第十四話:ドラゴン教育論②
「ぷっ……くふふ……」
「笑うな、カヤ!」
「いや、だってさぁ……」
俺と朱里の様子を見てくすくすとカヤが笑う。
そりゃそうだ。俺がカヤの立場でも笑っていただろう。
くりくりした目を瞬かせ首を傾げる朱里と、その前に座って買ったばかりの童話の本を開く俺の対比はとても似合わないに違いない。
そもそも、相手が子供ならばともかく今回の相手は竜なのだ。多少愛玩動物めいた可愛らしさがあるとは言え、動物に向かって本を読み聞かせる俺はピエロ以外の何者でもないだろう。
「くぎゅ?」
朱里が短く、なんだかよくわからない鳴き声をあげる。ため息をついて本の裏表紙でその頭をぽんぽんと叩くと喜びの声を上げて飛びついてきた。なんだこれ。
毎日体重と身長を測定しているのでわかるのだが、のしかかってくる朱里はもう五十キロもある。
もしかしたらもうカヤと同じくらいの体重があるのではないだろうか。朱里の体重は知っていてもカヤの体重は知らないので何とも言えないが、朱里の感触はすべすべしていて暖かくはあってもやはり人間ではない。
翼と尻尾がばしばしと押しのけようとする俺の腕を打つ。軽くなので痛くはないが、いらいらする。
「おい、てめえ。俺に触れるんじゃねえ!」
「?」
こういう時ばかり、朱里は言葉がわかっていない振りをしてくる。
何で餌もってこいがわかるのに触れるながわからないんだよ。
「重いんだよ、お前ッ!」
「クジョ―、朱里に汚い言葉教えたら情操教育に悪いからだめだよッ!」
朱里がざらざらした舌で俺の頰を舐めてくる。開かれた顎には銀色の牙が無数に生えそろっており、指の一本や二本簡単に食いちぎられてしまいそうだ。
というかこいつ、じゃれてるんじゃなくて俺の味見してるんじゃないだろうな……。
ばたばた暴れるので椅子から転がり落ちる。仰向けに倒れた俺の上に朱里がのしかかってくる。
お……重いッ!
そんな俺を見て、今日も今日とて、朱里の世話というより俺の世話をしに来てくれたカヤが穏やかな表情で言った。
「クジョ―も随分と朱里と仲良くなったね」
「この光景を見てそんなこと言えるのはお前だけだッ!」
俺に仲良くしているつもりはない。飼い主としての最低限の責任を果たそうとしているだけだ。
慣れる慣れないで言えば、飼ってもう一月以上経っているのだからそりゃ慣れる。だが、俺が慣れている以上の朱里が俺に慣れてきているのだ。
餌もってこいの命令も聞くし、じゃれる時も爪を立てないように注意して飛びかかってきている。舌で舐めてくるのもここ最近から始めた行動である。散歩の時間になるとリードを持って頭をぐいぐい押し付けてくるし、カヤの来ない日は散歩がお休みだということも理解している。
朱里が俺の上に乗ったまま、チラリとカヤの方に鼻先を向ける。その目の眼光は俺に向けているものと明らかに違った。生まれたての頃よりも鋭くなっているようにすら見える。
俺にはこれほど慣れているのに、朱里の他の人間に対する態度は酷いものだ。その中でも最も酷い対応を取られているのは間違いなくカヤだった
もしかしたら、親代わりである俺をカヤに取られると思っているのかもしれない。言っとくけど、俺はカヤと朱里だったら躊躇わずカヤの方を取るから。
何で女の子とドラゴンでドラゴン優先しなきゃいけねーんだよ。誰だっておっぱい大きくて美人で家が金持ちの幼馴染取るわ。
そもそも、うちにも鏡くらいあるし、俺の姿と自分の姿、全く違うことに気づいていないわけもないだろうに。
§ § §
俺は早々に朱里の教育を諦めた。
方法がいまいちわからなかったのも理由の一つだが、一度はドラゴン教育を試みた俺から言わせてもらえれば、ドラゴンの教育で一番のハードルとなるのは――成果がわからない点だ。
当然だがドラゴンは人の言葉を喋れない。もしかしたら喋れるドラゴンもいるのかもしれないが少なくとも朱里は喋れない。
つまり、俺の話すありがたい話を理解しているのかどうなのかわからないのだ。ドラゴンの手じゃ羽ペンも持てないので筆記試験をやらせるわけにもいかない。
見えない成果を信じて反応の少ない動物に本を読み続ける事など、余り根気のない俺にはできなかった。一応尻尾を振って喜んでいたのだが、朱里はただ撫でるだけでも尻尾振るからな。
というか、喜ばせるためにやってるわけじゃないし。
それでも三日くらいは続けたのだが、結局朱里のカヤに対する視線が変わることはなく。
もう無理だよ。きっとドラゴンってそういう生き物なんだ。情操教育するよりもふん縛ってカヤから遠ざける方法を考えたほうが早い。
