Part5『悪い夢』
――ここはどこだろう?
不意に、そんな疑問が空っぽの頭に浮かんだ。
「━━━━━」
声は出ない。音は聞こえない。熱も風も手触りも肌触りも、何も感じない。
目は、開いているのかすらわからない。おそらく、目の前に広がるのは無機質な闇。
ただ、その闇の終わりが存在するのはわかる。というよりも、四角い長方形の空間の壁や床を闇が飲み込み、靄がかったように認識できなくなっているのだ。
それがわかっている理由もそうなっている原因も、僕にはわからないけど。
『神原――、』
そんな静寂に包まれた暗闇の中に、ひび割れくぐもった声が響く。
小さな声のはずのそれは、それまでが静かすぎたせいかまるでスピーカーの音を耳元で聞いたような錯覚を覚える。
その音に反応し、関を切ったように鳴り出した煩い耳鳴りに顔をしかめ、激しい頭痛に頭を抱える。
『神原――!』
「━━━━━」
その声に対し、こちらも何かを伝えようと声を上げるが、どうやったって音にすらならない。
歯痒く、虚しい、無駄な抵抗。
『神原――!!』
それを嘲笑うように声はその大きさを増していく。痛みも、耳鳴りも、その大きさを増していく。
『た、助け――』
何かを伝えようと、僕の名以外の言葉を初めて発した声が――不意に、何の前触れもなく途切れる。ブツリと、耳障りな音を立てて潰える。
それに、僕は言い知れぬ恐怖を覚えた。
鼓動が一気に、早く、強くなっていく。
視界が一気に、白く、淡くなっていく。
感覚が一気に、遠く、無くなっていく。
それに呼応して深い水の底から浮かび上がるように、僕の意識は闇から遠ざかっていく。
それは得体の知れない脅威から逃れられるはずで、喜ぶべきことのはずなのに、僕は必死に手で闇を掻き遠ざかるその場所へ戻ろうとする。
「――――っ!!」
そうしなくては、僕にとって大切な何かが失われてしまう。そんな気がした。いや、そうなんだ。それがわかる。わかるのに、どうしてなのかも、どうすればいいのかもわからない。
なにも知らない。なにも出来ない。
口ばっかりで偽善的な、無知で無力で無価値な邪魔者。誰かにそう言われた、そう呼ばれた。だから僕は、それを否定するために懸命にもがく、懸命に足掻く。
だが、そうしている間にも、無情にもそれは遠ざかっていく。
『……終わったよ』
ふいに、耳元で何かが囁いた。
古いラジオのような、明らかに肉声では無い不鮮明な声。
いや、ラジオとは少し違う気がする。トランシーバーでもなければスピーカーでも無い。これは……電話――?
『ザッ――ガザッ、ガガッ――』
声はやがてノイズに変わる。どこかで聞いたような、耳障りなノイズは、不規則に、不明瞭に断続的にその音を紡ぐ。
『ザッ――ザザッ――ガザッ――』
なにもわからぬままに、なにも出来ぬままに、それは耳元で鳴り続ける。いつなにが起こるかわからない、なにがどうなるかわからない恐怖に蹂躙される。
『あ――ガザッ――てる――』
断続的だったそれが徐々に集合し、1つの音を作り出していく。それに尋常ならざる悪寒を覚え、恐怖が最高潮に達するその時、それは僕の鼓膜を確かに叩いた。
『次は、貴方』
明確で明瞭で鮮明な、僕と彼女の死の宣告が、
――静寂の中、静かにこだました。
*********************
目を開けば、そこには何ら変わらぬ見慣れた天井が広がある。
もちろん、闇に包まれたりはしていない。だだ少し薄暗い程度の暗さだ。
「夢、だよな……?」
あまりにリアルすぎる夢と、やっと始まった現実の区別がやや曖昧で、僕はあえて声に出して確認してみる。
それほどまでに、さっきの夢は生々しく、鮮明だった。目をつむり、耳をすませば、まだあの声が残っている気がする。
もう1度目を閉じ、眠りに落ちればあの場所へ戻れるんじゃ無いだろうか。そんな気さえする。
正直、絶対に戻りたくなんて無いけれど。
「寝てる間くらい休ませてくれよ……」
あまりの仕打ちに思わずぼやく。ただ、その声の調子は言うほどに暗くも無いし、頰に薄い笑みも浮かんでいる。
どこか余裕さを感じさせる僕の態度は、母の頑張りに起因する。やはり、母さんはこんな時でも僕を助けてくれるらしい。本当に頼もしい限りだ。
まだぼんやりとしている頭を掻き回し、僕はベッドから身を起こした。
「うっ……」
起き上がると同時に発生した不快な寒気に眉をひそめ、その原因であろう黒い寝巻きを引っ張る。
布素材の寝巻きは明らかに重量を増しており、触れる前から大方予想はついていたが、手で触れて見て確信に変わった。
「うへぇ……」
悪夢にうなされて汗をかいたのだろう。実際あれを見た身からすれば大袈裟な話でも無い。むしろ得心がいったくらいだ。
ともすればあの夢、やはりただの悪夢とは思えない。そう思うにはやけに意味ありげで、現実味がありすぎた。
まあ、視覚不能な空間でどこからともなく聞こえる声に苛まれるという状況は現実的とは言えないにしろ――。
そうして思考を巡らせていると、体が冷えてきていることに気がついた。濡れた衣服と濡れた髪が体温を奪っているのだ。ただでさえ肌寒いのに、このままでは風邪をひきかねない。
それは困る。そう思った僕は、引っ張り出したカッターシャツと学生ズボン、そして未だハンガーに掛かったままブレザーを片手に部屋を出た。
