぜわら人形をああも無残な姿にできるのでしょう」
「あれは俺の母親です。もともと精神的に不安定なんですが」
「あの者も何度かこちらにいらしています。言葉にこめられた恨みは凄まじいものがあるのですが、いかんせん、作法がぐちゃぐちゃなものでして」
「作法がなってなくても言葉の力が強ければ呪詛になるのでは」
「さようではありますが、あまりにもひどいのです。ああやっているのははじめて目にいたしますが、拍を打つこともなしにいきなりわら人形を社に投げつけたり、わめいたりすることが多くありました」
「いったいだれのことを呪おうとしているんでしょうか」
 それは、とアヤメが言いとどまったのは、これがはじめてだった。アヤメはいつでも淡々と事実を、あるいはアヤメの考えを教えた。たとえそれがタクトの考えと反することであっても、アヤメは言葉にした。けれども、母親の狂気を前にして言葉が止まってしまった。
 アヤメはいかにも言葉にしづらそうだった。母親の暴力に目を向けているようで、決してそういうわけではない。母親を見下ろす瞬間もあったろうけれども、多くは新たにこしらえられた芝生の一角だった。タクトが視界に入らない方をずっと見ていた。
「呪詛の執行をしなければならないのは俺なんですよ、教えてくれなければもしものときに動けませんよ」
「かの者の振る舞いでは呪詛になりえません、ですから知らなくても問題はありません」
「いいや、この社を頼ってる以上、なにかできることがないか考えなきゃいけない、とは思いませんか」
「そんな、者の願いはタクト様にとっては無益なものです」
「これまで俺にとって有益な願いはありましたか?」
「それはそうでありますが」
「どうせ俺を殺してくれとかその類でしょう」
「なぜお分かりになるのですか」
 母親の願いにうろたえたりショックを受けたりはしなかった。むしろ当然の流れのようにしか思えなかった。罵りを投げつけたのは数知れず、理不尽な暴力を与えもした。母親の目はたいがいタクトをさげすんでいた。いかにもタクトを目の敵にしている母親のすることだ。
「期待なさっているのですか」
「俺は自分を死なせたいなんて考えたことないですから。見当がついたのは、そういうことを願いそうだなって思ってたからですよ」
「思い当たる節があったのですね」
「思い当たる節と言うか、見ていればなんとなく」
「タクト様はどうするつもりなのですか」
「どうするもなにも、呪詛にはならないんでしょう? 放っておけばいいじゃないですか」
 タクトは手を振ってアヤメの言霊を振り払った。アヤメは申し訳なさそうに目を伏せたけれども、当人は全く気にかけないで母親の方を見やった。
 母親は常にサチ姉の母だった。サチ姉が部屋から出てこないようになってからの母親の様子はもはや分からないけれども、まだ外で遊べるぐらいだったころは、優しい声をかけながら頭をなでていた。タクトが一度もされたことのない行為、母の手。想像するしかない手の温もりは、最後のわら人形をめちゃくちゃに引き裂いている。
 最後の一体がわら山の頂上に落ちて、一部が山肌を滑り落ちてゆくのを母親は眺めていた。化け物のような声がぱたりと止んで、あたりはしんと静まりかえった。耳に母親の声がこびりついているのか、何度もエコーして聞こえてくるような気がした。
 ようやく気が済んだのかと思った矢先、母親はナタを持ち出した。柄を両手で握りしめて、天高く突きあげるなり、上半身を使ってナタを振り下ろした。鳥肌が立ってしまうような奇声が再びタクトの耳を襲った。

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