7.番犬・ヘルハウンド
城館の庭では、二つの影が浮かんでいた。
「ふぅ……この囚人は、このままでいいのか?」
剣を握った男――エリックは、首の無い囚人の死体を見下ろしながら、一つ息を吐いた。
あの中にセラフィーナがいる――薄ぼんやりと暗闇に浮かぶ城館を見上げる顔は、どこか物憂げだった。彼女がすぐそこにいると思うだけで、彼の胸がどくっと跳ね、身体中に熱い血液が巡り始めてしまう。
しかし、それは絶対に得る事が出来ない花、高嶺どころか雲上に咲く花である。
(魔女に操られていた父上も、事あるごとに母上を求めていたと言うが……)
彼自身も同じであった。彼女を抱きたいと思うほどに、無性に“女”を求めてしまうのだ。
城の女の後ろ姿を見るたび、“男の欲”が掻き立てられる。これまで“女に”興味が無かったわけではないが、誰でも良いと言う感覚が、彼自身に嫌悪感を抱かせる。
許される立場であるが、流石に手を伸ばすわけにはいかないため、我慢しようと思っていたが……それは適わず、初めて高級娼婦を買ってしまった。
(シントンに向かうのは来週、か――)
シントンの“目的”は、既にテロールから聞いている。王家の者として、妹も覚悟を決めたのであれば、彼自身も覚悟を決めねばならない。
婿として向こうに行くには問題はない。彼の婚約者であるソフィア王女も、その父親も喜んでくれているようだ。
しかし、思い出されるのはソフィア王女の笑顔ではない。誕生パーティーの夜、一つ年を取ると共に、“女”になった彼女の柔肌と温もりである。
正直な所、心の“空虚”を埋めてくれる“彼女”さえいれば、どこの国の王でも良かった。
そしてまた、最近になってもう一つ、“寂しさ”を埋めてくれる存在がいた。それは、いつもひょっこりと現れる黒い獣――
「お、ブラード……て、何か元気ないな。どうした?」
ブラードは目を潤ませながら『きゅーん』と細く悲し気に鳴いた。
耳が痛むため、垂らした耳をあまり動かしたくないようだ。
「腹でも減ってるのか? 食い物は……城まで来れば、今日の残りの肉があると思うぞ」
エリックの言葉に、ブラードは『うぉん!』と吠えた。
先日、エリックと城に向かってからと言うもの、時々城に顔を出しては飯を貰っているのだ。
犬は怒られると深く落ち込むが、気持ちの切り替えが早い。城にいる飯炊き女の一人がお気に入りであり、そのガードの甘いスカートから覗く股ぐらが堪らなかった。
あちこちが縮み上がった“恐怖”は他所に、今の彼の興味は別の女の匂いに向いている。
◆ ◆ ◆
その頃、城館の中では、セラフィーナたちが部屋に戻って来ていた。
湯上りの女たちは頬を朱に染め、湯上りの一杯を堪能しながら、これからの張り込みに備える。
「……あら? お兄様がもう来られたようですね」
「愛想無いですわね。中で待っていればよろしいのに」
「まぁ、来たら更にややこしくなるけどね」
「言われてみれば、確かにそうですわね。
セラフィーナさんを見て、爆発されても困りますし」
「ま、私は別にそれでもいいけどね。そうなると、“毒”が消えちゃうけど」
「あら、ついに兄様に惚れられましたの?
まぁ、あの女の物になるのなら、貴女と
「――ち、ち違うわよ! そんなのあるわけないじゃないっ!」
セラフィーナの朱色の頬に、僅かに赤味が差したように見えた。
それを見たミラリアは、どこか楽しげに口元を緩ませている。
「そ、それで死体はどうなってるの?」
「……まだのようですね。庭で首が落ちたままになっています」
「死体が消える――おどろおどろしいですが、実に興味深いですわね。
一体いつ、どのようにしてそれが消えるのか、私のご先祖様はここで一体何をさせていたのか……解明すべき謎が多いですわ」
テロールはそう言うと、ミラリアが淹れた紅茶を啜った。城の居室と比べれば、ずいぶんと冷える部屋であるが、それでも一人でいるよりは温かい。
外はしん……と静まりかえり、風がざわめく音だけが聞こえるのは共通している。
唯一違うのは、部屋の中では中身の無い女同士の会話が繰り広げられているだけ……そんな
それも他の姫君や貴族の娘と話す物とは違う。今流行りの詩や花などではなく、生々しい“女”の話であった。
「――で、アンタは朴訥なその王子サマに惚れちゃったわけね?」
「ほ、惚れたってわけではありませんわ!
