3:焼殺
目を覚ます。ぼんやりとした意識のままに、頭上から降り注ぐ光を見上げた――太陽光だ。
屋外にいる。
日中だ。
そよぐ風が柔らかい穏やかな気候――教国の春の、晴天日である。
風の中に、新芽や、膨らみ始めた蕾や、ようやっと開いた花の、むうっと鼻の奥に入り込んで来るような香りがある。けれどもその、心を宥める香りを、足元から立ち込める強烈な油の臭いが台無しにしている。
アデラは、足元を見た。自分が、小さな台の上に両足を揃えて立ち、足首と膝、腰と胸が、背後に立つ支柱に針金で括り付けられているのが見えた。両手を動かそうとしたが、これも背中に回されて、おそらくは支柱に縛り付けられている。そして、立っている台の下には、多量の薪が油に塗れて積み重なっていた。
火刑か――アデラは、自らの末路を悟る。信仰に生きる学徒の脳髄は、この処置に喜びを得た。
殉教者の死に様として、火刑は珍しくない。屈辱的なのは絞首刑だ。自分が首を吊られず、炎と共に天へ昇るよう許されたのは、教国からの温情であろう。人生の最後、自分は祝福と共に死ぬのだ。望外の幸福であった。
空の青さと、乾いた大地の日々。不足無い最期の舞台に、朗々たる処刑人の声が鳴っている。どうやら序盤、被告人の罪を語る行程は聞き逃したようであったが――最も肝要な部分は、或いはアデラの意識が戻るまで保留されていたのかも知れない
「――主犯アデラ・アードラー、共犯者イリーナ・ドラグーノヴァ。この者達の魂から、罪の穢れを拭い落としたまえ」
「っ!?」
アデラの意識は瞬時に覚醒した。
己の名は、良い。だが、共犯者とは……!?
目を見開き――〝悪魔〟と忌まれた眼を――周囲を見渡す。遠くに教皇庁の黒聖堂を見る。石積みの壁に囲まれた刑場で、周囲には〝罪を見ぬように〟顔を白い布で覆った執行人が数人と、正装たる縦長の黒帽子を頭に乗せたウィリアム・ボードナー大司教の姿。
いない。何故。耳を澄ます。背後に、恐怖に竦む呼吸音。
「イリーナ!」
首と目を最大限後ろへ向けて初めて、無二の親友たる彼女が、磔の支柱を挟んで背中合わせに拘束されてることに気付いた。
その落胆と絶望たるや、計り知れぬものがある。己の命さえ、友人の幸福の為に投げ捨てようというアデラ。しかし今、その決意が無為に帰そうとしている――
「アデュー、諦めないで。必ず、どんな苦しくても、私を一人にしないで……約束よ」
にも、関わらず。泣き出しそうなか細い声で、だがイリーナは〝諦めないで〟と言った。まるで、まだ希望が何処かにあると信じているように――神の実在を、今更信じるようになったかのように。
アデラにその声は届かない。涙を頬に零し、身を縛る針金を肉に食い込ませながらも拘束を振り解こうと――
火を灯した松明が、処刑台の足元へ投げ込まれた。
薪を濡らす油が、熱に炙られ発火する。下に積まれた木々、それ自体が燃焼し、火は、風に撫でられれば消えそうな儚いものから、たちまちに、周囲の処刑人が額に汗を浮かべるほどの勢力となる。
炎の中から二色の絶叫が上がり、処刑人の耳をつんざいた。
生きたまま脚を焼かれる人間の叫びは、もはや言葉とは呼べぬものであった。
神に祈る余裕も無い。
神を罵る暇も無い。
熱い、助けて、と叫ぶ力など、無い。
ただ熱と煙の地獄にまかれ、咳き込みながら咆哮するのみだ。
本来なら焼死するより先、煙で窒息死するはずの火刑――しかしこの火刑の台組みは、火柱が直に肉を焼く残酷刑。
「神よ、どうかあなたの子の罪を許したまえ。この苦痛を以て魂の罪を免じ、この火を以て地上の煉獄とし――」
ウィリアム大司教の祈りの声が、空虚な響きでアデラに届く。イリーナの為に祈っているのだと、それだけは分かった。礼を言おうかと開いた口から、意思と無関係の絶叫が迸る。
