10.姉と獣
シェイラが攫われた翌日になって、ベルグ達はようやく【ネラル・ドレイク】の街に足を踏み入れていた。
隣には、“報復”に駆けつけたレオノーラが歩いて居るが、二人にどこか疲労の色が窺える。
ベルグの傷は、一晩で多くが癒えた。人なら数週間はかかるであろう大怪我であっても、獣人の生命力を持ってすれば、三日でほぼ完治させてしまうほどだ。
しかし、今のベルグは傷よりも、身体のだるさ・寝不足が心配になってしまっている。
(まさか、レオノーラがここで仕掛けるとは思ってもいなかった……。
確かに“バルディアの報復”を掲げるのであれば、“教官”として依頼を受理し、我々を送りだせないからな)
昨晩、ディルズの町で足止めを喰らう事になったベルグは、カートの言葉に渋々従い、一晩だけ身体を休ませる事に決めた。
様々な覚悟を決めようかとしていた時、『ペインズの町を再奪取』との驚くべき報せが舞い込んで来たのである。
その報にも驚いたのだが、陥落させた者の名を聞いた時は、思わずその獣の耳を更に疑ってしまった。
【レオノーラ・バルディア率いる兵団が、ペインズに駐留する“ワルツ”を一人残らず殲滅。現在、ディルズに向かって進軍中。その姿、まさに“赤き獅子”の名の如し――】
報せが届いた時には、レオノーラは既にベルグの居る町に辿りつく寸前であった。
白銀の鎧が、真っ赤な鎧に……皆の前に現れたその姿に、ベルグとカートの二人はどこか引くモノを感じてしまったほどだ。
――そんなレオノーラも、夫・ベルグには何も言わないのだが、今日ばかりは、どこか咎めるような目を向けている。
「……ベルグ殿。昨晩はその、もう少し時と場合を考えて……」
「う……むぅ、すまない。こればっかりは、俺でも何ともし難いのだ……」
「“獣性の暴走”については、重々承知しております……。
ですが、どこかで自制して頂けないと、まだその……腰が少し……」
レオノーラは、腰を労わるように手をやる。
昨晩、ベルクは重傷にも関わらず、宿に戻るなり彼女を一晩中求め続けた。
獣人は、戦いで血を
シェイラの身を案じ、心身共に不安定になったベルクの前に、血と汗と女の匂いを漂わせた妻・レオノーラが現れれば――“感情”が爆発してもおかしくない環境が、あまりにも整いすぎた。
互いに『そう言う状況ではない』と頭では思っていても、焦燥が、不安が彼の欲望を掻き立て、よりその身体を貪ってしまっていた。
「その、本当にすまない……まだ戦いが残っていると言うのに……」
ベルグも流石に罪悪感で一杯なのか、朝から耳を垂らし、キューン……鳴いて申し訳ない表情を浮かべていた。
「ま、まぁ、私もその……嬉しかったのは事実、ですし……。
止めるべきはずの私が……あんなになるとは、思いもしませんでしたが……」
「獣人との交わりは、互いの理性を飛ばすのだ……」
獣人は“女”を貪り始めると同時に、その“女”にも影響を与えると言う。
“器”になるべく、性フェロモンを発し、“オスの獣性”を更に掻き立てさせるようだ。
「でで、ですがっ! ネラル・ドレイクの街が無条件降伏したから、大丈夫でしょう!」
レオノーラの言葉通り、街は抵抗する事もなく、夜明けと同時に明け渡されていた。
理由は不明だが、この街はそもそも、スポイラーが金で統治していたような場所である。
金の切れ目は縁の切れ目――
街には、何者かによる“略奪”の痕跡も各所に残されている。
それは金目の物だけではなく、“商品”となった女までも含まれているようだ。
凄惨な街を目の当たりにし、ベルグはどこか早足になってしまっているが、本人はこれに気づいていない。
レオノーラは若干の寂しさも感じたが、事情が事情であるだけに、彼女自身の足も自然と早まってしまっている。
「――この建物か!」
「そのようですね。ですが……どこか、様子がおかしくありませんか?」
「む、うむ……?」
街の奥に佇む、白壁の貴族が住まうような邸宅の窓は割られ、壊れた半開きの扉がギィ……ギィ……と風に揺れている。
気が焦りすぎていたのか、ベルグは建物から臭うそれに気がついていなかった。
レオノーラの言葉を受け、その前に伸びた鼻をヒクヒクと動かし、宙に漂う臭いを探っていると――風が届けた臭いの中に、ごくわずかに獣の臭いが混じっているのに気づいたようだ。
「これは……《ウェアウルフ》の臭いか!?」
「え、えぇッ!?」
「監視していると思っていたが、この機会を伺っていたか……何ともしたたかなジジイよ」
「大丈夫、なのでしょうか?」
「血の気が多く、荒い連中だが、我々と同じで“長”に従う。
あのジジイの事だから、恐らく“一部”には手を出すなと言っているはずだ、と思いたい……」
獣人の“戦利品”も人間と同じで、女・酒・金――のどれか。
全てが詰め込まれている娼館は、彼らにとって宝箱のようなものだろう。金貸しのスポイラーの別宅であれば、なおさらである。
