2.地図にない館
記憶を辿るも、上手く思い出せない――。
だが、ベッドの上にいる女はそんな事よりも“
「ん……はぁ……」
真っ暗な世界の中で、水音が混じり合い、女――セラフィーナは熱を帯びた吐息を漏らした。
ベッドの上には彼女だけではない。顔が分からないが、男が彼女に覆いかぶさっている。
彼女が身じろぎするたび、ギシ……と小さく軋みをあげるベッドの上で、男は褐色の肩に頬を付け、フンフンと小刻みに鼻を鳴らし続けた。
首筋を撫でる荒い息づかいはくすぐったいが、嫌いではない。彼女はそれに応えるように、艶めかしく口角を上げた。
そうすると男は喜び、その濡れそぼる唇を貪るように求め始めてゆく。
――チョロいものだ
獣のような愛撫に身を委ねながら、セラフィーナは心の中でほくそ笑んだ。
冷静になったその時、ふと……頭の片隅で、“今現在”の自分に疑問を抱いた。
(男なんて、いつどこで誘ったんだろ? 出会った記憶もないんだけど……)
姉のミラリアと共に、雑草生い茂る道を掻き分け突き進んでいたところまでは思い出せる。
目の前の男はよほど女に飢えていたのか、今度は彼女の唇から鼻先まで舐めまわし始めてきた。顔を少しそむけても、そうはさせじと追いかけてくる――。
必死に“オンナ”を求める男は嫌いではないが、『これでは本物の獣のようだ』と彼女は可笑しくなった。
(……獣? ああそうだ、姉さんと獣道を通ったんだっけ?
確かそのあとに――ん?)
途中までしか荷車が入れず、そこからは身一つで獣道を歩き続けたはずだ。
ゆっくりと、今にも切れそうな記憶の糸をたぐり寄せてゆく。
(えぇっと、確か……茂みを抜けた所に、薄ぼんやりと城のようなのが見えて……。
ああ、そうだ! そこで廃城のような建物を見つけたんだった!
人の気配がないし、夜明けに探索をしようと玄関ホール近くの部屋に……あっ!)
彼女はそこで我に返った。どこを取っても男を誘うような状況・場所ではない――こんな状況下で男から金をせしめるような事なぞ全くしないはずだ、と。
そもそも、やったとしてもベッドインするまでに金を奪い、逃走しているはずである。
(じゃあこれ……いったい……誰なの?)
セラフィーナは目を凝らし、男の顔を確かめようとするが、それはまるで影が実体を持った<<ドッペルゲンガー>>のように、顔が真っ黒に塗りつぶされていた。
相手の顔だけではない。今いる場所すらも分からなかった。周囲は闇に包まれており、深淵の海の上に、硬いベッドだけが浮かんでいるのだ。
己の身体が浮いているのか、沈んでいるのかすら分からない。
“得体の知れぬ者”は、なおも彼女の鼻と唇をベロベロと舐め続け、時おり舌まで割り入れようとしてくる――。
(い、息が……な、なん、で……ね、えさんたす……)
視界がかすみ始め、次第に闇との境目が分からなくなってゆく。
セラフィーナは恐怖を覚えた。彼女は最後の力を振り絞り、ぐわっと思い切り瞼を開くと――。
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突然、眩い光に世界が包まれたかと思うと、くぐもった鈍い音が耳の中で鳴り響き始めた。
開かれたままの瞳の中に、多くの情報が飛び込んで来る。まず映ったのは、灰色の天井を背にした黒い犬――の姿であった。
「え……わっ、わああああっ!? な、何っ、何なのこの犬っ!?」
「――あー、やっと起きましたね。はい、もういいですよー」
彼女の目の前に、ハッハッ……と息を吐き尾を振る、赤目の大きな黒犬が居る。
その傍らにいる姉に気づいたのは、しばらく呆然とそれを見つめていた後であった。
「ね、姉さんっ――じゃないっ、この犬は何なのっ!?」
「フィーちゃん、
溜まってるなら遠慮せず発散していいんですよ? 気づかなかったフリをしてあげますし。
「そ、そんな優しい気遣いはいらないわよっ!?
