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Part4『変わらないもの』

「――で、なんでいないんですかね。あの人」

  忌々しげに呟く少女の声を聞きながら、僕は口を真一文字に引き結んでいた。

 いや、気持ち的には僕も同じくらいに文句を口にしたいところだ。なんたって転校生を連れて来いと言っていた張本人である近藤先生がいないのだから。

 だが、それを口にできないのはその怒りよりも困惑が勝っているからだ。

「わけがわからん……」

 教室を出る時のあの意味深な態度と言動。それに比べれば転校生の持っている重たい荷物というのが差して重たくもない木刀だったことや、教室を出た後の嫌がらせについてなんて、おまけのようなものだ。

 だからそのおまけを除外したとしても聞きたいことは山ほどあったし、それを話してくれる話だったはずだ。

「口約束は約束じゃないってのか……?」

 彼はきっとそういった誤魔化しを平然とやる人物だ。確かにそれもあり得る。

 だがまあ、それでもこのまま雲隠れということは流石にないだろう。ただ、今いなくなった理由が気になった。

「この場合私はどうすればいいのだろう?」

「いや、僕に聞かれてもな……うーん……」

 なぜか僕よりは打ち解けた様子だった小鳥遊ではなく僕に判断を仰ぐ鍵峰に対して、僕は明確な答えを出せず唸る。

 ここでもし僕の中身が見た目と同じ神城高校2年の神原慶だったなら何かいい案があったのかもしれないが、生憎それは無い物ねだりというやつだった。

「まあ、無難に『帰る』ってのが一番いいんじゃないか? あの人もさすがに明日には来るだろうし、その時にその木刀で頭をかち割ってやればいいだろ」

「それでは下手をすれば死んでしまうぞ」

 付け加えた軽口に律儀に反応する鍵峰に僕が苦笑したのを最後に、僕たちは解散した。

 互いに軽い挨拶を交わし、手を振り合って帰路につく。まるでただの高校生になった気分だ。

 そんなことを考えながら廊下を歩き、靴を出し、昇降口を抜けると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。

