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epilogue【日常の変動】

 長らく閉ざしていた重い瞼をゆっくり持ち上げると、瞳を閉じる前の暗闇とは相反するきらめく朝日が僕の瞳を焼いた。

「う……っ」

 その疼きに眉間をおさえ、大儀そうに身を起こす。大きくあくびと伸びをしたことで鮮明になった意識には、十分な睡眠と休息によっていつもならしつこく残っているはずの粘つくような眠気と倦怠感は微塵も感じなかった。

 僕はそんな軽い腰をベットから持ち上げ、光の漏れる紺色のカーテンとその向こうの窓を開け放つ。
 開いた窓から吹き込む爽やかな朝の風を味わうように深呼吸を繰り返し、気の済むまで肺に新鮮な酸素を送り込むと、まるで体が浄化されていくような爽快感に包まれた。

 そうして目一杯に吸い込んだ息を脱力と共に吐き出し、満足して瞼を上げれば眩い朝日とその黄金の輝きに照らされた木々や綿のような白い雲をいくつも浮かべる澄んだ青空とがどこまでも続いている。

 見慣れたはずの光景。

 それを飽きずに楽しんでいると、次は開け放った窓の下――一階のリビングの窓から漂うパンの焼ける香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 それに呼応するように腹の虫がきゅうと鳴った。

「お腹減ったな……」

 湧き上がった締め付けるような空腹感に突き動かされ、僕は自分の部屋を出る。

 やや肌寒さの残る春の風に晒され体温の下がった体を抱いて身震いすると、ひんやりと冷えた階段にさらに体温を奪われながらも着実に下っていく。

 そうして階段の最後の段まで下り切れば目的地のすぐそこにある、玄関前の廊下だ。

 そこから手すりを支点にぐるりと回り、リビングへ向かおうと踏み出すと、それを遮るように唐突に目の前のドアが開け放たれた。

「うわっ!?」

「あ、お兄ちゃん! 早起き! もう、起きてたんだ!」

 まだ何処か不鮮明な視界に割り込むように飛び出したのは、半袖のチームTシャツと膝上までしかないハーフパンツにジャージを羽織っただけという僕からは考えられない風の子のような軽装に身を包んだ僕の妹――神原 楓(かんばら かえで)だった。

「おい、ドア開ける時はもっと気をつけてっていっつも……」

「あ、時間! そうだ、やばい部活遅れちゃうよ!! あ、おはよ!!」

「はあ……おはよ」

 有り余った元気を発散するかのような楓の乱雑な仕草に僕は苦言を呈するが、その倍の声量の底抜けに明るい声がそれを掻き消す。
 しかし、それも毎度の事なので僕の反応も大きなため息と気の無い挨拶を返すのみだ。
 にしても珍しい。普段、朝に弱い僕とは対照的に楓は基本朝には強く、学校や部活には大きく余裕を持って行くのだ。それがここまで急ぐというのは随分と珍しいのだが――、

「――おい」

「はいはい、なにさ、お兄ちゃん。あ、でもわたし今急いでるからあんまり構ってあげられないよ? いつも相手してくれてた可愛い妹はもういないの。ね?」

「いや、そうじゃなくて1つだけ質問。今日って部活始まんの早かったけ?」

「え? 別に普通だけど?」

「じゃあ、なんでお前1時間も早く出て行こうとしてんの?」

「……え?」

 いよいよ今後の将来が心配な妹に本気のいたわりの目を向けながら指さすのは、彼女の普段の出発時間の1時間前をしっかりと指し示す大きめの丸時計だ。

 その衝撃的な光景を目にした楓の表情は、まず時間を間違えていたことへの驚愕、次に遅刻の回避への安堵、その事態が自らにもたらす状況への思案、そして最後に燃え上がる羞恥心へと面白いくらいにコロコロと切り替わっていった。

「――ち、違うからね!? 中学2年生にもなって時計が読めないとかそういうんじゃないから!! ただちょっと寝ぼけてただけだから!!」

「そうだな、そうだな、そうだよな。そんな訳ないよな。だって中2だもんな。もう半分くらい大人だもんな。うんうん――やっぱ、本当可愛いな!」

「学校も部活も行ってない引きこもりのニートに馬鹿にされたぁぁああ!!」

「い……いや、ニートじゃないよ!! 冬休みだから今はずっと家にいるけど日夜受験勉強に明けくれるふひゅけんへいやよ(受験生だよ)

 飛びかかった楓に両の頬を引き伸ばされながらも僕は必死に抗議するが、リンゴみたいに真っ赤になった彼女は聞く耳を持たない。
 その上、こうして馬乗りになって押さえつけられてしまえば、悲しいことに運動神経抜群な上、僕と体格もさほど変わらない妹の拘束は容易にはふりほどけないのだ。

