記憶消去
「どうせ、ここで颯ちゃんとの関係も無くなるんだから、ね」
「……………え」
僕は真奈ちゃんからの予想外な言葉に声を失う。
言葉の意味を理解したくなく、思考が停止する。
そんな僕の反応を見て、クスリと笑う真奈ちゃんは、ソファからやおら立ち上がり、僕の前へと歩み寄る。
「別に驚く事じゃないと思うよ。颯ちゃんは色々と知り過ぎた。魔族の事、魔界の事、|私《魔王》の事……色々とね。そこまで知られた以上、颯ちゃんをそのまま帰すわけにはいかないよ」
そう言いながら真奈ちゃんは僕の額に手を当て、呟く様に詠唱を始める。
思考を停止していた僕はハッと我に帰り、横へと体を倒してソファから身を投げ叫んだ。
「な、なにをしようとするんだ真奈ちゃん! も、もしかして、僕を殺すつもりなの!?」
映画や漫画なので、組織の機密情報を知った人は|消される《殺される》のが定番だけど。
違うらしく「やれやれ」と真奈ちゃんは両手を挙げて竦める。
「別にそうしてもいいんだけど。魔王の私もさすがに、一度は恋人関係を結んだ相手を手にかけるのは、やぶさかなものだから。颯ちゃんの記憶を少し消させてもらうんだよ」
命は助かったと分かっても、僕の溜飲は下がらなかった。
「記憶を消すって……どこからどこまでを……?」
僕の問いかけに、真奈ちゃんは顎を指で叩き、
「そうだね……。付き合いだした当初にして、また同じことを繰り返されても困るし。多分、私と颯ちゃんが付き合い出す前まで、かな」
「それって……つもり」
不安に染まる表情の僕とは対照的に、悪戯笑顔で真奈ちゃんは僕の顎を指で軽く触れ、
「ご明察。私と颯ちゃんの恋人関係も解消させてもらうよ。そうしないと、色々と不自然だからね。学校の人達の記憶も後で適当に改竄しないといけないけどね、めんどうだけど」
妖しい笑みを浮かばす真奈ちゃんの表情に躊躇いの色は見えなかった。
僕は固唾を呑み込み言葉が出なかった。
不安と恐怖な僕の心情を読み取った真奈ちゃんは、
「そう悲嘆するないよ。だって、全てを忘れるんだから。短い間だったけど、私と付き合えたこと、全てを」
そう言って真奈ちゃんは僕の両頬に手を伸ばす。そして、小さく悪魔の様な笑みを浮かばし。
「なんなら、私を好きだった感情も消してあげようか? ……いや、そもそも私自体を綺麗さっぱり消してあげた方が、颯ちゃんは安心できるかもね」
「――――そんなんで安心できるわけないよ!」
震えてた唇は止まり、グッと唇を噛み絞めた僕は、激昂立てて真奈ちゃんを突き飛ばす。
突き飛ばされた真奈ちゃんはよろめくが、足を踏ん張らせて転ばず。
逆に、突き飛ばした僕が床に尻餅を付く。
僕の行動が主への冒瀆だと感じたホロウさんが腰に下げる西洋の剣を抜剣しようとするも、真奈ちゃんが横に手を伸ばし制止する。
尻餅を付く僕は立ち上がり、糾弾する様に申し立てた。
「これは言い訳になるかもしれないけど! 僕が魔界に来た事は僕の責任でもある。……けど、色々と魔界の情勢を教えてくれたのはそっちなんだよ!? 僕に何の罪があるっていうのさ!」
僕の叫びは広々とした部屋全体に響き渡り。
それに答えるべく真奈ちゃんは口を開く。
「確かに、勝手に魔界の事を教えたのはこっちだから、颯ちゃんは何も悪くないかもね」
その言葉に希望を持つ僕だが、真奈ちゃんは「けど」と言葉を続ける。
「そもそも、私はホロウに颯ちゃんの対応を任せたのも、それはただ適当に談話をしてもらう程度だったはずだよ。色々とこちらの事を話せとはまで言ってないはずなのに。それがなければ、私も話す必要のない事を話さず済んだのにね」
真奈ちゃんは横目でホロウさんを睨む。今のはホロウさんに向けられた言葉にも感じられた。
僕からは分からないが、真奈ちゃんの目から殺気に似たモノを放っていたのか、ホロウさんは萎縮して震えている。
ホロウさんから視線を変えて僕の方へと向けられる。
「けどね、颯ちゃん。確かに魔界のことを話したのはこっちだけど。そもそも、颯ちゃんが|魔界《こっち》に来た時点でこの処遇は決まっているんだ。だから、それは釈明にもならないよ」
