Part1『優しい嘘』
長々と閉ざしていた重い瞼を持ち上げると、瞳を閉じる前の明るい団欒とは真逆の冷たい暗闇が僕を出迎えていた。
「う、ぁ……」
その凍てつく空気中、意識の覚醒とともに襲いかかる頭痛と倦怠感に呻きながらゆっくりと身を起こす。
黒一色の見慣れぬ寝巻きに包まれた軋む体は、長い間動かしていなかった様に感覚が鈍く、身を起こすだけの行為にも苦戦してしまうほどだった。
――瞳を閉じる前、一瞬の瞬きのはずだったそれは、どうやらそうはいかなかったらしい。
「どこだよここ……――って声が……」
あまりの突飛押しもない状況に思わずぼやくと、その声がひどく掠れていることに気づいた。
息をするたびに喉が痛み、何か引っかかる不快な感覚に喉を鳴らせば、出てくるのは赤黒く固まった血塊。
どうやら叫び過ぎで喉が潰れている様だ。
「…………」
叫んだ覚えも、着替えた覚えも無い。部屋を移動した覚えもなければ意識を失った覚えも無い。そうだ。――僕はこうなるまでの出来事をなにも覚えていない。
必死にこうなる数秒前、ノイズまみれのあやふやな記憶を探るが、底に穴の空いたバケツを水で満たそうとしているかのような徒労感と虚しさしか得られない。
仕方なくふらふらとおぼつかない足取りで窓際へ向かい、壁に寄り掛かる。窓やドアの配置、照明の位置に椅子と机。薄ぼんやりとした暗闇の中でもかろうじて確認できたそれらの配置は、僕の部屋と酷似していた。
「強盗が来て襲われて監禁、とか……いや――」
その光景に浮かんだありえない考えを頭を振って文字通り振り払う。
そうだとするならこの全身に残る痛々しい傷も説明がつくけれど、拘束もせず忍び込んだ家の一室に監禁など無理があるというものだろう。
そして、それを完全に否定するため、僕は窓に手をかけ開け放つ。しかしまだ暗い。どうやら雨戸まで締め切っているらしい。
そんな場合じゃないことはわかっているのに、それでも湧き上がる意味不明な自嘲的な笑みを嚙み殺し、僕は雨戸に手をかけ、一気に開け放った。
「……っ」
開いた窓から差し込む朝日に瞳を焼かれ、駆け抜けた痛みに呻きながら両目を手で覆い、たたらを踏む。
その体が倒れぬようなんとか踏ん張り、疼く額を抑えながら薄く目を開く。
すると、そこには木々と青空と輝く太陽のある“いつもの”景色が広がっていた。
「あれ……?」
それによって、僕の予想していた監禁という最悪の想像は違うと否定され――、
「なんだよ、これ……」
――更にその上をいく最悪の現実が背後は広がっていた。
「……い、意味がわからない」
唐突に訪れた無理解に苛まれ、頭を抱えて呟く視界の先、そこには散々に荒れ果てた『僕の部屋』があった。
「なんだ……? なんで、こんな……?」
先程まで眠っていたベッドはところどころが赤黒い何かで汚れ、その上で刃物や爪で切り裂かれていてボロ切れのような有様だ。
更にその横、昨日の夜まで受験勉強に明け暮れていた机と椅子は猫の爪ほど細くも、ナイフなどの鋭利なものでない。例えるなら、人の爪で引っ掻かれた様な跡。
「なん、で……」
足元に散乱するゴミ袋やそれに入りきらなかった空のカップ麺や空き缶は何処か生々しい生活感を漂わせ、それなのに削れ剥がれ砕けた壁と床はそれを拒絶するかのように異様な雰囲気を漂わせている。
全てが異様。全てが異質。全てが異形。全てが醜悪。
――ここに、いてはダメだ。
本能的に悟る。この場所は危険だ。それにあの瞬間近くにいた両親の安否が気がかりだ。
それに気づいてしまえば僕は止まれない。
走り出す前から荒い呼吸を繰り返し、散乱するゴミを飛び越えて廊下へ飛び出す。
簡単にドアが開いたことへの安堵を差し引いたとしても十分に強大な時間とともに高まる不安。
それをも置き去りにする様にリビングへと向かおうとして――、
「――は?」
視界の端に止まった、僕が目覚める前から
いいや、止まるというより硬直してしまったという方が正しいだろう。それは、それほどまでに自分の意思とは無関係の有無を言わせぬ衝撃だった。
――しかし、停止してしまった体とは真逆に、僕の思考はその状況の解読へと火花を散らして回転する。
カレンダーの買い違い? いや、まず2年後のカレンダーなんて売っているのか? いや、そうじゃない。いくらなんでもあり得ない。でも、この状況はもうあり得るとかあり得ないとかの次元にあるのか? それとも2年間昏睡状態で眠っていた? いや、それなら病院のはずだ。少なくともあんな部屋には置いておいたりはしない。服だって変わっているし、何よりあの部屋には生活の痕跡があった。
それに、あの部屋の状況…もし“そう”だとするならば合点がいってしまう。だが、あり得るのか? あり得るとすれば誰に相談すればいい? どう相談すればいい?