 そんな戦慄の事実に、僕はそのまま一生を楓の下で過ごすことになるのかと覚悟した。が、気の済むまで僕の顔をこねくり回していた楓は、途中ツボに入って笑い出す。

 それ自体は不愉快極まりないが、その隙に僕はなんとか脱出することが出来た。

「いってえ……野良犬みたいなやつだな……」

「私が野良犬ならお兄ちゃんは骨か肉だね」

 ぐしゃぐしゃにされてしまった短めの髪を整えながら呟くと、楓は意味のわからないことを口走った。

「それ捕食対象じゃん。せめて猫とか猿にしてくれよ」

 それに半目で応じるが、しかし帰ってきたのは沈黙となにや考え込むような仕草のみだ。その不自然な反応に疑問なり文句なりの言葉を発するべく口を開こうとすると、それが音になるより前に今度こそ返事が返ってきた。

「あ、じゃあもう私行くよ」

「へ? なんだよ、まだ時間あるじゃんか。もっと僕と遊ぼう」

「『遊ぼう』じゃないよ、受験生。それに遊んであげたいのは山々なんだけどね……私も、もう来年引退だし時間が惜しいのよ」

 唐突な別れの言葉に肩をすくめて返すと、妹もそれを真似て軽口とともに応答する。鏡を見ているような精巧なトレースとその真剣な内容にしばし黙り込み、僕は再び口を開いた。

「まあ……そうか。じゃあ仕方ないな。部活、頑張れよ」

「お兄ちゃんもちゃんと受験頑張ってよね?」

「頑張るっつってもなぁ……」

「やっぱ気合いだよ、気合い。本番は腹から声出していきなよ。まず声で負けてちゃ、勝てるもんも勝てないんだから」

「いや、試験中に叫び回ってたら即行つまみ出されるけどな」

 本気か冗談かが曖昧な妹の軽口に内心複雑になりながら突っ込むと、妹はくつくつと喉を鳴らして笑った。そうして気が済んだのか、『じゃあ』と手を振り、くるりと回ってドアノブに手をかける。
 その姿に会話の終了を悟り、こちらも背を向けてリビングへ向かおうと踏み出すが、

「高校の名前……霧ヶ峰(きりがみね)だっけ?受かるといいね、お兄ちゃん」

 背後で発された声に、その足が止まった。

「正直……あんまり自信ないけどな」

「あー、名門私立だっけ? 頭良かったんだね」

「自慢のお兄ちゃんだろ?」

「受かったらね」

「現金なやつめ」

 口角だけ釣り上げたような不恰好な笑顔でそう言いってやると、楓は猫みたいな顔で舌を出してはにかむように笑った。

「――じゃあ、行ってきます!」

「ははは、あいよ、いってらっしゃい」

 勢いよくドアを開け、ブンブン手を振って飛び出していった妹を見送ると、僕は今度こそリビングへ向かう。

 時計を見れば針は7時を指していた。思ったよりも話し込んでしまったらしい。これでもなかなかに早いのだが――まあ、あいつの事だ、時間なんて関係あるまい。

 そんな投げやりとも思える妹への信頼を胸にリビングへと足を踏み入れた僕を、今度は椅子に腰をかけたスーツ姿の父が出迎えた。

「お、(けい)。起きたのか。パン焼けてるぞ。ジャム塗るか? バターだけでいいか? それともハチミツか?」

「父さんは僕にどんだけパンに何かを塗らせたいんだよ……じゃあハチミツかな」

「よし来た。あ、でもハチミツはないから自分で買ってこいよ」

「じゃあ候補にあげるなよ!!」

 がなりたてる僕に不満そうな顔を向ける父は、見ての通りやや抜けている。
 それなのに、やけに堅物そうな外見な為、会社ではかなりのアンタッチャブルとして知れ渡っているらしい。

  ただ、仕事の出来は相応で稼ぎもそれなり、いざという時にも、それ以外の時にも頼りになる父はその人柄を知っている同僚や上司や後輩にはよく好かれているようだ。

「全く……自慢の父親だよ」

「ん――? 何か言ったか?」

 そんな思考の末に、ぼそりと呟いた独り言に反応する父。

健吾(けんご)さん。また慶を困らせてるんですか? 私、嘘と意地悪は嫌いですよ」

 それを、僕の背後の扉をから頭を出した母さんが嗜めた。

「困らせる……? いや、慶は確かに困ったやつだが、そんな事はしていないぞ」

「困ったやつはあんただよ! んで困ってんのは僕だ!」

「ん? やっぱり困った奴じゃないか。何を言っているんだ?」

「〜〜〜〜っっ!!」

 しかし、そんな母さんの助け舟は父さんの魚雷砲に変換され、一般船神原慶号の船底を深々とぶち抜いた。
 そうして、断末魔を上げで撃沈する神原慶号こと僕は、あえなく撃沈もとい沈黙した。

