鬼の所業
帰宅したタクトの目にした母親は至って平然だった。散々暴れまわった母親は参道を上らないで、境内を取り囲む草地に分け入って消えてしまった。境内の周りは一通り見ているけれども、なにか道らしい道が参道のほかにはなかった。母親だけが知っている道があるかもしれないと思ってふらふらしてみたけれども、獣道になっている様子はなかった。とにかく帰ってこれているのだから、出れないことはないということか。
タクトは部屋に戻るなり、卓上に証拠品をちりばめた。制服のポケットからは無尽蔵に湧き出るかのようにわらクズが出てきて、つかんで離すを繰り返せばあっという間にクズでいっぱいとなった。けれども、中にはわら人形の一部をかろうじて残しているものもあった。それが脚なのか腕なのか全く分からないけれども、母親の魔の手から逃れられた点は称賛に値するものである。
最後のひとつ――つまり最初にポケットに押し込んだのは紙きれだった。汚らしい歪んだ字はタクトの名を刻んでいる。当然ながらこれも真っ二つに破けているわけだが、片割れがすぐそばにあったので両方を持ってきたのだった。
タクトはわざわざ裂け目を重ねてセロテープで留めた。多少のずれはあったけれども、名前を読むには十分だった。これを母親に突きつけて、なにが書いてあるのかを目で追わせれば、母親にだって状況は理解できよう。
アヤメはタクトの考えに賛成しなかった。呪詛を願う理由を問うのにモノは必要ない、と訴えたけれども、タクトは耳を貸さなかった。タクトは母親の存在をいよいよ無視できなくなったのだった。対峙しなければならなかった。
対峙する、というタクトの考えにもアヤメは首を傾げた。その者のことは放っておかれるのではないのですか、というアヤメの問いかけはもっともらしかったけれども、タクトにとっては、しかし全く別の問題だった。呪詛として取り扱うつもりは毛頭ないけれども、何度もののしられたりぶたれたりしてきた身としては、その真意を明らかにしておきたかった。単なるかんしゃくやらヒステリーのレベルでは収まらず、呪詛にまで手を出してしまったのである。
いつでも母親にわら人形の紙切れを突きつけられるよう懐に忍ばせて臨む夕食はハンバーグだった。母親がこねたお手製のハンバーグには、いつも醤油色の大根下ろしが申し訳なさそうに乗っている。つけあわせのない、さらに大根下ろしの帽子をかぶったハンバーグだけの皿。母親が作るハンバーグはいつもこうだった。けれども、母親に常日頃から酷な扱いをされていても、母親を母親だと認めたくなる気分にさせるのがこの味気ない見た目の料理だった。遠い昔、サチ姉がこのハンバーグをおいしいおいしいと言いながら食べるのを目にしてから、タクトもまた好物となったのである。
貧相なハンバーグの端にタクトははしを入れた。はしを経て指の腹に感じる固い抵抗感はややごわついていて、なめらかな柔らかさとは程遠かった。けれども、それこそが母親が手ごねで作ったハンバーグの感触だった。けれども、半分ほどハンバーグの身にはしを入れたところで、妙な固さがはしに触れた。生物的な固さ――魚の骨や動物の骨といった類のしなやかさをもあわせ持つそれではなく、触っただけで弾かれてしまう感さえあるような、金属的な固さだった。
タクトはハンバーグをまっぷたつにしてそれぞれを引き離した。そこで目に入ったのは、部屋の明かりに鋭く光る金属だった。はしでほじくりだしてみれば、折られた針だった。縫い針かまち針かは分からない。いやな予感がしてハンバーグをめちゃくちゃに崩してみれば、針の先端を五つ掘り出した。どれも短く折られていて、爪の長さほどしかなかった。皿の隅に並べて分かったのだが、全てが同じ長さにそろえられていた。
それに気づいた母親は、あたかもそれがピーマンかなにかのように声を激しくした。自分の作ったものが食べられないのか、残さないで食べなさい、まるで好き嫌いの激しい子供に対する言葉ではないか。なにより、母親が口にしているのは針に対してである、飲み込んだら最後、病院行き間違いなしの食材だ。ちゃんと食べろ、厳しい命令口調の言葉は間違いなくタクトを殺しにかかっている。