処刑人達が異常に気付いたのは、着火から二分ほどが過ぎたころだった。
焼かれている二人の声が、未だに力強いのだ。まるで捉えたばかりの若い男から、初めて爪を剥いだ瞬間のように。
「おい、おかしいぞ……!」
ついに一人が声を上げ、顔の白布を剥ぎ取って、天を突く火柱を指差す。
痛めつけられて弱った肉体からの声ではなかった。不可逆の死へ追いやられる者の声ではなかった。
何より、二人の顔は、熱と煙に苦しみ涙を流す二つの顔は、未だに美しいままの形を保っているのだ。汗も瞬時に蒸発し、皮膚は忽ち炭化する筈の炎の中にありながら。
「が、あああああああああああぁあぁぁっ、あ、ぃ、ぃい、イリーナァッ!!!」
アデラが、痛みを捩じ伏せ、遂に言葉を発した。処刑人達は呆然と、ある者は特権を示す処刑刀を取り落として畏れ戦慄く。
「そんな、嘘だろう……喋れる訳が無い!」
「悪魔だ、あいつらは悪魔だ……!」
「馬鹿な! 悪魔なんて、悪魔などとっ!」
とうに舌など焼け落ちている筈だ。とうに皮膚など焼け落ちている筈だ。頭髪など全て焼け焦げて、頭蓋の丸さが見える筈だ。柱に括り付けられているものは、人間の形をした、赤黒い塊に変わり果てている筈なのに――まだ、死んでいない。
「イリー、ナ、っ、た――たすっ、助けるっ、から――!」
アデラは燃える身体を捩り、針金の拘束から腕を引き抜いた――キツく結ばれた針金が、腕の皮膚と肉を大きく削ぎ落としたのを、処刑人の一人は見た。だが、次にその腕が、揺らめく炎の中に現れた時、そこには傷一つ無い真白の皮膚が有ったのだ。
「再生してる……!?」
そうだ。
傷付かないのではない。死なないのではない。傷付いているし、幾度も死んでいるのだ。だがその都度、二人の肉体は再生を繰り返している。
無論――そこには多大なる苦しみが伴う。
二人の叫びが、痛覚の存在を示している。幾度と無く焼死し、幾度と無く窒息死し、その度に息を吹き返す。死に至るほどの苦痛を、幾度も幾度も繰り返す。
人の精神は、複数回の死を前提として作られていない。肉体が耐えようとも、終わり無い苦痛は心を砕く。事実、脳裏には、死神の誘惑の声が響いていた。
楽になればいい。苦痛に立ち向かう必要は無い。
肉を焼き焦がされながらも、アデラは気付き始めている。この再生は止められる――自分が生を望まなければ。死にたいと願い、暗闇に身を委ねれば、それでこの苦痛は終わるのだと。
だが、それだけは出来なかった。
「ぐ、ぅ――ぁっ、ぁ、ぁぁああぁぁぁあぁぁっ……!!」
腰を縛る針金を力任せに――指の肉を抉られながら、骨に引っ掛けて、引き千切った。
脚を縛る針金から、皮膚を削ぎ取られながらも両脚を引き抜いた。
身を包む衣服は全て灰と化し、ただ炎のみが身体を覆う責め苦の中、熱風で呼吸器を焼かれながら、肺に息を吸い込んだ。
助ける、と、もう一度叫ぶ。
死へ誘う誘惑を拒否し、裸足で燃える薪を踏み付ける。
四肢が自由になると、余計に苦しみが増した。
逃げようと思えば逃げられるからだ。大地を転げまわり、石壁に体を擦り付ければ、いつか火は消えるだろう。それでもアデラは、自らの意思で炎の中に立ち続ける。
〝諦めないで〟とイリーナが言ったからだ。
死ぬほど味わった死の苦痛。もう一瞬たりと身を預けたくない炎の拷問。けれども、〝失うこと〟はもっと恐ろしい。
まだイリーナは叫び続けている。永遠に続く苦痛の中、安易な死を選ばず、再生と焼死のループを選び続けている。生きることを諦めていない。
眼球の水分を焼き飛ばされながら、イリーナの脚を絡め取る針金を解いた。
