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 もう一度だけでいい。

 すべてを手にしたかった。

「あー、兄さん。もしかして金ないのか?」

 声には呆れと軽蔑がにじみ出ていて、男は思わず顔を伏せる。

 男にはもう、なにも残っていない。金になるものは全部金に換えて、その金は全部、目の前の男に渡してしまったのだった。

 安全に夜を過ごす権利も、身を守る道具も、ない。

 そこらに死体が転がる無法都市で、家も銃も失ってしまったらどうなるのか──冷静に考える頭も、男には残っていない。

「こっちも商売だからよ。金がないやつに、コレは渡せないんだよなぁ」

 見せつけるように男の目の前で振られるのは、薄い紙片に包まれた粉薬だ。

 薬の向こうには、かがんだ売人の顔がある。意地悪く笑う口元を見て、男はほとんど反射的に言った。

「な、なぁ、金ならなにしてでも用意するからよぉ……」

「つっても、兄さん、持ってるもんは大体売っちまったんだろ? 銃がないなら殺しもできねぇ。密売人か魔学者に、内臓でも売るしかないんじゃねぇか?」

「腎臓ぐらい、それに比べれば惜しくねぇよ……」

 だから、と男が継ごうとするのを、売人は大げさなリアクションで遮った。

 両手を上げ、顔を横に振って、薬をポケットに戻す。

 男にとって、いっそ死刑宣告のような意思表示。

 売人はすがりつこうとする男の手を払い、軽く突き飛ばす。男はそれだけでふらついて、汚れた床に尻をつける。

 売人は軽くため息をついて、ポケットの上から薬を叩いた。

「あーあー、コレのために体切り売りしちゃったらおしまいだぜ、兄さん。……だが、まだ一個も売ってないんなら、希望はある」

 来な、とだけ続けて、売人は男に背を向ける。

 そのままずかずかと歩き去る背中を見て、慌てて男は立ち上がった。震える手足は歩き方すら忘れてしまったようだが、外面など気にしていられない。

 そもそも、周囲に男を気にするものなど一人もいない。

 男がいるのは、集合住宅の屋上。人の出歩かない夜間であるにも関わらず、転落防止柵に囲われた領域には両手で数えきれないほどの人間がいる。

 そのことごとくが、虚空を見つめたまま呻くだけの肉の塊になっていた。

 楽園に行ってしまった者たちだ。

 彼らは薬が切れるまで戻ってこない。

 戻ってくるのを望んでいる者も、いないだろう。

「ほら兄さん、気ぃつけろ」

 売人に腕を引かれて、男は引きずられるように歩く。

 屋内に続く扉を売人が開けると、戸口には屈強な黒服たちが立っていた。短く悲鳴をあげた男を無視して、売人は見るからに物騒な黒服の隙間を通り抜ける。

 死すら覚悟した男だが、黒服は微動だにしない。いっそ、不自然に思えるほどに。

「階段だ、落ちるなよ」

 売人の言葉で我に返り、男はおぼつかない足でどうにか追いすがる。とはいえペースは完全に売人に掴まれていて、膝からは何度も力が抜けた。

 手すりや壁に体をぶつけながら階段を下りた男は、腕を引かれてようやく廊下へ出る。

 どこにも生活感がうかがえない集合住宅だった。

 その中の一室を迷いなく選んで、売人は扉を開ける。

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