父が遠回しに――直接的でもよいのに――苦言を口にすると、たちまち母親は激高した。あんたは黙ってろ、と身も蓋もない言霊で父をはねのけてタクトと対峙した。食えよ、食えよ、食えって言っているだろ。タクトめがけて押し寄せる嵐。タクトは大波と暴風の間でも穏やかさを取り戻す、一瞬のタイミングを探った。母親は、時々テーブルをたたきさえもした。
早く食べろ、とテーブルを打ちつけたその一瞬に波間を見出した。タクトは、じゃあさ、と言葉を割り込んで、名札を母親の前に滑らせた。母親がタクトの言葉をかき消さんばかりにののしるけれども、札を見るなりぱたりと言霊が失せた。身を乗り出してする凝視は札が燃えてしまいそうなほどで、タクトへと持ち上がる視線もまた熱を帯びていた。目を真ん丸にしてタクトを見ればたちまち顔が赤くなった。
母親は紙をわしづかみにすると、手中ですっかりクシャクシャになったものを顔の前で伸ばして、どうやら丁寧に確認しているらしかった。どこで手に入れた、札に目が釘付けになったまま母親は言った。これをどこで拾った。
タクトはありのままを返した。そいつをわら人形につけて、境内でグチャグチャにしていただろ? タクトの口のタガがついに外れて、ここで本題を切り出すこととなる。俺のなにがそれほど憎いんだ、どうして呪いを願うのだ。
母親は札を投げ捨てた。腕の激しい動きに反して名前はゆらゆらと中空を揺らいで落ちて、テーブルの陰に消えた。札が見えなくなった代わりに視界に現れたのは包丁で、札を投げ捨てたその手で柄を握りしめ、切っ先をタクトに向けていた。
タクトはさらなる追い討ちの言葉を投げつけた。神様に殺してくれって願っても叶えてくれないから自分でやろうっていうのか。口は抑えるものを知らず、口からあふれ出す怒涛に任せた。なにが不満なのか、どうしてタクトにはきつい仕打ちばかりをしてきたのか、サチ姉ばかりひいきしている理由はあるのか、サチ姉になにがしたいのか。積年の思いがあふれ出す中、向けられた包丁が下を向くことはなかった。
父が席を立とうとすると、母親は刃を父に素早く向けた。なにもするな、少しでも動けば容赦しないぞ。あんただってあのことは知っているだろ。父はわずかに浮かんだ尻をイスに戻してしまったけれども、母親をなだめようとした。しかし母親は聞く耳を持たないで、父の声をかき消さんばかりに声を荒げた。サチを祟りなんかで殺させるものか、そのためだってあんただって分かっているだろ。
じゃあ、祟りで死ぬことが分かってたのに、どうしてサチ姉を生んだんだよ。
母親の言葉に触発されたタクトのつぶやきが母親にはよっぽど衝撃を与えたらしい。父に向けられていた刃がタクトに戻されたかと思えば腹めがけて飛び込んできた。タクトがちょいとよければ、母親はタクトの横を滑りぬけて壁にぶつかって、鈍い音があたりに響いた。だが母親は何事もなかったかのように振り返り、タクトに突進した。それをよける姿はさながら闘牛士であったものの、母親は牛ほど利口な動きをしなかった。タクトを失った包丁はそのまま台所に突っ込んで、上にあったコップをいくつか倒してしまった。
サチの周りをうろちょろするお前は邪魔だ、母親が叫んだ。タクトを刺そうと勢いをつけたものの、しかし父が母親の手首をつかみあげた。離せ! と腕を振り回して抵抗する母親だったが、父の力から手首を引き離すことができなかった。
部屋に戻っているように、だれも入れないようにしておくように。父はタクトにそう言いつけながらも、鬼と闘っていた。手を幾度となくテーブルに叩きつけられている母親は、それでも包丁を離しはしなかった。父の手から自由になろうと暴れて、タクトを殺そうとおぞましい目を向けていた。サチがどうなっても死なせはしない、私の娘は生きていく、私の娘になにかしようとする奴なんか殺してやる、とののしってきた。