1.前夜
大陸の東、沿岸沿いに位置するフォルニア国――。
春の終わりを告げる嵐が過ぎ、ゆっくりと暑い夏が近づこうかとしている。
透き通った穏やかな夜空の下、草地に潜む虫たちが、リー……リー……と賑やかに鳴き始め、地の上に立つ人間たちも、それに合わせるように賑やかに過ごしていた。
「シェイラちゃん、料理が出来上がったよ!」
「シェイラちゃん! こっちにビールお願い!」
「は、はい、ただいまっ――!」
暗く鬱蒼としたダシアーノの森を抜けた先に、【コッパー】と呼ばれる辺鄙な田舎町があった。
その町にある古めかしい宿屋兼食堂の中で、〔シェイラ〕と呼ばれた少女が忙しく動き回る。
机や椅子は少し身じろぎしただけでも軋みをあげ、お世辞にもムードのある食堂とは言い難い場所であったが、今晩は珍しく多くの客で賑わいを見せていた。
そのシェイラの一挙一動は鈍いものの、彼女に目くじらを立てる者は誰一人とていない。
平凡な顔立ちであるが、ウェーブがかった亜麻色の髪には、しっかりとしたハリと艶を備えている。その髪の先端が、エプロンを持ち上げる程よい
「こらっ、どこ見てんだい! このスケベ共っ」
「も、もうっ、おじさんのエッチ!」
女将とシェイラの叱責に、男たちは首をすっこめた。
しかし、男たちはそれに懲りず、再びトレーで胸元を隠しながらパタパタと厨房に戻るシェイラの後ろ姿、その丸みのある大きめの尻に目を向ける。……が、それもすぐに気づかれ、再び女将の激が飛んだ。
これがここの
「はぁ……まったく、ここの男どもときたら……」
「あ、あはは……」
厨房に戻ってきたシェイラは、呆れ顔の女将に小さく苦笑を浮かべた。
しかし、悪態をついているその顔はどこか嬉しそうでもあり、声も僅かに弾んでいる。
「ま、今日で“入学式”の準備が終わった事だし、仕方ない事だけどね。
ああそう言えば、訓練場に“新入生”がやって来れば、シェイラちゃんの“後輩”になるんだねぇ」
「はいっ、私も“先輩”として、より頑張らなきゃですっ」
弱々しい目に力を込めながら、シェイラはそう答えた。
この町外れには、“冒険者”を目指す者のための施設――訓練場があった。
そして、シェイラは冒険者となる“夢”を叶えるべく、この町の訓練場に通う“生徒”なのである。
“生徒”と言えど、別に学生を受け入れているわけではない。
訓練場は、基礎的な戦闘・迷宮探索の訓練を積むだけの場所なのだが、このような辺鄙な田舎町では、“訓練生”がいつやって来るのか……なんて事態も起こりうる。
それを避けるため、“入学”や“合宿”という形を取り、“訓練生”の一括受け入れしているのである。
(でも……どうにかして、その“夢”を諦めてくれないものかね……。
【地下迷宮】とか、聞くだけでも恐ろしい場所に、この子をやるなんて酷すぎるよ……)
胸元で握りこぶしを作り、顔をひきしめるシェイラであったが、女将の心中は穏やかではない。
“冒険者”は本来、主に国・ギルドなどの依頼を受けるだけであり、資格を持った者たちの総称であったのは遥か昔の事だ。今やその意味も内容も、形態も、彼らの目的も大きく異なりを見せる。
昨今の彼らの目的は、異形の
【迷宮は常に“命”を欲している。十人の“冒険者”が足を踏み入れれば、その内の二人は『役立たず』との墓標が刻まれ、五人は魔物の胃袋で眠ることとなるだろう。運よく生き延びた者も、次もまた生きて帰って来られるとは限らない――】
と、語られるほど、地下迷宮は生易しい世界ではない。ましてや、『ちょっと冒険してくる』と言えるような、その日暮らしの冒険者ライフ”には程遠い地であった。
“冒険者”は、迷宮に入る事によって得られる“名声や財宝”などの報酬を求め、中には王の親衛隊に入ることを夢見て、地下迷宮に足を踏み入れ続けるのだ。
(出来れば、良い人と出会って、そこで幸せになって欲しい所なんだけどね……。
事情が事情だからしょうがないけど、こんな良い子に“冒険者”は、荷が重すぎるよ……)
女将は、はぁ……と重いため息を吐いてしまう。
それを耳にしていた女将は、シェイラに冒険者になる夢を諦めて欲しい、と常々思っている。
しかし、それがシェイラの“夢と目的”であるため、女将だけでなく誰も引きとめることが出来ない。
(――もしくは、“新入生”の中に、シェイラちゃんを守ってくれる人が現れれば)
コッパーの訓練場には、非常に多くの問題が山積みとなっている。
その最大の問題――この食堂に、諸悪の根源が足を踏み入れた途端、今までの和気藹々とした空気がガラリと変わってしまった。
「お、何でえ?
