0.古い約束
「あ、そうだ。ねぇ、スリーライン――」
青い野原で寝そべっていた女の子が、何か思い出したかのようにムクりと身体を起こした。
さやさやと拭く風が、横にいる〔スリーライン〕と呼ばれた“男の子”の毛をくすぐってゆく。昼寝するつもりでいたらしく、女の子に向けられたそのくりくりと丸い眼には、微睡が浮かびあがっている。
「私、大人になったら、スリーラインのお嫁さんになってあげるっ」
「……およめさん?」
「そう、お嫁さんっ! 本読んでたらね、野獣のお嫁さんになるお話があったのっ。まるで私とスリーラインみたいだなーって」
女の子の言葉通り、この“男の子”は人間ではない。
短い鼻が前に突き出た、狼の頭を持つ獣人――《ワーウルフ》の子供であった。
目の前の女の子に比べれば、いくぶんか幼い。黒真珠のようなつぶらな瞳、短い鼻、白と灰色のふわふわとした柔らかな毛、小さい手足は、まだ産まれて数年のコロコロとした
見た目は幼くとも、既に“狼”の風貌が見受けられ、どこかしっかりとした印象を与えていた。
「ねっ? 嬉しいでしょ?」
まだ知り合って一年も経っていないが、この女の子にとっては可愛くて仕方ない“弟”のような存在だった。そして“弟”も、それに応えるように女の子を『お姉ちゃん』と慕う。
二人は本当の“姉と弟”のように仲が良く、何をするにも一緒だった。
あぜ道を駆け、草木を掻き分け、青々とした緑の絨毯が広がる野原に出る。いつも汗だくになるまで遊び、疲れたら野原に横たわって休憩をする。子供たちの笑顔はいつも耐えることなく、晴れ渡った空のように輝いていた。
「――なんで?」
高い声を発しながら、“男の子”は
女の子は、常に“弟のお姉ちゃん”でいたかった。自分を賢く、大きく見せようとして、いつもどこかで聞いた言葉をそのまま“弟”に伝える。なので、時々こうして急に突拍子のない事を言い始めるのである。
実の所、“弟”も“姉の背伸び”に気づいているが、突っ込まれてしどろもどろになる姿が面白いので黙っている。
「何でって……え、えーっと……」
思わぬ切り返しに、女の子は返答に困った。
ただ知ったかぶっているだけのため、その理由などは良く分かっていない――。
肩で切り揃えた、亜麻色の髪を揺らしながら、泳ぐ目で女の子は“理由”を探す。
その時ふと、小さな頭の中で、ある“言葉”が浮かびあがった。
「そうっ、好きだからっ!」
女の子は、頭に浮かんだ言葉を、素直な気持ちを口に出した。
それは、母が言っていた言葉でもある。
「――好き?」
「そう、お母さんが言ってたの。『お嫁さんは、好きな人と一緒になる』って。
私はスリーラインが大好きだから、お嫁さんになるのっ!」
「そっか。じゃあ、僕はシェイラの“しゅごしゃ”になるっ」
「“しゅごしゃ”――?」
「うん。とーちゃんが言ってたんだ、『大事な人、好きな人の傍にいるのが “しゅごしゃ”だ』って。
僕もシェイラが大好きだから――あ、でもそれだったら、“だんざいしゃ”になれない……」
“男の子”は首を傾け、うんうんと唸りをあげ始めた。
彼としては、父親と同じ“役目”――天秤を用い、誰も裁けぬ悪を裁く、“断罪者”になりかったのである。
「あ、そっか。スリーラインのお父さんは、悪い人をやっつけるお仕事してるもんね」
「うーん……あ、そうだっ、“だんざいしゃ”も“しゅごしゃ”も一緒にしたらいいんだ!」
「あ、それいいかも! いざと言う時は、私が“だんざいしゃ”になってあげる!」
「うんっ! よしっ、何があってもシェイラを守る、強い雄になるぞっ」
「えへへっ、楽しみ――って、あれ? スリーラインが私を守るの?」
「うん。だって、シェイラは鈍くさいし、ずっと僕が守ってあげなきゃ」
「何でよっ!?」
幼い子たちは、大人が使っている言葉を口にしているだけで、その意味が分かっていない。
いつか分かる事だ。しかし、その幼い口約束は、きっと大人になれば忘れているであろう。
それを思い出すのはいつになるのか、もしくはそのまま思い出さないのか――。
もしくは、その頃の思い出を、どこか心の拠り所にするかもしれない。
天を仰げば、純粋な二人の心ように、晴れ渡った清く澄んだ空がいつまでも広がっている。
「――でも、ずっと一緒にいようねっ!」
「うんっ!」
漂う雲が流れるように《ワーウルフ》の群れもまた、別の場所に移動してゆく。
雲は空を覆い雨を降らす。その雨粒が、地上に居る子供たちの頬を伝わって落ちた。
――それから十八年の歳月が過ぎ、それぞれの子供たちも大人になった。
だが、幼き頃の約束が果たされるのは、まだ、もうしばらく時間が必要なようだ。