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秋も暮れて冬の気配ただよう11月のこと、店先を掃き清めようと箒を持ってドアを開けた靖子は、ドアマットの上に一匹のバッタがとまっていることに気づいた。
「あらまあ」
隣の空き地の草はすでにほとんどが枯れて硬くなっている。アスファルトは冷たい空気をたっぷりと吸い込んでいたいほど冷え切っているのだし、緑色のドアマットの上を快適な草場だと勘違いしたのだろうか。
「そんなわけないわね、いくらなんでも、草かどうかなんてかじってみれば分かるもの」
靖子はそのバッタをつまみあげて、店先にあった鉢植えのサザンカの葉の上に下ろしてやる。
ゴワゴワと固い葉はバッタの好むものではないだろうが、プラスチック繊維でできたドアマットの上よりかはマシだろうと、そう思ったのだ。
「ふふっ、バカみたいね」
この冷え込みのなか、ちっぽけなバッタなどに情けをかけても無駄だろうに。
バッタは靖子につままれても暴れたりせず、長い後ろ脚をゆっくりと伸ばしただけだった。
明らかに衰弱しきっている。
それでも、まだ命ある小さな生き物を、人に踏まれるかもしれないドアマットの上に置いておくことなどできなかった。
「そうよ、誰かが踏んだら汚れちゃうもの」
誰に聞かせるわけでもない言い訳をつぶやいて、靖子はバッタの体からそっと手を離した。
靖子が夫と二人で切り盛りするこの店は小さな定食屋だ。
昼の部が終わった三時ごろ、店の看板をしまいに出た靖子が植木鉢を覗くと、すでにバッタはいなくなっていた。
ドアマットの上にも、道路にも、ひしゃげて張り付いたバッタの姿がないことを確かめてから、靖子は店の看板をしまった。
バッタのことを思い出したのは、夕方の部を開けようと煮物の仕込みをしている最中のことだった。
「そういえば、あの子、どこに行ったのかしら」
靖子の声に、傍らで焼き物をしていた夫が顔を上げる。
「どの子?」
「いえね、今朝のことなんだけど……」
靖子の話を聞いた夫くんは少し呆れたように笑う。
「そんなことしても意味ないだろう、せいぜい死に場所がドアマットの上か、植木鉢の中かって違いでしかないよ」
「ええ、ええ、わかっているわ、でもね、あんまりにも寂しかったんだもの」
「まあ、そういう優しいところがお前のいいところか」
夫くんは細君の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「もしかしたら、バッタが恩返しに来るかもな」
「ふふふ、恩返しされるようなことはしてないわよ」
「や、なんてえの、そういう優しい気持ちに見合うだけの、何かをしてやりたいとか、思うじゃん?」
優しく微笑む靖子の肩をポンと叩いて、夫くんは明るい声を出す。
「バッタの恩返しなんて縁起がいいじゃねえか、もしかしたらお客さんがバッタバッタと跳ねて来るかもしれないぞ」
「そうだといいわね」
しかしこの日、夕方を過ぎて急にコートの前を合わせなくては震えるほどに気温が下がったせいだろうか、客足は思わしくなかった。
「バッタの恩返しなんてなかったわねえ」
靖子の声がいつもより沈んで聞こえるのは、少しでも恩返しを期待していたのだろうか。
しかしそれは浅ましさではなく、ただ小さなバッタの訪ねて来るのを楽しみに待つような、そんな優しい気持ちだろう。
そんな靖子の性根を知っているからこそ、夫くんは前掛けを外してカウンターを出た。
「少し買い出しがあるんだ、店番を頼んでも大丈夫かな」
「ええ、どうぞ。どうせ今夜は、もうお客様も来ないでしょう」
そんなやりとりの後で、夫くんが出かけたのはほんの十分程度のことだった。
「いやあ、遅くなってごめんよ」
戸を引いて入ってきた夫くんが下げているのは、あまりに小さなコンビニの袋が一つだけ、透けて見える中身はペットボトルのお茶が二本きりだ。別に慌てて買いに行くようなものでもないのに。
その袋をカウンターに置きながら、夫くんは不思議そうに首を傾げてみせた。
「しかし、表の植木鉢にあるあれはなんだろう、お前、何かしたかい?」
「え、なんのこと?」
「わからないなら、自分で行ってみてごらん」
靖子が表に出ると、植木鉢のサザンカのひと枝にビニール袋がぶら下がっていた。
「なあに、これは」
開けてみれば、パック詰めの草もちが入っている。
夫くんがそわそわした様子で店からこちらをみているのだから、これを置いたのが彼であることは明らかなのだが……靖子は嬉しそうな声を出した。
「まあ、きっとあのバッタの恩返しね」
夫くんがホッとした顔で笑う。
「恩返し、あったじゃねえか」
「そうね」
素知らぬ顔をして、靖子は店に戻る。
「せっかくバッタさんがくれたオヤツなんだから、頂きましょうか」
「おお、ちょうど俺もお茶を買って来たんで、甘いものが欲しいなー、と思ってたんだよ」
「ふふ、じゃあ、バッタさんに感謝しなくちゃね」
表ではピューと風なりの音がする。けれど店の中は、ほんわりと暖かい。
パリッと音を立てて草餅のパックを開く靖子は、心の底まで温められるようなこの気持ち、これこそがバッタの恩返しなのではないかと、ふと思うのであった。