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疑念

 彼女の店がもぬけの空だったので、僕はすぐにコンビニへ向かった。コンクリート打ちっぱなしの味も素っ気もない外観の作劇屋から歩いて二百メートルほど。ampmの自動ドアの前までやってきたところで、案の定築垣(つきがき)禮音(れいね)と鉢合わせた。
「君か。君に売るものはしばらくないよ」
 いいながら、彼女は手に下げたビニール袋の中のお米サンドを気にしていた。おおかたすぐにでもかぶりつきたいけれど、私の目をはばかって立ち食いは躊躇しているのだろう。
「物語を買いにきた訳じゃない。歩きながら、そして食いながらでいいから聞いてくれ」
 私がそう言うと、禮音は店の方へと歩き出しながら袋からお米サンドを取り出し、寒空へ向けて仄白い湯気を上げるそれに、幸せそうにかぶりついた。
「君の顧客に、里長(さとなが)郡司(ぐんじ)という漫画家はいないだろうか」
 禮音は頬ばったお米サンドをこくりと嚥下してから、にんまりと笑った。良い物語の書き手について話す時、彼女はこの表情になる。
「里長郡司か。SF作品に定評のある漫画家だね。彼なら時々うちに客として来ることもあるが、それがどうかしたかね」
 私は少し躊躇いがちに、本題を切り出した。
「その里長郡司に、間違えて私が書くはずの物語を売ってしまったことはないだろうか。あるいはいつぞやの郷原(ごうはら)強右衛門(ごうえもん)のように、私の物語を彼が盗んでいるなんてことはないだろうか」
 あっひゃひゃひゃひゃ。と彼女は声をあげて笑った。
「ずいぶん自信家だな君は。あの里長郡司が描いた傑出したSF作品を、本当は自分のものだと主張するのかい?」
 別に自信家な訳ではない。ただ今月から月刊Sci-Fiで始まった彼の新連載が、私の書こうと思っていた題材をそっくりそのまま使っているのでそう思っただけだ。郷原強右衛門が私から盗んだ物語を上梓した時も似たような感覚があった。ただし郷原氏の時はテーマも舞台設定もキャラクターもすべてが私の書きたいものそのものだったのに対し、今回の場合は題材だけだ。
「口伝で伝えられてきた長大な叙事詩とかあるだろう。そういう長い詩を少しずつ覚えるのではなく、朝起きると全文を暗記していたという人がしばしば現れるんだ。そういう記憶のメカニズムを、シャノンの情報理論と結びつけてSFの設定を構想していたんだ。そうしたら……まあ、読んで欲しい」
 私は鞄から、今月の月刊Sci-Fiを取り出して禮音に差し出した。表紙には太いゴシック体で、『新連載巻頭カラー 里長郡司「韻律函數(かんすう)」』と誇らしげな文字が踊っている。この『韻律函數』が、私が今説明した、まさにその題材を描いているのだ。
「苦手な英語の論文を必死で読みながら資料集めしていたら、工学博士で情報工学と認知科学の学会にも所属する里長郡司に先を越されたんだ」
 そんな話をしているうちに、私たちは築垣禮音の店までたどり着いた。彼女は黄ばんだパソコンの前のいつもの席に収まると、月刊Sci-Fiのページを繰った。
「面白かった。さすがは里長郡司だな」
 三十二ページの漫画を読み終え、彼女は満足げな声を漏らした。
「最初に言っておくと、これは君が書くべき物語じゃないし、里長郡司氏が作劇屋から物語を盗むような人物じゃないことは、あたしが保証しよう。ただ興味深いことに、これは里長郡司氏の書くべき物語でもないな。どれ、ちょっと詳しく調べてみるか」
 そういうと禮音は、眼前のパソコンを睨んでひとしきりキーボードをかちゃかちゃやった。
「おやまあこれは……。不思議にもほどがある」
 パソコンのディスプレイを見つめていた禮音が、素っ頓狂な声をあげた。
「何だいやっぱり里長氏は何か不正をやっているのかい? そうだろうとも。私より優れた創作家は、例外なく卑怯な方法で物語を手に入れているに違いないんだ」
「そういった発言は、君という人間の矮小さの証明にしかならねーからよしなよ。この『韻律函數』は、大宇部(おおうべ)織子(おりこ)という人物が書くべき物語だ。だがこの大宇部女史が月刊Sci-Fiの編集者や里長氏の知人で、自分の名前を原作者として出すよりも里長氏の作品ということにしたいと自分で判断したのなら、それは物語の管理局のルールには反していない」
 たしかに、漫画業界では編集者が実質的な原作者と言えるようなケースも珍しくないと聞く。それが物語の管理局のルールに反するなら、業界自体が物語の管理局とやらにペナルティを受けているだろう。管理局とやらは双方の合意があれば他人名義で作品を発表することを黙認しているのだ。
「じゃあ何が不思議かというとだね、この大宇部女史、二十年も前に亡くなっているんだ」
「亡くなる前に里長氏に出会って物語を託したとか、プロットを書いたノートか何かに、『自分はもう長く生きられないので誰か代わりにこれを漫画にしてください』とかメモ書きして遺しておいたのを、最近里長氏が発見したとかじゃないのか?」
「いや、この物語が生成されたのは、ほんの数ヶ月前のことなんだ。亡くなった人が書くべき物語が、死後に生成されるなどありえない。こんなケースは初めてだ。どれ、少し事情を調べてみるか」
「里長氏について調べるなら、何か私に手伝えることはないか? 最近は割と暇なんだ」
 暇とはいっても当然仕事はあるのだが、里長氏の創作の秘密がわかれば、私もあの世の創作家からプロットを教えてもらえるかも知れない。
「手伝えることと言うがね。当面は里長郡司氏がうちに物語を買いに来るのを待つしかないのだよ。作劇屋は全知全能じゃねーからね」
 里長氏を待つのは、あまり有効な手だとは思えなかった。作劇屋にやってきた彼に事情を聞いたとしても、素直に話してくれる保証もない。
「とにかく情報を集めてみるよ。うまくいけば、何か手掛かりくらい掴めるかも知れない」
 そうして翌日から、私は早速情報収集を開始したのだった。

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