対峙
道路に出て周辺を探して回ったけれども、サチ姉が歩いた痕跡らしきものは見つからなかった。部屋に戻ってからもアヤメの着物が話題になるわけでもなく、ただ無口に眠たくなるのを待つだけだった。アヤメも部屋でおとなしく正座していて、どうやら使いのわら人形となにかしていたようだけれども、タクトはなにをしていたのか知らなかった。知ろうとしなかった。ヨシワラにどう話をするのかをずっと考えていたからだった。
タクトは学校ではヨシワラに話しかけず、ずっとその姿を見守るだけだった。どれだけヨシワラに話しかけられる機会があったとしても、タクトは後ろ姿を眺めるに終始した。どのタイミングで話しかけるのかは説得の思考には一切含まれていなかったけれども、当然のものとして考えていた。学校で人殺しを願うななんてとてもじゃないが口にできない。だれもいない、事情を知っている人だけがいる環境で話をしなければならない。
ヨシワラはタクトの予想通り、正面にこんもりとした森が待ち構える道をまっすぐ進んでいた。ヨシワラのおおむね十メートルほど後ろをタクトが歩いていて、半歩後ろにはアヤメがついてきていた。アヤメは牡丹をまとっていて、しかし肩は、はだけているとはいえないけれども、少しばかりずれていた。
参道の階段を下ってゆくヨシワラの頭を見下ろしながら、鼓動が強くなるのを感じた。刻一刻と迫るそのときを前にして、体の動きに違和感までも感じるようになる。これからタクトはヨシワラと闘う。殺人の願いを取り下げるという一点において、恐ろしいほどの言葉真を吐き出した張本人と対峙しなければならない。生まれてこのかた一度もやったことのない戦いを前に、一種の怯えを覚えていたのである。怖い、なにを言われるか分からない。もしこれでヨシワラの願う相手にタクトが付け加えられてしまえば、タクトはヨシワラを殺さなければならなくなってしまう。
ヨシワラが大岩の踊り場に足を下ろした瞬間、ぱたりと脚を動かさなくなった。あわててタクトも足を止めた。鼓動が一気に跳ねあがる。境内に入ったところで声をかけようと考えていたタクトはまだ心の準備ができていなかった。このあと数分もしたら対峙しなければならないのに、振り向かないでくれ、と心の中でつぶやくほどだった。
ヨシワラはタクトの望み通り、振り返らなかった。けれども、動きもしなかった。左手にある階段に目を向けもせずに、眼下に広がる白砂利のコントラストをじっと見据えているようだった。
私の後をつけてるのはだれなの。
しんと静まり返った参道に響く声はタクトに鋭い刃を突き立てた。なにごともなかったように歩きはじめないで、疑いを確かめようと振り返りもしない、背後にストーカーがいるのを分かっていて、ついに口を開いた。距離を保って緊張しながら歩いていたあのとき、ヨシワラはすでに気づいていたのだ。
だれなの、警察に通報するぞ。ヨシワラは語気を荒げて振り返った。その瞬間のヨシワラは、眉間やら目つきで不快感をもろに醸し出していたけれども、次の瞬間には、眉間に寄ったしわがたちまち伸びて、睨みつける目も幾分か柔らかくなったようだった。どこかで見覚えがあるようね、と話すところ、同じ高校なのは分かっていても、クラスメイトだとは分かっていないらしい。
「文目タクト。同じクラスの」
「そんな人がいたかもしれないね。で、そのアヤメくんはどうして私のあとをつけてたのよ。ストーカーをする変態なの?」
「そうじゃない。別の要件。あと、名字の方じゃなくて、下の名前で呼んでくれ。いろいろとわずらわしいから」
どうして名字で呼ばれるのがわずらわしいのかヨシワラには理解できなかったらしい、階段を下りている途中にどうしてなのかを尋ねてきた。アヤメという神がすぐそばにいるからどっちを指しているのか分からないと説明したところでそれこそ理解されないだろうから、いろいろとあるんだ、と答えるだけにした。
