02
錠はかけられていない。
誰かの生活のにおいも、しない。
「旦那ぁ、追加でさぁ」
売人は室内に向けて声をかけて、そのまま無遠慮に足を踏み入れる。
わずかな間接照明に照らされた、薄暗い部屋だった。身なりの整った紳士が一人立っていて、売人に気づいて男の方を向く。
薄明りに浮きあがる影は、人の形を作っていない──いや、九割は人の形と言えるのだが、ごく一部だけが異様な、人ならざる形をしている。
側頭部からのびる、尖った耳。
エルフ族と思しき紳士は、男の困惑に気付く様子もなく売人に応える。
「おやおや。今日は随分多いですね」
紳士の足元は、足の踏み場もなくものが散らばっている。家具の一つもないのに床がほとんど見えないありさまだ。
薄暗いせいでシルエットしか見えないが、大きなものが無秩序に転がされているらしい。
そのせいか、売人は部屋の隅で立ち止まっている。
気づけば売人の手は離れていたが、男は内開きの扉と売人の間に挟まれていた。
「コイツはまだ内臓売ってないそうで」
「それはありがたい。いやはや、さっきは一本無駄にしてしまいましたからね。私の薬のためとはいえ──体は大切にしていただきたいものです」
言葉を交わしながら、紳士はわずかな床に足をつけて売人と男へ近づいてきた。
目の前にして、ようやくその表情が読み取れるようになる。
うっすらと笑みを浮かべて、紳士は男へ右手を差し出した。
「初めまして、お客さま。ルーカスと申します。以後、お見知りおきを」
柔和な表情と声音で言われ、男は思わず握手に応える。
「ど、どうも……俺は……」
「あぁ、いや、あなたのお名前は結構です」
「え……?」
きっぱりと拒絶して、しかし手は離さないまま、ルーカスはまっすぐに男を見る。
冷えきった薄青の瞳が、柔らかい表情の中で異様に浮いていた。
「それで、えぇ、いつもの薬でしたね」
「か、金は……」
「結構ですよ。オマケもつけましょう」
ルーカスの甘すぎる言葉に、判断力のにぶった男の脳は簡単に篭絡される。
いつもの薬。それが手に入るのならば、なんでもいい。
そう思った途端、男の首に突き刺さったのは、一本の注射針だった。
「私のとっておきです」
左手に注射器を持つルーカスの言葉を、理解する間もない。男の自我は、投与された薬物に奪われる。ぐるりと上を向いた目は虚ろに。力の抜けた口からはよだれが落ちる。
注射器の中の薬を打ちきって、ルーカスは男から手を放した。
「邪魔にならないところに寝てください」
ルーカスの指示に従って、男はふらふらと部屋の中を進む。
床に転がる障害物を越えて、自分が収まるスペースまで至るとそのままばたりと倒れこんだ。
それきり、動かない。
男の末路を見てから、売人は廊下へ通じる扉を開いた。
「これで今日八人目、全部で三七人目っすか?」
「そうですね。これだけ手駒があれば充分でしょう」
「んで、旦那。そろそろアグローでなにするのか、教えてくれませんかねぇ?」
「ちょっとした探しものですよ」
促されて先に外へ出たルーカスとともに、売人も廊下へ消える。
扉が閉まった部屋に残されたのは、薬物中毒者のなれの果て。
床に転がったまま呼吸を繰り返すだけの、八人の人間だった。