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 1秒=1時間。
 彼らが地獄の神と取引する時間のレート。
 一方的に押し付けられた救済の使命を果たす為に、世界を置き去りにする代価。
 真白の凍土を睨みつけて、彼らは戦いに備えていた。

「頭は働いてるな!? 手の感覚はあるか!? 武器の使い方を忘れてねえだろうな!?」

 第二次性徴前であろう薄い骨格の少年の、しかして酒とタバコに焼けた声が問う。無色の大地に響く声を拾う者は、友軍が僅かに二人のみ。
 揃いの黒装、喪に服すが如き三人。栄えある〈スパイトベルグ教国〉の最精兵部隊、〈氷の聖母守護騎士団〉の正装である。闇に溶ける黒の意は、〝神の教えの他の何にも染められぬ〟証。黒鉄のブーツ、手甲、鎧。白銀の塗装が描く文様は、雪の結晶を模した六角形の、教国の国旗に用いられる意匠。フード付きのローブは、艶消しの黒の厚い布。
 単騎にて連隊レベルの戦力を誇る彼らの階級は、一名が〈司教補佐〉で一名が〈司教〉、そして〈団長〉が〈枢機卿〉――教国内に枢機卿は僅かに五人。その一人が、この世界の果てに戦っている。
 雪で築かれた城壁の内側である。

「味方は、味方はどこ!? どうしてまだ来るのよぉっ!?」

 ルクレツィア・ジアーナ司教補佐が、半狂乱の叫びを上げた。外見固定年齢は19歳。実年齢――いや、実感年齢、27歳。実用本位に後頭部で纏めた金髪、狂気に呑まれて揺れる青い瞳。彼女の精神は既に軋みを上げ始めている。彼女が喚き散らす声を、少年も、そしてもう一人、白髪白髭の男も苦々しげな顔で聞く。

「団長、私もそろそろ血の滴るステーキなぞ喰いたいところであるがどうであろう、その左腕を我が胃の為に寄付してくれても――」

 クロード・エンリ・ド・ラヴァル司教。外見固定年齢は47歳、実感年齢は89歳。長身痩躯、右手(めて)に血槍、左手(ゆんで)に宝剣。仰々しい名が示す通り、この地獄に落ちるまでは爵位を持つ貴族であった。

「うるせえ、喰わねえでも死なねえんだ! 黙って待て、また来るぞ!」

 そして〈団長〉にして教国に五人しかいない〈枢機卿〉の一人、スティーブ・バニング。騎士団最高戦力。外見固定年齢11歳、実感年齢46歳。黒い瞳はこの世に倦んだが如く、暗い。

「そうは言うが団長、もうこの雪原を百日であるぞ! 雪を溶かした水ばかりでは、ルクレツィア嬢の心が持たぬと――」

「だから分かってんだそんな事はっ! さっさと敵を殺して帰る、それだけだっ!」

 百日――彼らは何も喰わずに戦い続けている。眠らず、休まずだ。〝今回〟の戦場は雪原。時に丘があり、窪地もあるが、しかし丘の頂上から見渡せば、四方全てが地平線まで真白の凍土。太陽も星も無いが、空は薄明るい。
 便宜上、彼らが〈扉〉の内に立った時に正面であった方を西、背後を東とするが、彼らは百日もの間、西から来る敵勢を迎え撃っている。
 〈扉〉をくぐった時、彼らは十人いた。今、雪の城壁の最奥部には、凍りついた骸が七つ安置されている。十日が過ぎた時点で一人が死に、十数日を開けて一人、またしばらくして一人――遂にこの有様だ。
 退路は無い。
 殺到する敵を殺し切らぬ限り、再び〈扉〉が開くことは無い。侵略者の道を閉ざす教国の愛しき防壁は、彼ら〈氷の聖母守護騎士団〉に覚悟を強要する。即ち勝利か死か。
 死とは、諦めである。
 勝利とは、数をも知れぬ異形の群れを鏖殺し、その脳髄を引きずり出して持ち帰ることである。
 団長スティーブ・バニングは雪の城壁の上に立つ――高さ2m、厚さ1m。マイナス5度の気温により凍り付いて、鋼の如き強度。40kgに満たないスティーブの重量では足型も付かない。
 彼は地平より攻め寄せる軍勢を睨む。奇声と共に凍土を駆け抜け、儚き雪の城塞へと殺到する異形の生物の群れ。体感で二十年以上を戦い続けている彼だが、己が無数に殺して来た敵の感情は未だに読めない。