境内の石畳に降り立つのはヨシワラが先で、タクトは数段分遅れての到着だった。今度こそタクトから話を進めようと口を開いたところで、またもやヨシワラの言葉が先に飛びだした。といっても核心を突く話題ではなくて、ほんのジャブ程度の内容だった。タクトだっけ? こうやって話すのは多分はじめてね。
「まあそうだね。俺は友達作りに熱心だったわけでもないし、ヨシワラは落ち着いていて、どちらかというと無口だし」
「存在感がないってことね。私、直な言葉で言われるよりも、遠回しな言葉遣いの方が嫌いだから」
「ええと、その、ごめん」
「謝る必要なんてない。私たち話したことがないんだから」
ヨシワラの人を突き放すような調子にはタクトはとまどった。ひたすらに大人しくて『存在感がない』から、話し口もきっとそういった印象に見合ったとげのないものだと思っていたのが、全くの正反対だった。とげとげしくて、なんでもないような相槌さえも槍やら矢に変えてしまうような気がした。
「じゃあ、ストレートに言うけれど、俺がヨシワラに話をしようと思ったのは、ヨシワラがここに来る理由を知っているから」
「どうして知ってるのよ」
「つい最近、ここの管理を任されたんだ。それで、整備をしに来てるときに、たまたまヨシワラが来て、願った」
「私が来たときにはだれもいなかったけれども」
「そりゃあ隠れてたんだから分かるわけがない」
「悪趣味ね、覗きといいストーカーといい」
「悪趣味とはひどいな。全部ヨシワラの願いが原因なんだからな」
「願いを知ってるのだから余計に悪趣味」
ヨシワラは祠に向かって歩きはじめて、正面で向き合うと、お辞儀を二回した。ここに来るヨシワラは礼拝をするのが習慣となってしまっているようだった。願ったところでできるのは呪詛の成就だけだ、すでに呪詛は確定したところで同じものを願ったところでなんの意味もなかろう。
ヨシワラは言霊が呪詛となったのを知らないはずである。やはり自分が願う寝取った女を殺すのを必死に言葉にこめたのかもしれない。タクトには全く分からないものの、少なくとも、振り返ったヨシワラの顔はどこかすがすがしくて、タクトにはそれがひどく奇妙に思えた。どうして人を殺したいと願う人が、頭を悩ませることがらから解放されたような表情をするのだろうか。
ヨシワラがどこまで知っているのか、と問いただすのはごく自然なことだった。この点においてタクトが隠すことはなにもない、洗いざらい口からぽろぽろ吐き出した。静かに願っているのがトモなる人物の死であること、ヨシワラが祠に捧げた残虐な人形のこと、もちろん、校舎の裏で言い争う声も打ち明けた。激しい口論まで聞かれていたのは予想外だったのか、ヨシワラは驚いてはいたものの、ほかのところでは一切の反応を示さなかった。
打ち明けた次は、ヨシワラから話を聞き出す番だと思っていても、タクトが確かめておきたいのは一点だけだった。人形に張りつけられて引き裂かれていた人の名前、トモとはだれなのか。ヨシワラのカレシを寝取ったトモとは一体誰なのか。
ヨシワラは急に眼に涙をにじませて、寝取ったって言わないで、と目を押さえながらも言葉にした。
「ナカムラトモコ、隣のクラスで、私の友人だった人。今は友達なんかじゃない」
「つまり、カノジョの友達に手を出したってことか」
「タクがトモに手を出したのかもしれない……いいや、そんなのどうだっていいの。私にひどい仕打ちをしたんだから」
「まさか、その、タクってのはカレシか? そいつも殺してほしいって願うつもりだった?」
「殺したくないわけないじゃない。私は本当に好きだったのに、タクは結局体が目当てだったってことじゃない」
「そりゃあ、そうだろうけれど」
ヨシワラの目がウルウルしている様子を目の当たりにして、タクトは早くも心が折れそうになっていた。イメージトレーニングでは簡単に相手を説得する姿ばかりが浮かんでいたけれども、相手は涙ぐんでいなかったし、カレシをも殺したいと考えてはいなかった。どうして簡単だと口にできるのでしょう、アヤメの言葉がいかに的を得ているのか、いざ説得するという頃合いになってようやく感じ取ったのだった。