と言うか、普通に起こしてよ普通にっ! それと、この犬の説明をしてっ!?」
「ああ、この子は“ブラック・ドッグ”の〔ブラ〕ちゃんです」
「ぶ、“ブラック・ドッグ”!?」
「はい。昨日の夜中、おしっこに行ったら、たまたま見つけて仲良くなりました」
ミラリアは屈託のない笑顔でそう答えると、“ブラック・ドッグ”と呼ばれた黒犬も『ウォンッ』と一つ吠えた。
姉はホワホワとしている性格のせいか、よく動物にも懐かれ、こうして連れて帰って来るのである。
しかし、今はそんな事よりも――
「これがいるって事は、他の魔女が近くにいるんじゃないの!?」
「そう思いましたが、どうやら野良ドッグのようです」
“ブラック・ドッグ”は、地獄の女神の猟犬とも呼ばれている。
それにあやかり、番犬代わりにこれを飼う魔女も多くいるのだ。
「――この城……いえ、城館を根城にしていたようですね」
「城館が犬小屋か……何とも贅沢な犬ね」
思わぬ“悪夢”によってかいた寝汗を拭いながら、彼女は周囲を見渡しながらそう漏らした。
ミラリアの言葉通り、そこは廃城と言うより城館と言った方が正しいだろう
窓は割れ、壁のあちこちが薄汚れているそれは、ずいぶんとみすぼらしく見える。
夜はあまりよく見えなかったが、大きな棚やカゴがあるところから、どうやら小さな食糧庫か備蓄庫に入っていたようだ。
「城館にしては、ずいぶんと子ぢんまりとした館ね……まるで戦争に使われた“砦”みたい」
「ブラちゃんが軽く中を案内してくれましたが、中は住むには問題くらいでしたよ」
「あ、もう探索はしたんだ?」
「ええ。ですが……少し妙な感じがして」
「……妙?」
「砦にしては、物々しい雰囲気はありませんし、城館にしては狭い。
部屋数はそれなりですが、大きさに対して多すぎる……まるで――巨大な倉庫です」
姉の呟くような言葉に、セラフィーナは神妙な面持ちのまま耳を傾けていた。
ミラリアの感覚は鋭く敏感であり、彼女の<
そのため、彼女がもし“危険”だと感じれば、セラフィーナも黙ってそれに従うようにしてきた。
「――じゃあここは、避けた方がいい?」
「いえ、何が引っかかるのか不明でありますが、“黒い”それではないので大丈夫でしょう」
「そう。じゃ、住んでも問題なそうね」
不安や危険であれば“黒色”、良い事であれば“白色”、特に問題が無ければ“灰色”と彼女は表現していた。
“何か”が感じられるものの、“灰色”であるため問題はないようだ。
「――ですが、一つだけやらねばならない事があります」
真面目な表情のミラリアに、セラフィーナは顔をひきしめ、固唾を呑んだ。
「……うん」
傍に控えていた黒犬も口を閉じ、耳を後ろに傾けながら居住まいを直す。
重い空気が周囲の音を遮断しているのか、耳の中でどっ……どっ……と脈打つ音だけが鳴り続く。
ミラリアは、ゆっくりと息を吸うと――
「お茶にしましょうっ♪」
パァッと明るく変えた声に、セラフィーナと黒犬は足を滑らせた。
「こ、これまでの緊張は何だったのよ。はぁ……」
セラフィーナは呆れたように額に手をあて、ため息を吐いた。
黒犬も同じ気持ちであるのか、それに続いて『グゥゥ……』と力なく唸る。
「だって、昨日からお預けのままなんですよっ!
昨日もシなくて、今日もシないとか、おかしくなっちゃいますっ!」
「あぁ、はいはい……。でも、あまりゆっくりやれないからね?