ペタペタと、素足がフローリングの床に張り付き離れる音を聞きながら、僕は廊下を歩く。
眠った時間が早かった事や悪夢にうなされた事もあり、僕が目覚めた時間はかなり早かった。
窓から覗く薄暗い外の景色から見るに、目算で4時半から5時といったところか。
――この頃は随分と早起きだな。
「く、ふぁ……」
噛み殺しきれなかった欠伸を口の端から漏らしながら、風呂場のドアを押し開ける。
「く、ふ」
洗面所に入るなり汗を吸って重たくなった寝巻きを脱ぎ、洗濯カゴに入れる。どちゃり、と音を立ててかごに収まった黒い塊。その重みから解放された体は、なかなかに軽かった。
「どんだけ汗かいてたんだ。うう……気持ち悪い」
自らの新陳代謝の良好さに若干引きつつ、未だ解消されていないびしょ濡れの髪への不快感を口にする。
比較的臭いの無い、水に近いサラサラとした汗だったが、そのぐっしょりとした感覚は気持ちが悪い事に相違無い。
そんな不快感を解消するため、昨晩の動きを踏襲する様に蛇口をひねり、シャワーから噴出する湯を浴びる。
ただ、昨晩とは違い今回はそれだけで済ませ、すぐに体を拭くと浴室を後にした。
サッパリとした体を柔らかなバスタオルで包む様に拭きつつ、ドライヤーを用意すると、拭き終わった体に下着のみを着込み、ラフな格好で濡れた髪にドライヤーを浴びる。
いつもの動作の踏襲。手慣れた動作の再現。こうしていると、今自分に置かれた状況を忘れられる。それは、僕にとっての安らぎだった。
――うん、落ち着く。
「あ、お兄ちゃん。」
そうして密かな安らぎを満喫する僕の名を、勢いよくドアを開け放った乱入者が呼んだ。ドライヤーで聞こえにくかったその声よりも、その乱暴な開扉音に反応し、僕はそちらに顔を向けた。
「ん、楓か。どうした? お前も風呂? ってかまた?」
「ううん。歯磨き。もう行かないといけないし」
「え、もう行くのか?――って、どこに?」
「朝のランニング。私って意外と健康主義なんだよね」
「……僕と違ってな。うん、それは知ってる。でもさすがに早くないか?」
さっき確認もしたがやはり今は5時前後だった。外はまだ薄暗いというより暗いし、最近は不審者が出る(昨日校内散策中に小耳に挟んだ)らしいしな。
「うーん……やっぱりそうかな? 私もそんな気してたんだけど――」
「寝れなかったのか」
「流石、鋭い」
「流石って……別に僕は言うほど鋭くはなかっただろ」
むしろ鈍かったはずだ。それを昨日再確認させられた。
いや、ひょっとすると2年間の間に鋭くなってたりしたのだろうか。それは分からない。分からないが、目の前の妹が目元に刻み込まれたくまから寝不足であるということは分かった。
というか分からないほうが鈍いというものだろう。僕だってそこまで鈍くはなかった。
常に健康で、元気というか能天気に見える妹はこれでいてなかなかに体が弱い。ちょっとしたことですぐに体調を崩すのだ。
「なんだよ、なんかあったのか? まあ、おまえがそうなる理由って毎回大したことじゃないからあんまり気になんないけどさ」
僕の記憶の中で、楓が体調を崩すほど落ち込んだり悩んだりしたどうでもいい理由ベストスリーは《集会中にお腹が鳴った》や《先生をお母さんと呼んでしまった》や《僕の前で盛大にこけた》だ。
信じたい気持ちもあるが、どうしても斜に構えてしまうのは否めない。
だが、僕の薄情な反応に妹は分かり易くむくれる。ちなみに今は彼女が怒っているが、大抵こうして冷たくあしらわれるのは僕の立場だ。そんな事情も手伝って僕の悪戯心に火がついた。
「うっわ、ひどいな、全く。わたしがここまで弱ってるのに労わりの気持ちとかないの?」
「ああ、悪かったよ。軽口だって。労わりの気持ちね。うん、あるある。むしろ労わりのしかない。労わりが服着て歩いてると言っても過言じゃない」
「過言だし服着てないよ」
「着てるよ。シャツとパンツが見えないのか?」
「見えるけど――じゃなくて! ああもう! いーよ、いいよ! ちゃんと聞く気ないなら話さないよ!」
「ああ、ごめんごめん! ――で、何があったんだよ……?」
そっぽを向いて地団駄を踏み出した楓をなだめつつ、僕は今度こそ真剣に事の次第を聞き出す。
唐突な僕の変わり身に楓は目を白黒させていたが、一撃デコピンをお見舞いすると機嫌を取り直してくれた。
なかなかに痛烈な一撃だったが、深刻そうな話を茶化した対価としてみれば軽すぎるくらいだ。
「ふ、普通に痛い……小鳥遊の肘より痛い……」
「普通こんなに甘い兄妹いないからね? そうやって甘い幻想抱いてると絶対に痛い目見ると思う。」
「……それは僕もわかってるつもりだよ。うん、僕は果報者だ」
「素直でよろしい。で、事の経緯なんだけど――」
件の甘い妹張本人から釘を刺され、肩をすくめて答える僕。
それに対して満足げに鼻を鳴らすと、楓はなぜか声を潜めて話し出す。そのトーンの1つ落ちた声に心と身と口元を引き締め、僕はその続きに聞き入る。なかなか長くなりそうだ。
「最近さ、通り魔が出てるらしいじゃん? ……怖いよね。」
「うん、怖いよな……それで?」
「ん?」
「いや、『ん?』じゃなくて……それで?」
「いや、だから、怖いねって」
「…………」
きょとんとしてそんなことを言う楓に無言で背を向け――僕は風呂場を後にした。