『気がついたら2年後の世界に来ていました。助けてください』
とでも、言ってみるのか?
「無理に、決まってるだろ……」
「……
呻くように、唸るように、掠れた声を喉から漏らす僕の名を――誰かが背後で呼んだ。
その瞬間、僕の体はカレンダーを見た時と同様に硬直した。この状況で自分の名を呼ばれたという事実よりも、その聞き覚えのある声によってだ。
「――母、さん……?」
そこには母がいた。
肩までだった黒髪が背につくほど伸びているし、見るからに元気そうだったあの笑顔も、病弱そうな震える体には見る影も無いけれど。けれど、それは母だった。
確かに――僕の母がそこにいた。
「けい、慶……ああ、よかった、よかった……」
心の底から嬉しそうに母はそんな事を言った。
だが、なにが彼女をそうさせたのかも、なにが良かったのかも、やはり僕には分からない。僕には何もわらからない。僕はなにも
けど、母さんなら何か知っているのか? 聞けば、何かがわかるのか? 先程頭に浮かんだ馬鹿げた質問だって、他人には言えなくとも家族になら言えるはずだ。
「母さん、落ち着いて聞いてくれ……僕は――」
意を決して、覚悟を決して、言葉を紡ぎ、問いを発する。
いや、発そうとした、という方が妥当か。だって僕は、それ以上先の言葉を口にすることなんてできなかったんだから。
「どう、したの……?」
「……っ」
不安げに、頬のこけた青白い顔を強張らせて白い唇を震わせて、か細くそう問いを発した自分の母を見て。僕の母さんを見て――
『そんな事、言えるわけが無い。こんな事、話せるわけが無い』
ここまで弱り切った母を見るのなんて初めてなんだ。
いつも気丈で明るく、どんな時だって助けてくれた、正義じゃなくて『僕の味方』。そんな母に、こんな母に、更に悩みの種を増やすなんてこと、僕にはできない。
まとまりきらない思考。受け止めきれない現実。どうしようもない絶望。
それらを消化しきれていない擦り切れる寸前の僕へ、悪夢は――いや、現実は容赦なんてしてくれない。畳み掛けるように、追い込むように、着々と駒を投じてくる。
だったら、きっと僕はそれに負けないくらい強くならなきゃいけないのだ。いや、強くあらなければならいのだ。
「――学校に行きたいんだ」
全てを話す決断をする事はできなかったが、
全てを隠す決意はする事はできた。
「え……? なんでそんな……ううん。そうだね。いい、いいよ。――おかえりなさい。帰ってきてくれて、ありがとうね……慶」
「なんだよ、大袈裟だな。僕はどこにもいかないし、行っても必ず帰ってくるよ。だから、心配なんてしないでいい」
焦燥感に押しつぶされそうな心を覆い隠す、不審がられない為の作った笑顔に作った声色。
そんな紛い物でも今、目の前で崩れてしまいそうな母を助けることができる。それならこの嘘は、嘘が嫌いな母さんにも許してもらえるのだろうか。
「……でも、ただいま。母さん」
だが、その一言だけは、唯一本心から出た言葉だった。それが何故かは、今の僕にはわからない。
でも、いつかわかる時が来る。そんな予感はしていた。そうなればいいと、全てわかればいいと、全て解決できればいいと、
僕は――本気で思っていた。