鼓膜から頭蓋の内側を焼かれながら、腰と胸の拘束を解いた。
イリーナが、痛苦に体を小さく丸めながら、火刑台の上から倒れ込む。両腕で抱き留め、火柱の中から転げ出た。
そして、探す――すぐに見つける。百万が一、風で火が広がった時に備えて用意された消火器。火から離れた箇所にイリーナを横たえ、消火器を掴み――処刑人は不死の怪物を畏れ妨げようとしない――放射。
一度熱源から離れてしまえば、消火は容易かった。横たわるイリーナを包むものが、炎でなく消化剤の白い泡になったのを見届けて、アデラは消火器のノズルを自らの頭に向けた。
冷たい、と思った。その冷たさが心地良いとも。肉体に刻まれた痛みは未だに癒えないが、既にアデラもイリーナも、皮膚・頭髪・爪・神経系――身体のあらゆる部位が、火刑に処される前と同様、完全な形に修復されていた。
「奇跡だ」
大仰に天を仰いで言う者があった。若き大司教ウィリアム・ボードナーが、死なぬ受刑者に恐怖する処刑人達の前に立つ。
「これを奇跡と呼ばずしてなんと言おうか。見ましたか君達、この若き二人の身に起きた奇跡を!」
彼は、ミサの説法で熱意の余りそうする如く、前のめりになって言う。
「我々は二人に死を命じた。しかし、どうでしょう、神は二人の魂を天へと召し上げなかった! そして法に照らすならば、〝一度処刑された人間〟を再び処刑する道理は無い!」
「し――しかし、大司教! これは奇跡ではなく、ミハイロブナ枢機卿の研究成果である――」
処刑人の一人が、膝を震わせながらも言う。勇敢にして正直な処刑人へ向けられたのは、称賛しながらも嗜めるような淡い笑顔。
「君、君はきっと正しいのでしょう。が、枢機卿の皆様はそう仰いますまい。何と言っても故ミハイロブナ枢機卿は、〝神の意思に背くことなど何もしていない〟のですから」
ウィリアムは人差し指をぴんと伸ばし、口の前に立てた。その仕草に気付く所があったか、処刑人は自らの口を手で塞ぎ、小さく頭を下げる。
そのやり取りを、アデラは、イリーナの体を揺さぶりながら聞いていた。業火の責め苦を耐え抜いたイリーナは、緊張の糸が切れたか意識を手放している。纏う衣服の全てが焼け落ちて――〈六晶紋〉のネックレスのみが原型を留めて――いる他は、寝顔と紛う穏やかな姿だった。
分からぬことは幾らでも有る。
自分は、何故生きている――何故、生き返った。イリーナもそうだ。ウィリアム大司教は奇跡だと言うが、それが偽りであることは、処刑人とのやり取りを聞くまでもなく分かりきったことである。
アデラは神の実在を信じているが、神が人を助けるなどとは信じていないのだ。
思い出すのは首に突き刺さった
自分はつまり、〝そういうもの〟になったのだ――火傷の残らぬ肌が、雄弁に語っていた。
「アデラ・アードラー、〝奇跡の子〟よ。貴方は幸いである、何故ならば罪を贖う機を得て、尚もまた、神の道を歩めるのですから」
ウィリアム・ボードナーは、目を、瞳の色さえ定かにならぬほど細めて立つ。羽織っていた足首丈のマントを外し、横たわるイリーナの体に被せた。友人への配慮に、アデラはゆっくりと頭を伏せる。
若き大司教は膝を曲げて、顔の高さをアデラと揃える。〝悪魔〟と称される異形の眼を覗き込むように。
「奇跡を必要とする〝場〟があります。力を貸してくださいますね?」
そして、言った。問いではない。命令だ。優しげな声に、有無を言わさぬ重さが有る。
「……これもきっと、神の思し召しでしょう。ならば私は従うだけです」
けれどもアデラは、唯々諾々とこうべを垂れ、両手の十指を絡ませて、祈りの姿勢を取る。
彼/彼女は信じ、身を委ねている。
神の実在と、その性質が正義であることを――。