世界の底から世界を見上げて
私は今、世界の底にいる。
これ以上、下には何も無い。
本当の底である。
周囲には誰もいない。
当然である。
私のような者が何人もいたら、世界は弾け飛んでしまうだろう。
それにしても静かである。
世界の中にいた時の喧騒が私の中に懐かしさを燈す。
しかし此処にあるのは孤独だけ。
そして孤独に支配された世界の底で、私は世界を見上げている。
何とも面白い。
世界の中にいた時には気付けない、そんなものが幾つもある。
誤解無きよう、先に申しておくが、世界の底から世界を見上げても、決して女性のスカートの中が覗ける訳ではない。
例え視界に入っても、そんな細かいものを認識は出来ない。
妙な想像をしてしまった方は残念でした。
それはともかく、世界の中にいた時とは、全然、違った世界が私の目の前に広がっている。
世界の中で人間は都合の悪い「嘘」に操られて、世界のあちこちで混乱を招いていたりもする。
これはもう、みんなが知っている事であろう。
その一方で、この世界は如何に多くの「嘘」に守られているのか。
例を一つ挙げるならば、人はよく、この世界に蔓延る理不尽さや不条理さを嘆く。
しかし、その理不尽さや不条理さは、そもそも人間が生み出しているのだ。
人間以外のものからしたら、人間の存在自体が理不尽であり不条理であったりする。
要するに理不尽さや不条理さを嘆く事は、自らの存在を嘆いてしまっているのだ。
そして「嘘」がその様な事実を覆い隠してくれている。
人間の都合の良い「嘘」に依って、人間は人間でいられる。
何ともおかしな事である。
しかし、そんな人間ですら、この世界は許容してもいる。
「嘘」も「理不尽さ」も「不条理さ」も、そして「私」でさえも。
今、この瞬間に存在する、ありとあらゆる何もかもを許容しているのだ。
世界の底にいると、そんな世界の器の大きさを感じずにはいられない。
『無限大の刹那の中で、あらゆる存在は許容される』