いつもは閑古鳥鳴いてるボロ宿が、今日はばかに繁盛してるじゃないか。
ついにあのババアが死んで、店じまいでもすんのか?」
店に不穏な空気が漂った。入店して早々、全員に聞こえるような声で嫌味を口にした男に、先客は睨みつけるような視線を向ける。
中肉中背の浅黒い肌をした、禿頭の中年男――陰険さが顔に現れ、右の横鼻にはイボのような大きなホクロが印象的だ。それが、この者の顔をより醜悪なものに見せたている。
この男は、〔ケヴィン〕と言い、数年前に赴任してきた、コッパーの訓練場の教官である。
横柄な態度のまま乱暴に椅子に腰をかけ、厨房の方を睨みつけながら、ケヴィンは怒鳴る様にして口を開いた。
「おい、客が来たんだから注文を聞きに来い! いるんだろシェイラッ!」
顔も醜ければ心も醜くなるのか。
周りの迷惑なぞまるで考えず、大声で名を呼ばれたシェイラは、ビクリと身体を震わせた。
他の客に迷惑がかかってしまう――と、彼女は唇を噛んで向かおうとしたが、
『アタシが行くよ――』
と、女将はシェイラの肩をグイッと引っ張り、その勢いのまま厨房から踊り出た。
あの男の“生徒”でもあるシェイラは、“指導”と称したセクハラを受けている事は知っている。
――もし、あの子が行けば
ここは女将の城でもある。己の城の中で、そんな不遜な行いを許すわけにはいかなかった。
「チッ――なんでぇ、ババアの方かよ」
「誰かさんのおかげで、猫の手は必要なくなったからね」
ケヴィンは眉間にシワを寄せ、露骨に不快感を露わにした。
だが、女将もプロであるため、この程度のことでは全く動じない。
「――で、注文は何だい」
「ババアの面見たら食欲が失せたぜ。酒寄こせ、酒」
「……ほらよ、ツケも溜まってるんだから、次来る時はそのお金も持って来ておくれよ」
「ケッ――」
ドンッとテーブルに叩きつけるように酒瓶を置くと、ケヴィンは悪態をつきながら店を後にした。
食堂の空気が一変し、シン――とした重苦しい空気に変わってしまっている。
シェイラは申し訳なさそうな表情を浮かべ、おずおずと厨房から出てきた。
「あ、あの、女将さん……」
「かまわしないよ、あんな小物は昔はもっと多かったからね。
ああ言う奴は、いつか神様からとんでもない“罰”が下るもんだ」
女将が、豪快に笑いとばすと、それに合わせて食堂の空気も次第に戻って行く。
もしシェイラが行っていれば、ケヴィンは長く居座り続け、何かと理由をつけてはシェイラを呼びつけ、どさくさに紛れて尻を触るなどやりたい放題していただろう。
そうなれば、店の空気はより一層悪くなる――娘のように可愛がっているシェイラを、自分の“城”である宿屋を守ることを考えれば、あの程度の悪態は屁でもなかったのだ。
(でも、本当に神様の“罰”はいつ来るんだろうねぇ……)
女将は、心の中で顔を曇らせた。
ケヴィンによる“被害”は、この店だけに限った事ではない。
悪貨は良貨を駆逐する――との言葉通り、あの男が来てからと言うもの、コッパーの町および訓練場は衰退の一途を辿っているのだ。
そのため、ここの訓練場はいつからか
【 斜陽の訓練場 】
そう呼ばれるようになっていた。