ここの調査と、手前において来た荷物の搬入、掃除もしなきゃならないんだし」
「はぁーいっ♪ じゃ、フィーちゃんはお湯を沸かしてくださいね。
私は、おしっこして来ますので」
「はいはい……」
茶を煎れるのは姉の役目であるが、湯を沸かすのはセラフィーナの役目だった。
その間に、ミラリアはトイレに行き、万全の状態にする――これが彼女たちの“お茶会”の準備なのだ。
セラフィーナは持ってきた荷物の中から、水が入った皮袋と鍋、バケツ状のグリル……そして、手のひら大の水晶玉を取り出す。本来は、金属バケツのようなそれに炭を投入する物だが、彼女たちはそのような物は一切使用しない。
彼女は手にした水晶玉を胸の前に掲げるや、片手を水晶玉にかざし精神を統一し始めた。
【太古の炎よ、我が呼びかけに応じ、今ここに宿れ――】
すると突然――水晶玉がゴウゴウと音を立て、橙色の光を放ち始めたのである。
魔女と水晶玉は切っても切れぬ関係であるが、セラフィーナは占いなどには使ったりはしない。
彼女は手慣れた様子でグリルの中にそれを入れ、網をかけた。グリルからは、煌々と炎の灯りが覗いているが、煙は生じていない。
しかし、水晶玉は光だけを発しているわけでもないようだ。
水を張った鍋をそこに乗せていると、時間とともに、ポツ……ポツ……と鍋の底に気泡が生じ始め、揺らめきながら水面に登り始めている。
水晶玉の火力は高く、水温がみるみる上がってゆく。鍋底の気泡の数が増え始め、粒が大きくなろうかとしていた頃――そのタイミングを見計らっていたかのように、ミラリアがハンカチで手を拭いながら戻って来ていた。
「――姉さん、遅いわよ。もうすぐ湧いちゃうよ」
「あら……なら、急がないといけませんね」
ミラリアの動きは非常にゆっくりしており、その間に、セラフィーナはグリルから鍋を外し、煮立った湯を冷まし始めた。
最も神経を使う時であった。姉は、紅茶の煎れ方に強いこだわりを持っている――もし、たかが湯だろうと手を抜こうものなら……一週間は、恐怖で眠れぬような目に逢ってしまう。
「よしっ、お湯いけるよっ!」
「タイミングばっちりですね。では――」
ミラリアは鍋を受け取り、ティーポッドにそれを注いでゆく。
入っている茶葉は安物であるが、ミラリアが厳選しただけあって、鼻をくすぐる芳醇な香りが周囲を漂わせ始めた。
しばらく蒸らすと、今度はそれを高い位置から、温めたティーカップの中に注ぐ――これが彼女のお茶の基本の流れであった。
「はぁー、やっぱりフィーちゃんが沸かしたお湯が一番ですね」
「<マジックスフィア>の湯も、普通に火を
「む、聞き捨てなりませんね。
フィーちゃんの“火の魔法”で沸かしたお湯は、まろやかさが違うのですよっ」
「ああ、はいはい……」
<マジックスフィア>とは、先ほどセラフィーナが使用した水晶である。
厳密に言えば水晶ではないが、その透明な珠に彼女らの“魔法”をかけると、内部にその効果を留められる代物だった。
先ほど彼女が使ったのは、それに“火の魔法”を籠め、“炎の珠”にしたのである。
主にコンロや暖を取るなど、本来の使い方ではないものの……煙が上がらない上に後片付けが非常に楽であるため、彼女たちの生活の中では非常に重宝していた。
空き家住まいがバレた時の即時撤退及び、逃亡生活などには持ってこいなのだ。
(逃亡先は“謎の城館”、か……。
少し見た感じでは何十年……いや、百年は人が足を踏み入れてないわね)
このままでは、<スフィア>を使った効き湯大会が開催されかねない――と、セラフィーナはまだ熱い紅茶をぐっと飲み干した。
「んもう、せっかく美味しいお茶なのに、もっと味わって下さい!」
唇を尖らせるミラリアであったが、セラフィーナの心は既にここにあらずだった。
好奇心旺盛な彼女は、金に関する嗅覚が鋭い。『金目の物が、どこかに遺されているのかもしれない』と思うと、居ても立ってもいられなかったのだ。