2:排莢
「イリーナ司教補佐。うら若い乙女が、夜、独り者の男の部屋を訪ねるものではありません。人聞きが悪いでしょう?」
〈大司教〉ウィリアム・ボードナーは、西方出身者には珍しいブラウンの短髪を無造作にかき上げ、眉の両端を下げた。深夜の突然の来訪者に困惑する彼は、部屋に一つの椅子を来訪者に譲り、室内を落ち着き無く歩き回る。
光源を節約した狭い部屋だ。物欲は薄く――テレビもPCも無い――数少ない趣味の読書は教会図書館で行う清貧の性質が故、ウィリアムの部屋は色彩が乏しい。その中にあって来訪者の少女は、自ずから光を発する恒星の如く、部屋を眩く思わせる存在感を示している。
「申し訳ありません。けれどどうしても、お耳に入れたいことがあります」
イリーナ・ドラグーノヴァ。教国北方の姓名を持つ少女。生まれこそは首都であるが、積雪に紛れる獣を追う為の白い肌も、日照の恩恵を逃さぬ為の黒い髪も、そして風雪の隙間に覗く空を思わせる水色の瞳も全てが北方人の特徴そのもの。足首まで届く丈の、黒い教服姿に、首から下げる〈六晶紋〉のネックレスの白銀が、真冬の空に星が浮かぶように輝いている。
〈六晶紋〉のネックレス――つまり彼女は、〈聖マリヤヴェーラ大学〉に籍を置くものだ。そうでありながら司教補佐の位階にある才媛の誉れも高き少女は、その瑞々しい若さに満ちた美貌に、憔悴の気配を漂わせていた。
「助命嘆願、でしょうか」
「……はい」
前置きをせず、ウィリアムは率直に訊く。イリーナは視線の角度を僅かに落とし、喉から声を絞り出す。普段はウィリアムの話の速さを好ましく思っているイリーナだが、今この時ばかりは、覚悟を決める暇さえ与えられぬ苦しさを感じた。
「アデラは、ユーリヤ・ミハイロブナ枢機卿を殺していません」
「その話はもう聞きましたね、イリーナ。そしてその度に、私は答えを返しているはずです」
「……〝貴女を信じる。けれども証拠が否と語っている〟ですか?」
「その通り。靴の跡、刃の血を拭ったのだろうハンカチ、置き去りにされたナイフ、その全てがアデラに繋がるもの。そして彼はミハイロヴナ枢機卿の返り血を浴びたまま、枢機卿の私室で捕縛されました。まるで殊更、自分が犯人であると知らしめるかのように」
ウィリアムは室内を、檻に閉じ込められた犬のように歩き回る。時折、脛がテーブルの脚やベッドの角を打つが、痛みは無いのだろう、けたたましい音を鳴らしながらも、速度が緩むことは無い。
考えているのだ――と、イリーナには分かった。
ウィリアム・ボードナーは、イリーナ・ドラグーノヴァの直接の師である。彼が何か、複雑な問題に頭を悩ませる時は、いつも同行者が追いつけないほどの早足で歩くのだと知っている。
白髪に覆われた頭蓋の内で、教国の宝と称される明晰な頭脳が、問いに解を返さんと駆動している。やがてウィリアムは、イリーナの正面で立ち止まり――床に膝を着いて、椅子に座したイリーナと視線の高さを揃えた。
「イリーナ。師としてではない。友人として、そして教国に住む狡い成人の一人として忠告します。貴女には才能があり、輝かしい未来がある。十年後には枢機卿の席にいるだろう貴女が、今、躓く必要はありません」
「それは――アデラを救うな、ということですか」
「はい。神聖裁判の結果に意を唱えるとは即ち、異端の公言に他ならない。……残念ながら、刑の執行を妨げる術はありません」
「ですが……!」
諦観に満ちた師の額に、額を付き合わせるように身を乗り出すイリーナ――
「イリーナ、もう一度言います。刑の執行を妨げる術〝は〟ありません」
ウィリアムの右手が、イリーナの顔の前にかざされる。そして彼は、虚無の微笑――諦めと嘆きと、きっと全てが悪い方向に向かうだろうという確信、それらが混ざった悲しい笑みを作った。
「――先生、分かりました」
稀代の才媛たるイリーナは、位階を得てより用いることの無かった数年前の呼称で応じる。そして、学び舎にて神学の問いを与えられて答えを見つけた時と同じように、だがその時のような誇らしさも無く、言った。