購入した本は結局無駄金だった。一気に十冊近く買っちゃったけど、一冊ずつ買えばよかったのだ。俺は昔からそういう風に効率的にやろうとして失敗してしまうきらいがある。
ほぼ空っぽだった本棚に十冊の本が収まる。
やたら立派な装丁の背表紙を眺めながら、ため息をついていると、ふと履いていたズボンの裾が引っ張られる気配を感じた。今日はカヤは来ない日だし、そもそもカヤはズボンを引っ張ったりしない。
下を見下ろすと、朱里がズボンをちょいちょいと咥えて引っ張っている。
遊んで欲しいのか? 残念ながら、俺はドラゴンと遊ぶ趣味はない。
犬だったら芸を教えたりできるのだが、ドラゴンである朱里は犬よりも賢く、芸なんて簡単に覚えてしまうので逆に達成感がないのだ。もうお手も伏せもちんちんもできる。
なんかもう面倒だし檻にでも入れるか。
そんなことを考えているとふと気づいた。
朱里の視線が俺の顔と本棚の方を行ったり来たりしている。
「お前、まさか本を読んで欲しいのか?」
「きゅー」
俺の質問に、朱里が甘えるような声を出す。面倒くせえ。
大体、仮に言葉を理解していたと仮定しても、本は人間が読むためのものだ。今更だがドラゴンの感性で理解できるのかかなり怪しいし、そもそも人の感性が理解出来ていたらほぼ毎日ご飯を作りに来ているカヤを無碍にするような事はないだろう。
「駄目だ。なんかもう眠いから俺はもう寝る。読みたいんなら勝手に読むんだな」
俺は自炊とか出来ない。さすがに丸一日ご飯を食べないのはきついので、朝ごはんは適当にパンとか食らうのだが、カヤがご飯を作りに来ない日は腹が減るので早めに眠る事にしている。
欠伸をして大きく伸びをすると、まだ本棚の方を名残惜しげに見上げている朱里に言い捨てる。
「俺はもう寝るから、お前も眠くなったらいつも通り檻に入っとけよ。俺のベッドに入ってくるなよ」
昔は乗っかってきても別になんともなかったのだが、ここ最近の体重だとかなり辛い。
朱里が小さく頷いたので、明かりを消して寝室に向かう。
しかし、ドラゴンに話しかけるの見られたら頭おかしいと思われるだろうな。
§ § §
翌日。珍しく、カヤに起こされる前に目が覚めた。
ふらふらとしながらも起き上がり、寝間着のままリビングに向かう。
そこでは、朱里が本を読んでいた。
「……」
朱里が、いつも俺が座っている椅子の上で背もたれに背を預け前足で器用に本を広げて読んでいた。
頭を振り、顔を洗いに行く。冷水でじゃばじゃばと顔を洗い、眠気を跳ね飛ばす。カヤが定期的に洗濯してくれるタオルで顔を拭いて、もう一度リビングに向かうと朱里が本を読んでいた。
目をこすってみるが、光景は変わらない。
「……俺はとうとう狂ってしまったのか?」
最近頭を使う機会がなかった。それか? そのせいなのか?
馬鹿な。常識的に考えてドラゴンが自分で本を読むわけがない。だってドラゴンはいわば巨大な蜥蜴であり、一万歩譲って椅子の上に腰を下ろすのは良しとしても、文字を読めるのは良しとして、その手でページが捲れるわけがないではないか。
これが夢なのか真剣に迷う俺の前で、朱里が爪の先を器用に使ってページを一枚捲った。目を疑う。
そこで朱里がリビングの入り口で立ち竦む俺に気づき、その頭を上げる。眼と眼が合うと、ぴぎゃーと鳴いた。
「あはははは……そんな馬鹿な……」
もし俺がカヤにドラゴンが本を読んでると言ったら可哀想なものでも見るかのような目で見られるだろう。もしもカヤが俺にそう言ってきたらカヤを可哀想なものでも見るかのような目で見てしまう自信がある。
ただ呆然とそのファンシーな光景を見ていると、ふと玄関の鍵が開き、扉が開いた音がした。
入ってきたのはカヤだ。朝っぱらから食材でも買ってきたのか、手に大きな紙袋を抱えている。突き出した焼き立てのバケットの上から、いつもどおりブラウンの目が覗いている。
「ただいま……あれ? クジョ―? もう起きてたの? 今日は早いね」
ただいまって……ここ、お前の家じゃねーから。
つっこみが浮かぶと同時に何故か実感した。夢じゃない。これは断じて夢じゃない。
本を読むドラゴン。間違いなく現実だ。
「カヤ、魔導カメラもってこい。これは売れるぞ」
「へ? ええ?」
困惑するカヤ。その目がようやくリビングでくつろぐ朱里に向けられ、固まった。そうそう、それそれ。それが普通の反応だよな。
なにこれドラゴンって自分で本読めるの? ありえん。すげえ。