もう少し話がしたかった、と思えた殿方ってだけ……ですが、他の女と結ばれたと聞いて少しショックでしたわ」
「この人! って決めた時に行かなきゃダメよ。
男なんて理想はあっても、余程アレなのでなきゃ女と話すだけでその気になるんだから。私なんて……って思うのは大敵よ」
「だからそうではっ……と言いたいところですが、確かにその通りですわ。
もう少し痩せたら、他の姫君みたいに着飾ろうか……と思っていたら過ぎ去ってましたの」
「ふふっ――その点、フィーちゃんは考える前に突撃しますからね。
ですが、速攻・力押し一辺倒だと、本当に得たい時に得られなくなるので注意ですよ」
「うぅ……どう言うわけか、最終的にみんな姉さんの方に行くんだよね……」
「……わたくしも分かる気がしますわ」
最初はイケイケのセラフィーナに向かうが、その先に物腰の柔らかい“女性”がいれば、彼女はただの“通過点”の一つとなってしまうだろう、とテロールは思った。
ミラリアには見た目もその中身も、全てにおいて勝てる気がしない。真似ようとしても到底出来そうにもない、テロールからすればまさに遠い存在だった。
「全く同じ人はいませんよ――己の中で良し悪しを決める事は、己を見失うことに繋がります。
模倣は参考にはすれど、それを己にしてはなりません。色も形も違うからこそ、“美”があるのですから」
「確かに……その通りですわね」
「ためしに、城の男に色目でも使ってみれば?
きっと『“珠の枝”を探しに行け』と言えば、本当に探しに行くわよ」
「そ、そんなのできるわけないですわっ!」
「あら? テロちゃんの“女王様気質”を押し出せば、兵士さんたちはコロっといきそうですよ」
「アンタが女王の内は、完全に“女王の犬”――忠犬部隊となるわね」
魔女の言葉に全て耳を貸してはならない――と思うテロールであったが、頭の片隅では『色目とはどうすれば良いのか』との思いが浮かび上がっている。
◆ ◆ ◆
夜も更けた頃、黒犬が大あくびをしながら森を歩いていた。
澄んだ空気の中、秋の虫の求愛の音が響き渡る。小さな音でも、彼には何十倍の音量になって聞こえてしまうが、人間が奏でるような不快な音ではなかった。
――まさか見つかるとは思わなかった
彼は『おしい事をした』と大きく息を吐いた。
彼のテリトリー内では木々のざわめき、鳥のさえずり、獣の息遣いしかなかった。
どうしてそこにずっと居たのか分からないが、何となくそこにいなければならない気がしていたのだ。
しかし……つい最近になって、彼のテリトリーに足を踏み入れたどころか、勝手にそこに住みついた者たちがいた。
――あの姉妹は最高にイイ!
まず姉だ。彼にとってあの匂いは最高であった。
それに、何の警戒もせず可愛がってくれる。彼の甘え……『もっと撫でて』と、催促に見せかけたパイタッチから感じる弾力は、何より良い物である。
方や妹の方は、姉のようにタッチできないのが残念だ。しかし、その脚や尻の感触はよく、気質も『踏んで下さい』と言いたくなるほどの物であった。事実、素足で顔をムニムニされた時は、最高に良かったと思い出す。
しかし……“女の感触”を味わうのは今日までだ。まさか姉のブラの匂い・感触に陶酔している所を見られるとは、夢にも思わなかったのである。
今日の朝、風呂に入った姉を覗こうとした時、脱衣場に落ちていたのを隠したのだ。
肉付きのよい金髪女が来ており、彼女たちが風呂場にやってくるまで時間があると思い、少しだけ堪能しようとしていたら……思っていた以上に時間が経ち、思っていた以上に彼女たちが来るのが早かった。
――完全に油断していた
あの姉は怒ると怖いと思っていたが、記憶の扉を封じてしまうほどの“恐怖”を味わうとは思ってもみなかった。
あの姉妹ほどではないが、この金髪縦巻女の城にいる女たちも悪くはない。ここの女たちを物色し、いくつかの候補を挙げた――ここに来たばかりの飯炊き女と、行き遅れのメイドが中々良い。
彼女たちの匂いや感触を味わっていると、気が付けばどっぷりと夜が更けていた。
――
城館にさしかかった時、どこからか血の臭いが漂ってきた。
――ああそうか、そう言えばそうだっや
彼はその臭いを嗅いだ時だけ思い出す。汚臭を放つそれの脇を通った時、ブシッ……と鼻を鳴らした。
澄んだ空気の中に漂う男の臭いは、とても
女であれば汚臭、死臭でも問題ない。
“客人”の匂いもそう悪くない。後で堪能しに行こうと心に決め、大理石の階段をのぼるや、迷いなくセラフィーナの区画へと歩を進めた。
チャッ……チャッ……と、石畳と獣の爪が当たる音を響かせ続け、ふとある場所で足を止める。
――相変わらず、面倒くさいところだ
目の前にある、大きな絵画、
その絵画のフレームの下――三センチほどの僅かな隙間に
カチッ……と音が鳴ると同時に、獣の耳にしか聞こえぬ、空気が流れる音が聞こえて来た。そして、近くの部屋で十分ほど待機する……それが彼が、密かに行う
しかし、部屋を出た時――
『あらあら……まさか、ブラちゃんが一枚噛んでいるとは思いませんでしたよ』
マスクを被ったミラリアが、その部屋の前に立っていたのである。