 そんなに長くいた覚えはなかったが、長々と学校に居座ってしまったようだ。

「しまった……母さん心配してるかな。してるだろうな……」

 顔を蒼白にして震えていた弱々しい母の姿。できることなら2度と見たくないその光景は僕の脳裏に焼き付いて離れない。

「だから、それを見ないために、いつもの母さんに戻ってもらうために――頑張るって決めたんだろ」

 自らを鼓舞するよう、ここ最近で増えた独り言を呟く。どこかで誰かに本音や弱音を吐かなければ、おかしくなってしまう気がした。

 だから、一人の時に、自分に言うことにした。

 そんな思いを胸に、僕は帰路につく。あの時間へ、あの日常へ、帰るための帰路につく。

 コツコツと、固いコンクリートと靴底の当たる音を聞きながら、僕は一人帰路につく。


*******************


 蛇口をひねり、ホースの先のじょうろのような噴射口から吹き出す暖かい雨を冷えた身体に浴びる。

「はあぁぁぁ……」

 それにより強張っていた体が徐々に弛緩し、体感的に火傷しそうな熱い湯がちょうどいい温度に変わるころには、体は完全に温まっていた。

 そうして少し赤らんだ湯気の上がる手を伸ばし、適量のシャンプーを手に出してやや伸び気味の髪を泡立てながら、僕は考える。

 ただ、考えると言っても、正直なところ情報が少なすぎて得られそうな答えが何もない。今朝、学校に向かう途中に色々と試してしまったのもその1つの理由だろう。

 夢、幻覚、妄想、勘違い、タチの悪いドッキリ――すべて違った。あと残っている可能性といえば、僕自身が完全に狂ってしまったのかだ。

「まあ、そればっかりは確かめようがないけど……」

 そんな益体もないことをつぶやきながら僕は洗い終わった体で湯船に浸かる。

 入浴剤の入ったオレンジ色の湯がなみなみとたたえられた湯船は、僕の疲労を吸い取るように四散させる。

 どこかで風呂は疲れを取るのではなく、逆に体を疲れさせると聞いたことがある。

 しかし、小難しい理由なんて理解できない浅学非才な僕なんかはやっぱり風呂は疲れを取るのものだと、どこかで考えてしまうのだ。

「あっつ……!」

 しかし、本当に疲れた。今日という、たったの1日で僕は疲れ切ってしまったのだ。

 通常よりも2時は短い今日の学校生活でだ。そして明日からは平常運転の、僕にとっては今日よりも辛い生活が始まる。

 ――考えるだけで嫌になる。

「はああぁああ……」

 気の抜けた声を上げながら、僕はゆるゆると湯船に沈んでいく。

 目をつむり、顔の下半分まで沈んだところで息を止め、そこから一気に沈み込む。

 ゴボゴボ音を立てながら頭のてっぺんまで暖かな液体に体を沈め、視覚と聴覚を放棄しすると代わりに全身の触覚が研ぎ澄まされる。

 くぐもった空洞音のような音のみを感じ取る聴覚や完全に闇に閉ざされた視覚と比例するように、暖かい湯の温度が、硬質なバスタブの肌触りが、揺れる髪の質感が、すべてが鮮明に、すべてが明瞭に研ぎ澄まされる。

