記憶喪失を貫いてみた
眩しい光が消えたので、恐る恐る目を開けた。
夕暮れらしく、あたりは薄暗い。
雨がしきりに左頬を叩いている。
地面と水たまりが顔の右半分で縦方向に見えるので、右を下にして横たわっていることが分かった。
震えるほど寒い。
たぶん、寒いのは雨のせいだろう。
それにしても震えが止まらない。
いやいや、これは雨のせいだけではないはずだ。
思い切って上半身を起こし、自分の胸から下を見た。
そこには、地面の上では初お披露目となる自分の恥ずかしい姿があった。
(ええええっ?)
いつの間にか全裸なのである。
だから震えが止まらないのだ。
いや、ここで納得している場合ではない。
急に血の気が引いた。
(ヤバい、こんな格好、人が来たらどうしよう……)
焦りながら周りを見ると、少し離れた所に衣服らしい物が見える。
幸い人影はない。
服を取りに行くため、ヨッコラショと立ち上がった。
とその時、後ろから急ブレーキの音がした。
振り向く間もなくドスンと何かがぶつかり、ショックで
地面へ倒れた際に、しこたま頭を打った。
何が後ろで起きたのか分からない。
(急ブレーキってことは、車に
音から判断するにそうだろう。もちろん、初体験である。
ぶつかった背中や頭等は火が出るような痛みだ。
しかし、耳は無傷で冷静。
そのおかげで、周囲の状況を音で把握出来た。
車のドアが開く音とたくさんの靴音が聞こえてくる。
「軍曹! 人であります!」
甲高い女の声がした。
(軍曹とは古い時代の階級だな。いつの時代だ?)
頭痛が
「貴様! ブレーキが遅い!」
これも女だが低い声だ。
「おい、大丈夫か!?」
「目を開けません!」
「なぜか裸です!」
「服がここに脱ぎ捨ててあります!」
違う女の声が次々と頭の上を飛び交う。
「変態か。連れて行け」
『ブレーキが遅い』と言った女の低い声だ。
(ああ、俺は変態にされた)と思ったところで気を失った。
目を覚ますと、病室によくある照明器具と薄汚い天井が見えた。
「おや、目を開けたね。注射が効いたようね」
年寄りのような女の声がした。
と同時に、白衣を着た老女が
次は軍帽をかぶった軍服姿の女が
面長できりっとした顔。
どこかの歌劇団の男役で見たことがある。
「おお、やっとお目覚めか」
その聞き覚えのある低い声。
(兵隊だったのか)
周りを見渡すため少し上体を起こそうとしたが、頭痛が
「軍曹! 準備が出来ました!」
甲高い声がする。
姿は見えないが、他にも人がいるらしい。
軍曹と呼ばれた女が、ふぅと溜息をつく。
「さてさて、何から聞くかね、
その聞いたこともない名前にキョトンとした。
俺の本名は、
「それって、俺の名前ですか?」とボンヤリ答えた。
女軍曹は眉を
逆に、「すみません。お名前は?」と相手の名前を聞いた。
単に、聞かれたら聞き返したくなっただけだ。
『関係ないだろ』と言われるのかと思ったが、女軍曹は意外にも、下を向いて一層声を低くして答える。
「サイトウ」
サイトウ軍曹は顔を上げ、火のついていないタバコを口に
「ま、それはいいわ。君ねぇ。なんで、あそこで服を脱いで倒れていたの? 今、
白衣の老女は、「ここは禁煙」と言ってサイトウ軍曹からタバコを取り上げた。
「分かりません。まったく記憶がありません。あそこはどこの町ですか?」と本当に困惑しながら答えた。
そして、「で、俺は誰なんですか?」と付け加えた。
これは、
サイトウ軍曹は冷たく言う。
「よそ者? んな訳ないよね。これ、身分証明書。写真の顔も同じだし、書かれた住所は倒れていた場所の近くだし」
それを聞いて泣きそうになってしまった。
「でも、何も分からないんです。覚えていないんです」
「じゃあ、私の部下達と大立ち回りをやらかしたことは? あの乱闘事件を起こしたことだよ」
サイトウ軍曹は、グイッと顔を近づける。
ほんのり、香水のにおいがした。
「知りません。本当に知りません。何も、何も覚えていないんです」
叫び声がか細くなっていく。
サイトウ軍曹は、ふぅと溜息をついて振り返る。
「カトウ。反応は?」
「はい! 何もありません!」
サイトウ軍曹が振り返った方向から甲高い声がして、右手の指先から何かが外された。
(嘘発見器か?)
「本当に知らないみたいだな」
サイトウ軍曹はそう言いながら体を起こし、また火のついていないタバコを口に
「大怪我ではないけど、頭部を強く打っていて、軽い記憶喪失でしょう。」
そして、白衣の老女は何かを片付けながら言った。
「そのうち、思い出しますよ」
「先生がそう言うなら仕方ない」
サイトウ軍曹は、諦めてその場を離れた。
そして、言い忘れていたことをハタと思い出したように手を打って
「そういや、妹さんが来ていたな」
(妹!)