その“宝箱”は根こそぎやられたのか、中は真っ暗だった。陽の光以外、光る物は何一つ残されていない廃墟と化していた。
気を付けろ……とのベルグの言葉に、共に足を踏み入れたレオノーラも、剣を抜き身にして、警戒を最大限にしている。
「う、うぅ……出そう……」
「うむ? トイレはあっちのようだぞ」
「ち、違いますっ!」
そのベルグが指差した所から、ガタン……と小さな音が鳴った。
お化け嫌いなレオノーラは、反射的にベルグにしがみついてしまっている。
「――物が倒れただけ、か」
「はぁ……。何か……じゃない、誰かが居たのかと……」
「しかし、シェイラがどこかに隠れ潜んでいるかもしれん……。
すまんが、二手に分かれられるか?」
「え、ええ……」
レオノーラは、騎士のプライドから、NOと言えない自分を呪った。
その顔は不安で満ちていたが、惚れた弱みか、夫の言葉には逆らえない様子である。
そのベルグは鼻を効かせても、獣の臭いに紛れて“シェイラの匂い”がよく嗅ぎ取れないようだ――。
手当たり次第に部屋を探るも、どこも荒された跡か男の死体しかなかった。しかし、女は
ベルグが《ウェアウルフ》を嫌うのは、このように“やりたい放題”やり散らかして帰るからである。
無事でいてくれ、と不安に苛まれながら階段を上ると、その階の奥で折り重なるようにして死んでいる黒服の山を見つけた。
扉を守ろうとしたわけではなく、そこに逃げ込もうとしたようだ。
しかし、奥の扉は固く閉ざされたままであり、何者かがこじ開けようとした痕跡もそこに残されている。
ここがカートの言う、“鉄の棺桶”だろう。
「まさかっ、まだここに――」
ベルグの鼻には、僅かながらシェイラの匂いを感じとっている。
覚悟を決めているが、獣神に無事を祈っている。
「シェイラッ――な、何だこれは……」
重く、重厚な扉の向こうの惨劇を見たベルグは、思わず言葉を失ってしまう。
扉の近くには頭部を潰された男の死体と、凶器となったであろう“金獅子”がベッドの上に転がされている。
そのベッド脇には、女物の衣類と下着、そして短刀――見慣れた物、見慣れない物が折り重なるように転がっていた。
「やはりシェイラの……だが、どこに……シェイラッ! どこだッ! シェイラ――ッ!!」
声を張り上げて呼びかけても、返事はない。
辱めを受け、部屋から出されたような痕跡もないが、彼女がここにいたことは確かである。
だが、その“棺桶”の中に彼女の姿がない――神隠しにあったかのようなそれに、ベルグはふと、最悪の状況が頭をよぎった。
「まさか……このスポイラーの死体は……」
シェイラには、ベルグほどの“制約”がない。
彼女にあるとすれば、“罪の無い者”を殺害するぐらいである。
(もしかすると、シェイラは“裁きの間”に……いや、そんな事は――)
と、ベルグは思案に耽っていたため、彼は変化に全く気づいていなかった。
彼の真上、頭上に空間の歪みが生じていた事――
「――きゃあぁぁぁぁぁっ!?」
「む……うぼっ!?」
頭上から悲鳴と“何か”が降って来た――。
突然何が起こったか分からないが、人であることは確かであり、その懐かしい“におい”はそれが敵ではないと告げている。
遅れて、視界から馬乗りになっている“真っ裸に見える女”の情報が頭に伝わってきた。
それは、亜麻色の髪をした、鈍くさくて頼りない顔の――“姉”だ、と。
「い、痛たたた……もうっ、何で放り投げるのよ!
時間が来たら鍵を開くって言ったのに……あいたた……でも、このマットのおかげで――」
「しぇ、シェイラッ!? シェイラなのか!?」
「ふぇっ!? ど、どこ……はっ!?」
シェイラは下を目をやると、真下に見知った犬の顔が飛び込んできた。
それはずっと会いたかった、小生意気な“弟”の顔……もう会えないかもしれない、と思っていた、大好きな“弟”。
「す、スリーラインッ!? ほ、本物だよね……本物のスリーラインだよね!?」
「……うむ」
それを実感した時、ずっと我慢していたものがこみ上げて来るのが分かった。
決して弱みを見せまいと思っていたが、今日この時だけは抑えきれないようだ。
「か、帰って来られ……た……う、うぅぅっ……うっ……」
「シェイラ……頑張ったようだな」
「う、う、えぐっ……」
“姉”でいようとするその顔に手を伸ばし、ベルグはシェイラの頭をそっと胸に抱き寄せた。
その獣の肌の温もりと優しさ、『頑張った』とのたった一言の言葉が、“姉”の石壁を完全に崩壊させた。
「す、スリーラン……ぇぐ、うぅっ……。
ご、ごめん、なさ……う、あぁぁぁぁんっ――」
「今回ばかりは仕方ないよ……」
真っ裸なそれに気を揉んだが、すぐにそれが“まがい物”であると分かり、安堵の息を吐いた。
身体中に付着している血痕も彼女の物ではない……あるとすれば、手の平に出来ている深めの切り傷だけだろう。
心身ともに目立った外傷がない事に、“弟”はほっと胸をなで下ろし、声をあげて泣きじゃくる“姉”の頭を優しく撫で続けていた。