僕の縋る言葉を冷たく一蹴する言葉。
けど、真奈ちゃんは少しだけ悲しげな表情を覗かせる。
「さっきはホロウに責任転嫁した言い方をしたけど。元を辿れば、私がもう少し警戒しとけば防げた事故だったよね……。だから、正直な話私はかなり心苦しんだよ。颯ちゃんの記憶を消すの……」
真奈ちゃんの悲痛な言葉に心を折れ様としたけど、やはり引けなく、
「な、なら記憶を残――――」
「そうだとしても、それは出来ない事なんだ」
真奈ちゃんの遮っての発言に、僕はすぐに言い返す。
「なんでさ! 少しぐらい考えてくれてもいいじゃないか!」
「私だって、できることなら記憶を残してあげたい。けどね、颯ちゃん。これでもかなりの寛大な処遇なんだよ? 私は、相手が颯ちゃんだから温情で生きて帰すことにしてるけど。もし相手が颯ちゃんじゃなかったら……|殺してるよ《・ ・ ・ ・ ・》」
地を這うように低く、躊躇いもなく言い放った真奈ちゃんの言葉は、僕の胸を穿つ。
魔王たる鋭い眼光に、僕の膝はがくがくと震え、緊張で喉が渇く。言葉さえもあげる事ができない。
これが魔王の威圧。立っていることさえもままならない。今すぐにでも逃げたいとさえ思える。
だが、逃げるという事は真奈ちゃんに記憶を消されるのを認めるって事になる。
震える唇をグッと噛み絞め、乱れる呼吸を整えてから、僕は口を開く。
「……確かに、こんな重大な事を知った僕が、記憶を消されるとはいえ生きて帰れることは不幸中の幸いなんだろうけど。……けどやっぱり、僕は絶対に忘れたくない! 忘れたいとさえも思いたくないよ!」
相手は魔族の長である魔王。だけど、僕は一歩も引かずに叫びたてる。
それに真奈ちゃんは呆れた様に溜息を吐き。
「確かに颯ちゃんの気持ちは十分に伝わった。けどね。さっきも言った通り、魔族の事や魔界の事を知った颯ちゃんを、このまま帰すわけにはいかないの。お願いだから分かってほしい」
僕の記憶を消すためか、じりじりと僕に詰め寄る真奈ちゃんに負けじと僕も言葉を返す。
「そうだとしても……。僕は絶対にこの事を他言しない。誰にも話さず、ずっと胸の内に隠し続けるから……だから」
「無理だよ」
言下と共に蹴落とす真奈ちゃんの眼は真剣そのものだった。
僕が突き飛ばした距離を詰め寄り、僕の眼前まで来た真奈ちゃんは振り仰ぎ。
「私は魔王。魔族の王であり、全ての魔族を守る責務がある。だから、人間である颯ちゃんに魔族の存在を覚えててほしくない。これは、魔族を守るためなんだから」
「だ、だから絶対に隠し通すって言ってるじゃないか! 僕は絶対に秘密を――――!」
「その言葉を信じられると思っているの? これはただの口約束じゃすまない。魔族の存亡をかけた事なんだよ?」
声を荒げる僕に諭す様な口調の真奈ちゃんが言った一言、魔族の存亡。
そんな重大な事の前に、僕のはただの我儘に過ぎなかった。
「じゃあ……どうすれば……。僕は、真奈ちゃんの事、忘れたくないよ」
「ごめんね、颯ちゃん。私だって、本当はこんな事はしたくない。けどこれは全ての魔族の為なんだ。だからわか――――」
僕の額に伸ばす真奈ちゃんの手が、寸の所で止まる。
真奈ちゃんは何か思いついたのか、考え込む様に顎に手を当てる。
考え込み、思い浮かんだ様子で、それを確認する為にホロウさんの方へと振り返る。
「ねえ、ホロウ。魔界規定に、人間を|僕《しもべ》にするのを禁ずるって在ったけ?」
「……え? い、いえ……。魔界規定にその様なって、もしかして魔王様!?」
真奈ちゃんの意図が読めたのか、ホロウさんが声を張り上げると、真奈ちゃんはご明察とばかりに妖し気な笑みを浮かばす。
「ねえ颯ちゃん。もし、その願いが条件付きで叶うって言えば、颯ちゃんはどうする?」
「ほ、本当に!? どうすれば僕は記憶を消されずに済むの!」
僕は藁にも縋る気持ちで聞き返す。
真奈ちゃんは妖艶な唇に指を当て、キラリと赤く光る眼光を向けて言った。
「それはね――――颯ちゃんが|魔王《私》の側近になるってことだよ」