「数えられるか、クロード」

「五百か、六百には届くまい。イザベラ嬢がいれば楽な仕事であったな!」

「あいつは非番だ、仕方がねええ」

 押し寄せる貪欲の群れへ応じるように、スティーブは城壁から雪土へ降り立ち、徒手空拳のままに歩き始める。その隣にクロードが付き従い、ルクレツィアは城壁の内側から狙撃にて援護の段取り――
 銃声。スティーブは振り返らず、クロードのみが首を回した。雪の城壁にもたれ掛かったルクレツィアの頭部から、頭蓋の破片と脳漿が飛び出し、純白の大地を赤黒く穢していた。

「……スティーブ。安置所へ運ぶかね?」

「ほっとけ。もしかしたら生き返るかも知れねえだろ――心が折れてなけりゃあな」

 ことさら吐き捨てるようにスティーブは言ったが、その声音に、その眉に、葬いを望む心情が漏れ出ているのを、体感二十五年に渡って戦場を共にしたクロードは気付いている。
 深く、白い息を吐いて薄白む空を仰ぎ、無色の天蓋から零れ落ちる光の中、幼き姿の主君の傍に在りて。

「誰もが我らのようには居られぬのだよスティーブ、我らの如き屍鬼のようには」

 スティーブ・バニングは――右拳を振るい、敵群から突出した異形の一体を破砕しながら。

「神よ、どうか」

 祈った。

「我らの如きものが生きながらえることを赦したまえ」

 その祈りが全くの無力であり、その祈りが救うものなど何一つ無いと知りながら。




「被告人の罪は決して贖えぬものである。幾度審議を重ねようと我らの結論は変わらない」

「然り。何故なら被告人は既に、その罪を己が為のものと認めている。神の名の元に、己こそ罪人であると宣言している」

「然り。そして、その罪は稀に見る重篤なもの。被告人に我らが与え得るはただ一つ、死を以てする贖罪の道のみである」

 暗くも艶めかしい黒骸石が折重なり形を成す大聖堂。法理の体現者たる裁判官達は、感情を殺した平坦な声で告げる。
 スパイトベルグ教国、教皇庁。枢機卿二名以上の要請を受けてのみ開かれる神聖裁判の場だ。

「神の御心のままに」

 聖堂に満ちた澄清の気を揺らさぬ、静かな声。被告人は十指を結い合わせてこうべを垂れた。ステンドグラスを透過し差し込む、七色の要素を重ねた朱色の光が、証言台に跪く姿を照らす。それは全く殉教者そのものの姿をして、罪人の証たる真白の冠を被せられている。

「……我らの言葉が分からぬならそう言いなさい。我ら法廷は被告人を死罪とすべき、と判断している」

 裁判官の一人が、情動の平坦さは変わらぬが、幾分か柔和な声音で言う。

「承知しております」

 愚者を哀れむ慈悲の言葉を受けて、然し被告人の彼、或いは彼女は、この世の幸福の全てを手に入れたような穏やかさで微笑むのみだ。
 丹精な顔立ちの――少年?――年齢は恐らく十代半ば。十五、十六、それ以上にはなるまい。その髪は白雪の如く――罪人の冠より尚も白く――教国の修道女が着るような、フードと一体になった真黒のローブを纏い、首を飾るのは白銀の〈六晶紋(りくしょうもん)〉のネックレス。雪の結晶を模した、国旗にも用いられる意匠である。所有を許される者は、〈聖マリヤヴェーラ大学〉に在籍する神学の徒のみだが、本来このネックレスは、法儀処理を施された金で作られている。白銀の〈結晶紋〉は、成績優秀を認められた〈学徒会〉の一員にのみ与えられるのだ。

