嵯峨野と相模
嵯峨野はいつでも私の前にいた。
もっとも、それは偶然でもましてや運命でもなんでもない。嵯峨野弘樹と相模由紀にとって、子供の少ない田舎町に暮らす私たちにとって、それは必然であった。
一クラスしかない小学校・中学校生活において、名前順で並ぶ機会があるたびに、嵯峨野はいつも私の前にいた。さすがに、高校は三クラスあったから、三年間同じクラスということはなかったが。
けれど高校にあがったころ、いままでずっとそばにいた私たちはいつのまにか惹かれあっていて、交際を始めたから、物心付いたときからほんとにずっと、嵯峨野は私の前にいたことになる。
だからだろうか、
「受験、早く終わってほしいよな」
という嵯峨野に対して、
「ぅ、ぁ、うん。そう、だね」
と、えらく不自然な返答をしてしまったのは。
がらんとした自習室の中に、私たちはいた。
三人がけの机を一人でひとつずつ贅沢に使いながら、私たちは朝早くからここで勉強をしていた。
昔はにぎわっていたらしいのだが、いまは私たち以外の姿はみえない。
若い人たちはみんな、都会へと出ていってしまったのだ。
そしてそれは、嵯峨野も同じだった。
受験が終われば、彼もかつてそうしてきた多くの人々と同じように、この町を出て都会へ行ってしまう。
私は家から通える地元の大学が第一希望だから、嵯峨野とは離れ離れになってしまう。
嵯峨野が私の前にいる日常は、もうすぐ終わってしまうのだ。
「……相模は受験終わってほしくないの? 」
嵯峨野がそうたずねてくる。視線を上げると、心底不思議そうな顔をしている嵯峨野と目が合った。
「そういうわけじゃない、けど……」
そりゃあ私だって、この勉強ばかりの日々には早く終わってほしいと思っている。
授業がなくなってからは、毎日朝八時から夜の十時まで、半日以上の時間をここでの勉強に費やしていた。
けれど、それは同時に、嵯峨野と二人でいられる時間でもあるのだ。
好きな人と一緒にいられる、最後の時間かもしれないのだ。
もちろんそんな恥ずかしいこと言えるわけもなくて、
「だって、ほら、今すぐ受験しろなんていわれても、勉強ぜんぜん足りてないし。もうちょっと時間あったほうがいいかな、なんて」
とってつけたようにそんなことを言う。けれど、嵯峨野の目には不自然に映ったらしい。
「……へんな相模」
嵯峨野はそういうと、私との会話をやめて問題集へと視線を落とした。
◇ ◇ ◇
ゆさゆさと体を揺さぶられて目を開けると、そこには嵯峨野がいた。ただし、先ほどまでの嵯峨野より、いくぶん大人びている。
「こんなところで寝てると風邪引くぞ」
「……嵯峨野?」
どうやら眠ってしまっていたらしい。いまだ曖昧な意識のままそういうと、彼はきょとん、としてから、
「お前も嵯峨野だろ?」
といって笑った。
そうだった。私も嵯峨野になったのだった。
どうやら、ソファでテレビを見ているうちに、うとうとしてしまっていたらしい。
それにしても、懐かしい夢をみていたなぁ、なんて感傷にふけっていると、ふいに彼がぎょっとしたような顔でこちらを見た。
「え?ユキ泣いてるの?どこか辛い? 大丈夫?」
心配そうに、すこしふくらみの目立ってきた私のおなかを撫でる。
その言葉に私も驚きつつ目元をぬぐうと、雫が指に乗った。確かにいつの間にか泣いていたらしい。
「ううん、ちょっと、懐かしい夢をみてたの」
言いながら、もう大丈夫だというように、彼の手に自分の手を重ねる。
「それでね、杞憂だったな、って思っただけ」
私の言葉に、彼はほっとした表情を浮かべ、
「へんなユキー」
といって笑った。
そう、杞憂だったのだ。
夢のときから十年。名字を重ねた私たちは、毎日一緒にすごしている。
あの時とはちがって、今は、二人ならんで。