「あ、慶。パン焼けてるよ。はい、これ」

 そのあんまりといえばあんまりな天然っぷりに僕が疲れ切った表情で机に突っ伏していると、キッチンの奥から母が“ハニートースト”を持ってきた。

「お、陶子(とうこ)。俺にもそれをくれるか」

「はいはーい、慎吾さんはちょーっとまっててね。はい、慶。ちゃんと受け取ってね。あ、お皿大っきいのしかなかったから持ちにくいだろうけど気をつけてね」

「いろいろ言いたい事はあるけど……ありがとう、母さん」

 なんとも言えないモヤモヤを抱えたまま渡された大皿を抱えながらも、僕は惜しみない母の愛とそれが生み出した溢れるほどに盛られたハチミツとその下の香ばしい香りを発するトーストに礼を言う。

「言いたいことがあるならはっきり言えよ、慶」

「言ったらキリがないんだよ!!」

 そうしてやっと平静を取り戻した僕の心を早速搔き回し、父さんは気が済んだのか『ふむ』と小さく呟くと新聞へ視線を落とした。
 ただ、それも慣れたものだ。難しい顔で新聞を読みふける父さんを横目に僕は出来立てのハニートーストにかぶりつく。

 香ばしい香りを放つ食パンは程よく焼けていて、表面の軽い歯ごたえとサクサクとした耳や中のふんわりとした食感が至高の味わいを増長させる。

 そして、その上に惜しみなくかけられた黄金に輝くハチミツの芳醇な甘みと香りがこんがり焼けたパンに染み込み、サクサクととろみの中間の様な不思議な食感を生み出していた。

「うん、うまい」

 勢いのままにかぶりついていたらすぐになくなってしまったハニートーストの最後の一口を噛み締め、僕は小さく呟く。

 母の作る朝食は大抵パン類だが、このハニートーストはその中でも特にお気に入りのそれだ。ただ、食べ終わってしまった後のなんとも言えない喪失感だけは何回味わっても慣れない。

 だったら『新しいのを作ればいいじゃないか』という話だが、許容量の少ない僕の胃はそこまでの食料――ならぬ食量をうけいれきれないのだ。

 そんな情けない胃袋の隙間を埋めるように砂糖多めの暖かいコーヒー牛乳をすすり、一息着けば微笑む母さんと目があった。その慈しむ様な視線に居心地の悪さを覚え、僕は軽く身じろぎする。

「え? な、なに、どうしたの?」

「別に? なんか幸せそうだなーって」

「ははは、なんだよそれ。でも、うん――でもそうだね。幸せだよ」

 横を見れば父さんがいて、母さんがいて、楓がいて、友達もいて、ご飯も食べれて、十分に眠れて、存分に笑えるいつもの日常。
 いつもの平穏。いつもの朝。それがどれほど幸せなのかを僕は理解している。マンネリなんてしない。刺激なんて求めない。今が最高。今が至高。今が続けば一番いい。

 ――そんな日常にノイズが走る。

 そんな団欒を切り裂き、部屋に電子音が鳴り響く。唐突に鳴ったインターホンに反応し、母が椅子から立ち上がる。

「お客さんかな?」

 ――擦り切れた記憶の

 ドアを開け、母が視界かから消える。数秒後、壁の向こうでなにやら楽しげな話し声。会話、終了。こちらへ向かう足音2つ。母と誰だ? わからない。

 ――それは擦り切れた心の

「ん? やはり来客かな?」

「え、父さんのお客さんじゃないの?」

「ああ、全く身に覚えがないな」

 ――それは脆い心を守るための

ドアの開く音。身を捻って視線をそちらへ。視界の先。母がいる。父がいる。少女がいる。――少女? 彼女は誰だ?

「え、だ、誰……?」

「初めまして、私は桐山奈津美といいます。実は、慶くん。貴方に用があってお邪魔したんです」

「は、初めまして……え? ど、どちら様? もしかして何処かでお会いしました? もしそうなら――」

「……いえ、知らな━━当然です。いいんです。ただ、今日はご挨拶━━思いまして」

「は、はあ……」

「少し、お話ししても━━ですか」

 ――ノイズ

「は━━別に━━━ど」

 ――ノイズノイズ

「あ━━━━ね━━」

 ――ノイズノイズノイズ

「━━━━━━━━」

 ――ノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズノイズ



「よろしくお願いします」



 ――断絶。

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