「承知と言うならば被告人よ、認められた権利を行使し弁護人を呼ぶが良い。或いは証人だ――君の無実を証明し得る誰かを」

「然り。被告人の有罪を示す証左は、ただ被告人の証言のみ。唯一の目撃者であるイリーナ司教補佐の証言は、被告人がユーリヤ・ミハイロブナ・アレンスカヤ枢機卿を殺害していないことを示し――」

 裁判官の声に一分の熱が篭る。冷徹な法の行使者である彼らですらが、此処に跪く信仰者は罪人でないと信じているのだ。理ではなく、正義を成すべし。〝私はやっていない〟と一言だけでも言ってくれれば、と乞い願うような尋問である。

「皆様、どうか教国の法理に基づく判断を願います」

 奇怪な法廷である。罪人が自らの死を主張し、裁判官が否を唱えるなどとは。
 首に下がる〈六晶紋〉を揺らしながら、少年が立ち上がる。細められた瞼の奥から、異形の瞳が裁判官達に微笑みかけていた。
 奇妙な瞳であった。いや、奇妙な眼であった。眼球強膜と瞳が、本来あるべき色から反転しているのだ。凝固した血液を思わせる、僅かに赤が差した黒い強膜。白色の瞳の中心に、空間が抜け落ちたが如き虚ろの瞳孔。黒い壁の中に、瞳の形が白く塗られているような――

「イリーナ司教補佐は聡明な方ですが、彼女は私の友人です。殺害現場から逃げ出した私を見て、〝あれが友人である筈がない〟と思い込んでしまったとしても仕方がない。私は、そんな善良な彼女をさえ裏切ったのです」

 その眼が、人を惑わせ、また躊躇わせる。
 少年が、幼少期はその異相故に〝悪魔〟と揶揄されていたことを、裁判官達は知っている――被告人資料の文面を通して。そしてまた、その後の少年がいかに烈しく信仰の道を歩み、同じ学び舎の生徒の規範となったか、それも知っている。
 無機質な文章の行間に裁判官達は、少年の生の軌跡を見た。無実であろうと、少年を信じた。

「偉大なる枢機卿閣下を殺害したこと、これが罪の一つ。教国に多大な貢献をする時間鉱学の大家を失したこと、これが罪の一つ。友人への裏切り、これが罪の最大なるもの。以上を以て私は、死罪こそが妥当であると考えます」

 だが――裁判官の願いを却下する、無情の宣言。少年の決意は揺らがない。彼、或いは彼女は、それが望まれていることを知ってか知らずか、自らは死すべき罪人であると定義する。
 法の守護者達はまた、政治的な責任をも負わされていた。苦渋に震える声が、記録に残らぬ〝独り言〟を呟く。

「……神の御手により、君の魂が死後に安息と栄誉を得んことを」

「ご厚情、感謝致します」

 神聖裁判は、枢機卿二名以上の要請により開かれる。そして本来なら教国には、常時五名が枢機卿の職にある。だが今、その一人であるユーリヤが死亡し、またスティーブ・バニング枢機卿は東の国境付近で長期の任務に就いている。
 今回の神聖裁判は、残る三名全員の要請によって開かれた。その意図を裁判官達は重々言い含められている。
 迅速に、かつ最小限の被害で事態を収拾せよ。
 国家の最高権力たる枢機卿を殺害したのは、決して同僚でもなければ、彼女の部下でもない、〝ある筈が無い〟し〝あって良い筈が無い〟。その点、〝どこの馬の骨とも知れぬ一介の学生〟であれば生贄の羊には相応しい。

「では裁判官様、ご決断を!」

 黒い洞の如き大聖堂に、響く声は凛と透き通って、己に死を賜るようにと要求する。その声に背を押されるように、裁判官の一人は遥か高い天井――教国の成り立ちを示す荘厳なモザイク画が黒い建材の上に浮かぶ――を見上げた。

「判決を申し渡す。スパイトベルグ教国における法理の礎たる神聖裁判は、我ら裁判官三名と、枢機卿の過半数の名において! そして〈氷の聖母〉の慈悲を乞い願いて、被告人アデラ・アードラーに死刑を申し渡す!」

 アデラは両手の指を絡め、指の甲に額を重ねた。
 また今日も、彼らの頭上に、神の姿は見えないまま――。

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