その言葉に驚いて、心の中で叫んだ。
実は、俺には妹がいて、妹が生まれた直後に両親が離婚。
俺達を母親が引き取ってから、妹は3年前に10歳で病死、母親は去年病死。
それで、独り身になった。
それから、
もし妹が生きていたなら13歳、中1になっているはずだ。
ギィとドアの開く音が聞こえる。
「おーい、兄さんが目を覚ましたぞー」
サイトウ軍曹が外にいる妹を呼んでいるのが聞こえる。
「そうですか。なら帰ります」
遠くの方で妹らしい女の子の声がする。ちょっと怒っている様子だった。
(帰りますはないだろ)
見舞いに来てくれた相手にそう言われると、少しガッカリした。
「妹さんと仲悪いの?」
サイトウ軍曹が近づいてきて、そう言ってまた
「妹って、誰ですか?」
これは、半分本心だった。
「あちゃー、こりゃマジで記憶喪失だ」
サイトウ軍曹は首を左右に振る。
「先生、この子、頼むわ」
そう言ってサイトウ軍曹は、カトウを連れて部屋を出て行った。
「ゆっくり寝ていなさい」
白衣の老女も出て行った。
一人取り残された俺は、心の中で叫んだ。
(マジで、ここどこ!?)
それからは、誰も見舞いに来てくれなかった。
怪我は順調に回復し、3週間ほどで退院できることになった。
白衣の老女に「粋な物つけているね」とからかわれた指輪、未来人から左手中指にはめられた指輪は、なかなか抜けないので諦めていた。
退院の日に白衣の老女が、病室へ妹を付添人として連れてきた。
妹との初対面にドキドキした。
濃紺のセーラー服。
胸元にアクセントのような白いリボン。
お下げが似合う小柄な女の子だ。
(これが妹か)
遺影で見た妹の3年後、生きていたら確かにこうなっていたんだろうなと思った。
白衣の老女は「お兄さんは元気になったけど、ちょっと記憶喪失なの。助けてあげて」と妹に優しく言う。
「ゴメン。誰だっけ?」と頭をかいた。
本当は死んだ妹はマユリという名前なので、目の前にいる妹が同一人物ならマユリのはずなのだが、知らないと嘘を言い、記憶喪失を貫くことにした。
妹は信じられない様子でこちらをずっと見ていたが、やっと口を開いた。
「マユリ。覚えていないの?」と言って、妹は眉を
(やっぱり妹だ)
しかし、嘘を突き通す。
「ああ。本当にゴメン」
「母さんが死んだことも?」
「ああ」
(嘘をついてゴメン!)
「事件も?」
(えっ、事件?)
「……ああ」
ここで、さらに駄目押しした。
「みんなが俺を
それを聞いて妹は、哀れむような顔をして言った。
「一緒に帰ろう」
妹に連れられて家に帰ると、見たことがない佇まいに驚いた。
今までアパート暮らしだったはずが、みすぼらしいながらも平屋の一軒家。
見たこともない家具。
薄汚れた壁紙。
所々雨漏りの跡が見える天井。
丸い小さなちゃぶ台。
汚れてぺちゃんこな座布団。
ごちゃごちゃしているのが好きな俺の部屋は、スッカラカンになっていた。
あるはずの仏壇も、妹の写真も母親の写真もない。
ここでは妹の写真、つまり遺影がないことは当たり前だ。妹は死んでいないのだから。
叔父さんの家も随分と変わったものだと困惑して辺りを見回していると、妹が言った。
「本当に覚えていないの?」
しかしそれには答えず、自分が気になることを質問した。
「ここに来るまでに見たけど、道を歩いているのはなんで女の人ばかりなんだ? なんで軍人が町にうろうろしている? しかも女兵士が」
妹は、ふぅと溜息をつく。
「記憶喪失だからと言われても、何から何まで全部、一から説明できないわ。……ええと、伝染病、なんとかというウイルスが蔓延して、戦争も起こって、こうなっちゃったの。男の人は、いることはいるけど少ないわ。戦争はまだ続いているけど」
そして、ちょっと安心したように付け加える。
「覚えていないならましよ。……何かとね」
「それって、恐ろしいこととか?」
その含みのある言葉の意味が分からなかったので、具体的に聞いてみた。
妹は、軽くはぐらかす。
「こっちのこと。……それより、ご飯にしましょう。好きな食べ物とか覚えていないでしょう? ある物でいいわよね?」
そう言われても、納得はしていなかったが「ま、いいけど」と返した。
何かと記憶喪失は話の都合がよいが、こうなると不便である。
もう一つ気がかりなことを聞くことにした。
「
妹は呆れた顔をして言う。
「叔父さんの名前も知らないの?」
「ああ。他に叔父さんはいない?」
「他に……」
妹は、ちょっと考えて答える。
「ハヤシとかキミノモとかサイトウとか叔父さんがいたけど、お母さんが亡くなる前にみんな亡くなったわ。」
これで合点がいった。
(俺を養子にした叔父さんが違うから、名前が違うんだ)
「で、
「先月、亡くなったわ。お兄ちゃん、あんなことがあってお葬式に出ていないから分からないのね」
(あんなこと? なんだろう?)
全く覚えがなかった。
妹は答えながら、セーラー服の上から割烹着を着始めた。
俺は後ろから近づいて言った。
「料理手伝うか?」
一人暮らしの俺は面倒臭がり屋だったが、料理には自信があった。
こだわりがあった、というのが正しいが。
この問いかけに対して、妹はギョッとしてこちらを見つめた。
「いやいやいや……、お兄ちゃんは無理でしょ! そこに座っていて、お願い」
妹はそう言いながら、両手で俺の胸を押す。
押されるままに、ヨロヨロとちゃぶ台の
(俺、何かしたか?)
こうまで拒絶されると、されるがままにした方が無難である。
仕方なく妹の後ろ姿をじっと眺めていた。
(母さん似だ、俺の妹)
1時間後、妹の手料理で食事を済ますと、妹は俺の部屋に布団を敷いてくれた。
硬いベッドから柔らかい布団。こんなに嬉しいことはない。
水中に飛び込むように布団へ倒れ込んだ。
まだ腑に落ちないことがいくつもあるが、長く歩いた疲れのせいですぐに眠り込んだ。