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二人が笑う声は廊下にまで響き渡る。
トントンと階段を踏み鳴らしながら二階へあがってきた姫君は、あきれたように大きなため息をついた。
「まったく、あの男はまた……」
ところでこの少女、制服の上にいかにも家庭科で兄が作ったと思しき趣味の悪い迷彩プリントのエプロンをつけている。
袖はひじのところまで捲り上げ、髪も後ろで大きくひとつにまとめた姿からも想像できるように、たった今のいままで、兄に食べさせる朝食の調理をしていたところである。
だから、典正の馬鹿笑いに対して腹がたつも当然のこと。
しかし姫君は部屋のドアの前で逡巡する。
元はといえば彼が気を失ったのは自分のコブシに沈んだからであり、相手がか弱き異世界人だと知りながらこぶしを振るった自分にこそ非があるのではないかと……
「そうよね、己のイライラを弱者にぶつけるなど、強者にあるまじき振る舞いだわ」
彼女は精一杯に明るい笑顔で、優しくドアをノックする。
「朝ごはん、できましたよ~」
しかし、声がちいさすぎたのだろうか、中からは笑い声が変わらず聞こえるほかに反応はない。
姫の額にぴきっと血管が浮き出る。
「だめよ~、このぐらいでおこっちゃダメ。例えて言うならば、私は……そう、獅子なのよ! 強者の威厳と余裕、威厳と余裕……」
自己暗示的に何度も何度もつぶやいてから、再びドアを叩く。
「ああ~、食事の支度が整ったのだが、朝食にしようではないか?」
ドアの中で笑い声が止まった。
「お?」
しかしそれは彼女の言葉が聞こえたからではないようだ。
続いて、典正の叫び声が響き渡る。
「なんと! もうこんな時間ではないか! 遅刻してしまう!」
「慌てるな、慌てたらあかん、こういうときこそ落ち着いて、カバンの用意や!」
「あああああああ! カバン、カバンはどこだ……しまった、今日は体育のある日ではないか!」
姫は、引きつった頬をほぐそうと大きくため息をつき、目をとじた。
「ああ、まったくもう……」
一気にドアを空けて部屋の中へなだれ込む。
「ちゃんと昨日のうちに用意しなさいって言ったでしょ! まったくもう……」
三ヶ月間とはいえ、生活を共にした記憶というのは恐ろしいものだ。
彼女は無意識のうちにこう、呼びかけていた。
「しっかりしてよね、お兄ちゃん!」
典正のほうも、この数ヶ月の記憶をなくしたわけではない。
日常的かつ当然のように彼女の名を呼ぶ。
「しかしだな、茉耶華、わが体操服の所在がわからぬのだ!」
「その厨二病全開のしゃべり方はやめて! 体操服なら昨日、洗濯してたたんでおいたからリビングの椅子の上!」
「朝食は……朝ごはんを抜くと力が出ないじゃないか!」
「もう用意はできてますっ! さっさと食べて、歯を磨き、その寝癖を直して出かける用意を終わらせる、このミッションを十分で済ませれば余裕で間に合うから、オーケー?」
「あ、ああ」
「じゃあ、ミッションスタート! ほら、さっさとする!」
おおよそいつもどおりの、敷島家の朝の光景であった。