答えは得た。すべきことは、最初から決まっていた。
椅子から立ち上がったイリーナは、室内を見回して時計を探した。部屋の角、机の端に乗った小さな時計は、まだ来訪から十分も過ぎていないことを示している。
まだ間に合う。内開きのドアを開けたイリーナは、きゅっと床を鳴らして振り向いた。ウィリアムが部屋の中央に立ち、イリーナへ、〝理解し得ないもの〟を見る目を向けている。
「なぜ、アデラに固執するのです、イリーナ。あの子がミハイロブナ枢機卿を殺したのだと、本当は分かっているのでしょう?」
「……ウィリアム大司教、相談に乗っていただき、ありがとうございました」
分かるまい――黒髪の才女は心中で呻いた。
〝貴女のように全てに恵まれたものが、何も持たないアデラ・アードラーに何故固執するのか?〟
幾度も問われたことだ。その度に、鏡を見て整えた、最高に自然な困り顔を浮かべて、首を傾げてやり過ごした。
「ユーリヤ・ミハイロブナ枢機卿は、貴女のお母様ではありませんか」
イリーナの奥歯が、ぎぃ、と軋む。歪んだ顔を見られぬよう、頭を深く下げたまま後ずさり、ドアを閉めた。
気付けば、噛み締めた犬歯が唇を破っていた。舌を濡らす血を飲み込み、イリーナはブーツの踵を鳴らして廊下を走る。
必ず救うと決めていた。
――アデラだけが、私自身に触れてくれたからだ。
――愚かしく腹立たしく、憎い、あの
教皇庁地下に存在する牢獄は、その存在を公表されていない。神の教えに生きる者の中でも、際立って清廉な者達のみが踏み入ることを許される教皇庁に、罪人など存在し得ないからだ。
だが――そんな〝建前〟とは裏腹に、不錆鋼の鉄格子と、乾き切った煉瓦の壁は、確かな実体として存在する。
この獄に落とされた者は、教国の暗部を垣間見ることとなろう。獄卒は罪人――額に呪言の刺青を施され、二度と地上へ帰ることは無い、餓えた獣にも等しい者達。アデラ・アードラーが、背丈の割に華奢な骨格と平均に比して明確な美貌を持ちながら獣の牙を受けていないのは、皮肉にも〝悪魔〟と揶揄された異形の眼が為であった。
地下の獄の隅、獄卒さえ好んでは立ち寄らぬ牢の中、苔むした床の上に、アデラは座していた。
快適な空間とは言い難いが、どうせ死を待つ間の、ほんの数日だけを過ごす仮宿だ。雨風が吹き込まず、寒暖に悩まされないだけでも良いと、無欲故に妥協し、不平もこぼさず今に至る。
地下牢獄に祈りの声が響く。静謐を揺らす清らかな声を、獄卒は悪魔の声と恐れて耳を塞ぐ。
――その声を辿り、足音が近付いて来る。高いヒールが床をうつ、かつ、かつと鳴る足音だ。教国で踵の高い靴を履くのは殆どが女性。必然、来訪者は女性であろうと目処をつける。
「どなたですか? ここは少々――その、穏やかではない場所ですよ」
女性が訪れるには危険な場所だと、足音の主に言う。応じる声は無い。ややあって牢の鉄格子の前に立ったのは、獄の闇より暗い黒髪の少女。首に下げた白銀の〈六晶紋〉のネックレスは、彼女の所属組織を如実に示すものであり――
「なぁんだ、イリーナか」
「……なんだ、って何よ」
イリーナ・ドラグーノヴァは、鉄格子を挟んでアデラと向かい合うように、薄埃の積もる石床に腰を下ろした。アデラの顔に、万人向けの慈愛の笑みではない、打ち解けた間柄だけの悪戯っ気が混ざった笑顔が浮かぶ。
「だってイリーナなら危なくないから。……ちょっと待って、乱暴なことはしてないよね?」
「しないわよ、ちょっと無礼を咎めただけ」
「あちゃー」
獄の入り口の方に視線を向け、冷笑するような友人の姿に、〝またか〟とアデラはうめき声を上げる。
何が有ったか大方の予想は付く。外面の良い才媛、イリーナ・ドラグーノヴァは、しかし無礼者に対しては酷く手厳しい――友人にその無礼が及んだ時には特に。聖マリヤヴェーラ大学にて、アデラの眼を化け物と蔑んだ上級生に、衆目の中で平手打ちを食らわせたことは記憶に新しい。……その平手打ちの威力が少々強すぎた為、当の上級生は、差し歯を二本入れる羽目になったことも。