それでタクトはなにをしたいの、アヤメの言葉がさながら追い討ちをかける屋の弾幕のように思えた。
「まさかただ話がしたかったっていうんじゃないだろうね」
「それは、その、その願いを、取り消してくれないかな」
「願いを取り消すって、どうやるの?」
「ええと、それは、どう言ったらいいのかな、心の底から相手に対して恨みが消えればいいんだけれども」
「タクト、あんたバカじゃないの? 私がどんな仕打ちにあったか知ってるんでしょ。なのに、心の底から相手への恨みが消えればいい、なんてどの口が言うのかしら」
「ごめん、でも、なにか納得できるところがあると思うんだ」
「そんな簡単な話があるわけがない。私はあいつらに裏切られた、貶められた。私になんの非もないのに、どうして妥協しなきゃいけないの」
「ヨシワラが呪詛を願ったから」
「願っちゃいけないならどうして祠があるの? 神様だったらなんだってしてくれるんでしょ? だったら私の恨みだって晴らしてくれるでしょ」
ヨシワラの反論はもっともだったし、アヤメと出会っていなければタクトだって同じように考えていた。神様なんて人智を超えた存在、そりゃあ人間じゃないのだからなんだってできると思うのが常である。願った社がたまたま呪詛を専門にする神の住処だったにすぎない。ヨシワラはおぞましいほどの恨みを成し遂げるために、神を頼ったのである。
神を頼るほどなのだ。ヨシワラの願いは、人の手ではどうしようもない、神に頼らなければ成し遂げられないような願いごとなのだ。人にはない力を持っているタクトであっても所詮は人間、なにをやっても、呪詛をいじくり回せはしないのではないか。タクトは薄々にしてようやく限界点に気づきだした。
「ヨシワラの願いは、呪詛としての条件を満たしたらしい。ここの神がそう言っててね、それで俺はその呪詛を実行に移さなきゃならない」
「言ってて、って、あんた、霊能力者?」
「神の代わりに実行に移す役目なんだ、やり取りするぐらいはするさ。そんで、実はと言うと、俺は呪詛を実行したくない。だから、円満に解決してくれないかなと」
「あんたがやるのなら早くして。呪詛の条件はよく分からないけど、神様は認めてくれたんでしょ? だったら早くトモを殺して、それがうまくいったら、タクのこともお願いするから」
「ヨシワラ、いいか、今危ない状況にあるんだ。ヨシワラの願いをそのまま実行すれば、そのトモとやらが死ぬ。一方で、俺は呪詛の実行を拒むことができて、そうすると、行き場を失った呪詛は願った本人に帰る。つまり、ヨシワラが死ぬ。かならずどちらかが死ぬ状況で、俺はこの状況をなんとか切り抜けたいんだよ。だから、解決してほしい、具体的に言えば、願うなら人を殺さない程度のことにしてほしいんだ」
ヨシワラは腕を組んで考えるようなそぶりをしたけれども、考えているわけではなくて、単にタクトを威圧するための前準備だったらしい。タクトの真ん前にずんずんと腕組みをしたまま迫ってきて、目と鼻の先まで顔を近づけてくる。学校の後姿とは全く異なる、まるで巨人のような存在感がタクトを覆わんとしている様子に、学校の姿は仮の姿であって真の姿はこの巨人なのかもしれないとおののいた。タクトを押しつぶそうとしている圧迫感の中で、ヨシワラが口にしたのは、ひどい目を受けたのは私なのにどうして私が死ななければいけないのだ、もし私を殺しでもしたら一生祟ってやる、最低でも死んでほしいから和らげるなんて論外。
「神様とやり取りできるのかどうか知らないけれど、あんたが殺す役目ならちゃんと仕事をしてちょうだい。職務放棄でしょ」
「そこをなんとか。ほら、殺すよりも生かしたままじめじめ苦しめた方がよっぽど苦しめられると思うんだけれど」
「それでも、アイツが生きてるってことがいやなの。分かる? 苦しむ苦しまないじゃなくて、私の気が済めばそれでいいの」
ヨシワラは組んだ腕をほどくなり肩を叩くと、ちゃんとやってちょうだい、と耳に吹き込んでタクトの視界から消えた。背後から小走りのリズムで石階段が鳴った。