 素早く動かしている時は濃密なゼリーのような湯は、手でつかもうとするとまるでそこから溶けるように四散し、握る手にはなにも残らない。

 それがもどかしくて、僕はそれを何度も繰り返す。何度も、何度も、何度も。だが、やがて息が限界に達し、僕は水面から顔を出す。

「はぁ!! はぁ……はぁ……はぁ……」

 予想以上の潜水に、焦って酸素を求める肺に従い、荒い呼吸を繰り返して湿った空気を送り込む。

 濡れそばった顔を手のひらで下に拭い、ずぶ濡れの頭を下から搔き上げる。

「普段なら手が届くのに、いざとなって手を伸ばしたら掴めない……か」

 そんな不毛な徒労は、どこか今の状況に通ずるような気がして、気分転換のはずの行為で僕は気を落とすことになってしまった。

 ――ああ、だめだ、柄にもなくブルーになっている。なにをしているんだ僕は。

 それに、やるしかない。慣れるしかない。2年前のあの朝に帰るまでの辛抱だ。だからまずは、今日は休もう。明日のためにも、その先のためにも。

「いい湯だった!!」

 大声で叫ぶと、大量の湯を撒き散らしながら僕は立ち上がった。

 湯船が大荒れの海みたいに波打ち、浴槽からオレンジ色の湯がダバダバこぼれるが、気にしない。

 飛び上がるように浴槽から飛び出すと、掛けてあったタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。

 熱い風が髪に残った水分を吹き飛ばし終わり、乾いた熱い髪を撫でながらドライヤーを元に戻したところで、風呂場のドアががらりと開いた。

「あ、お兄ちゃん! しまった、先入っちゃったかぁぁあ……私が狙ってたのに一番風呂……」

「はっはっは。残念だったな。僕より先に風呂に入ろうだなんてもう10年早い」

「10年たったらお兄ちゃん27じゃんか。いつまでこの家にいんのよ」

 小気味いいやりとりをするこの相手、まあ隠すこともないので言ってしまえば――妹だ。神原楓。もう高校一年で所属はテニス部らしい。

 そんな僕の知らないその新情報を除けば、帰宅時最初に僕を出迎えた彼女は僕の知っている神原楓その人だった。

 見た目も、中身もてんで成長が見えない。兄としては悲しむべきことで、僕としては嬉しいことだった。

 何もかもが変わってしまったこの世界で、唯一の救いといってしまうのは、さすがに言い過ぎだろうか。

「“僕”……なんだね……」

「え、なにが?」

 そんな妹が、どこか悲しげにそう呟いた。その呟きに、何か深い意味が、真相に近づく手がかりがある気がして、僕は逸る気持ちを押し殺し、静かに問いただす。

「いやさ、お兄ちゃん喋り方気にしてあえて荒っぽい言葉遣いにしてるじゃん?」

「べ、別に、意識してねえよ」

 が、どうやら大した話題ではなかったらしい。

 唐突に明るさを取り戻した楓の、その思わぬ発言に一瞬かなり動揺したが、その動揺をなんとか引っ込めて僕は平然とそう嘯く。

 それに対し楓は『まあ、それもほとんどできてもいないんだけどね』と肩をすくめた。

「――――!」

 僕は反論しようとするが、その口を人差し指で塞がれる。

「で! そんな格好つけたがりのお兄ちゃんがなーんで、一人称だけは僕のままなのかなーって」

「僕は僕だ。別に、意味とかはねえよ」

「へえ。まあ、どっちでもいいけどね」

「なんだよそれ……あーもう僕は上がるぞ。ってか寝るぞ」

「あれ? ご飯は?」

「食べたよさっき」

「うっそ、いつのまに!?」

 ――うっそ、食べてない。

 目を白黒させる妹に内心で謝りつつ僕は風呂場を出る。

 そのまま直通で階段へ向かい、それを登りながら空っぽのくせに食べ物を受け付けない腹を服の上からさする。

 今は、なんとなくリビングに行きたくなかった。このいつかなくなる世界で、親密な関係を作ることを恐れているのだろうか。

「いや、違うな。――怖いんだ。僕は母さんみたいに父さんが変わっているのを見るのが……」

 妹の場合は、家に帰るなりいつもより5割り増しほどのテンションで絡んできた。それは安心したし嬉しかった。

 しかし、姿を見せない母の姿や、まだ帰宅前の父の姿にも、“いつも通り”を期待できるほどの前向きさは、生憎僕は持ち合わせていなかった。

「なっ……」

 だが、そんな卑屈な考えを裏切るように、僕の部屋は“いつも通り”の姿を取り戻していた。

 散乱していたゴミも、欠け削れひび割れていた壁と床も、ズタズタに引き裂かれたベッドも、すべて元通り。

 もちろん細部に違いはある。カーペットをかけてごまかしただけの場所も、壁紙を張り替えただけの場所も。だけど、それこそが誰かがこの部屋をこうした証拠で、それができる人物は限られていて、それが特定できてしまうのが――僕はただただ嬉しかった。

「あんな……あんなになってたくせに……」

 疲れ果て、やつれ果て、弱り果てた擦り切れる寸前。そうだったはずだ。少なくともこんな事をできる体力が残っていたとは思えない。

 でも、母さんはやってのけた。この部屋の惨状をたった一人で改変して見せた。

 元に戻すだと? 怖いだと? 変わってしまっただと?

 なにを言ってたんだ僕は。
 なにを聞いてたんだ僕は。
 なにを見てきたんだ僕は。

 母さんはいつでも、どんな時でも、僕の味方だった。
 今も、2年経った今でも、母さんは僕の味方だった。

 そう考えるだけで、目尻が熱くなる。胸が締め付けられるように痛みむ。喉が引きつる。
 誰が見ているわけでもないが、ぐしゃぐしゃの顔を隠し俯いて隠し、嗚咽の漏れる喉に爪を立て、痛む胸を押さえながら僕はベッドに倒れこんだ。

「ぁぁ………」

 太陽の香りが漂う柔らかい布団。懐かしい感触。懐かしい匂い。懐かしい感覚。

 いつぶりだろうか。こうしてなにも考えずに横になるのは。本当にいつぶりだろうか。

 懐かしい。懐かしい。……懐かしい?

 いや、違う。なにを言っているんだ僕は。いつぶりもなにもこんなは非日常に苛まれるようになったのはここ数日の話ではないか。

 それではまるで、“その前にも何かあった”ような――、

「まさか、この時代の僕との記憶のリンクがあるのか……?」

 確かにこれは僕の体だ。肉体に変化があるなら、記憶を貯蔵する脳にだってそれが刻まれているはず。

 ならば、この記憶を探れば、僕はあるいはこうなってしまった理由がわかるんじゃ――、

 僕はひたすらに熟考する。

 だがしかし、答えに行き着くことはないかった。

 そこまで、考えたところで僕の意識は断絶した。

 それはただの睡魔だとか疲労とかでは説明のしようのない、意識の断然に近いそれだ。明らかな意思の介在だ。

 そしてこの事態も、事態の好転を望む何者かの善意によるものでない――誰かの混じり気のない悪意によってこうなっているという可能性。

 それを僕はもっと早く気づくべきだったのかもしれない。
 そうしていれば、あんな結末には、至らなかったのかもしれない。

 そんな最悪の結末へ、眠りの闇の中へ、深く深く、僕は沈み、進んでいった。

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