罪人への面会自体は、特別の許可を取ってのものではあったが、その過程で無礼な獄卒に因果を思い知らせる程度、イリーナ・ドラグーノヴァは表情も変えずに成し遂げただろう。
「変わらないよね、イリーナは」
過去を懐かしむように眼を細めるアデラ。大学の日々から離れてまだ数日だと言うのに、平穏な日常が遠く昔に思える。
「あなたも変わらないわよ、アデュー。お行儀良くて、優しくて、優しすぎて、お人好しの度が過ぎて――」
肩を縦に揺らして笑うイリーナ。その声が、次第に、喉に引っかかるようになる。
「――逃げれば良かったのに、なんで」
棘を飲んだような、苦しげな声。鉄格子に額を預けて俯くイリーナの背を、格子の隙間から伸びた手が抱きしめる。
「だって、殺したのは僕だから。悪いことをしたら、必ず裁きがあるんだよ」
「悪いことなんかしてないじゃない! だってあなたは、私を助けて――」
「違うよ、イリーナ」
言葉こそ否定であるが、優しい声。背に触れる手の暖かさを感じながら、黒髪の才女は縋るように顔を上げる。
「僕は逃げたんだ。君の苦しみを、近道を通って解決しようとした。君が苦しむ姿を、見続けられる勇気が無かったから……僕の臆病さが、君のお母さんを殺した」
「あんなの、母親だなんて思わないわ! あなたが殺さなかったら、いつか私が殺してた――絶対にっ!」
「そうだろうね。……僕は、それを思い直させるべきだった。君がお母さんを許せないうちに、君からお母さんを奪うべきじゃなかったんだ――ごめん」
「謝らないでよっ!」
がん――鉄格子をイリーナの額が打ち、その音が地下牢に反響する。衝突点から血が滲み、二人の首飾りを濡らした。〈学徒会〉の日々の記憶までが紅く穢されて行くような、不穏な暗示を、アデラは感じた。
「謝るなら逃げてよ! どこかの島でも山でも、私を連れて逃げればいいじゃない!」
「……ごめん。でも、それじゃあ君までが罪人になる。ねえ、イリーナ、僕は君が幸せで居てくれないと駄目なんだ。死ぬのは怖くない。けれど、君が僕のように石と言葉で追われるのは――辛いよ、とても辛い。お願いだ、僕の為に幸せに生きてくれ。その為に僕は、今日まで生きて来たんだ」
切々たる訴えは、殆ど愛の言葉と同義。人を殺め、やがて自らも死に逝かんとする者の、飾らない心情の告白だ。自己犠牲などという生温いものではない。
駄目だ――この友人を揺らすことはできない。イリーナ・ドラグーノヴァは絶望と共に知る。
信仰と忠誠。歪み壊れた心を正した二本の柱は、もはや、その柱をもたらした者の声にさえ朽ちることのない不壊の信念と化した。
自分がこうしてしまったのだ。
〝悪魔〟と呼ばれ蔑まれた子供を、自らが〝悪魔〟だと信じてしまった哀れな子は、人間になったと信じていた。その実、生まれたのは信仰の化け物――違う形の悪魔そのものだ。
「……アデュー。私達、ずっと友達よね?」
「うん、イリーナ。ずっと友達だよ」
だから――〝抱えて共に逝く〟他に、もう彼女は術を見つけられなかった。
回した腕の中、か細い体が熱くなり、呼吸が早く小刻みになるのを、アデラはイリーナの背に当てた掌に感じる。怯えているのだろうと思った。しかしそれは、〝罪を為すことへの恐れ〟であった。
「……っ、イリーナ」
首に突き刺さる鋭い痛苦――針。その痛みは、イリーナの袖口から伸びていた。
痛い。だが耐えられぬほどではない。友人の真意を探ろうとすることすら無く、アデラは格子越しの抱擁を強める。
針から注入される薬液。血管を火が走るような熱の錯覚。対照的に凍てつき凍え、拍動を弱める心臓――
「あなたを絶対に殺させない、絶対に一人にしないわ。一緒に地獄に堕ちましょう、ねえ、アデュー……?」
その声が、やけに遠く感じる。体が痺れ、喉が焼け付く。人の体温に触れていたいのに、腕を持ち上げていられなくなる。
霞む目にアデラが見たのは、イリーナが自分自身の首に、アデラから引き抜いた注射針を突き刺す光景だった。
イリーナ・ドラグーノヴァの噛み締めた唇から、伝う血の紅が、いやに綺麗だった。