お使い
小説家になりたかった。何故なりたいのか、それは私にもわからない。物心ついた頃から暇さえあれば物語の構想を練っていたし、自然に小説を書きはじめた。小説を書きたい。書くからにはプロになりたいと言うのは、私にとっておいしいものを食べたいというのと同じくらい当たり前の衝動だった。
当然ながら「なりたい」だけでなれるものではなく、道は困難を極めた。
まず、新人賞の応募要件を満たす分量の小説を書くのが並大抵の苦労ではない。それは無理からぬことで、プロの小説家だって年にせいぜい三・四冊の長編を書くのがやっとなのだ。一年の労働の三分の一ほどの労力を費やすのである。しかも学生の間はまだしも、卒業後は無収入のまま作家を目指すわけにはいかない。別の仕事をしながら長編を書くのである。
そんな苦労をして書いた小説が、往々にして一次選考も通らない。うまくいっても最終選考には残らない。さすがにつらずぎると短編部門に鞍替えしてみても、最終選考に残らないのは同じ。私は一体どうすれば面白い小説を書けるのかと、途方に暮れてしまった。
そんな折に
その日、私は郷原と一緒にレベッカのコンサートに来ていた。郷原はレベッカの『フレンズ』という曲が好きらしく、上機嫌だった。
「しかし、どうやったらこんなに心に響くフレーズを思いつけるのだろうね」
郷原の言葉に私は、チャンスだと思った。さり気なく私の聞きたいことを聞くのに丁度よい機会だ。
「私にしてみれば、郷原さんがあれほど面白い物語を思いつけるのも、同じくらい謎ですよ」
私がそう言うと、彼は心底嬉しそうに満面の笑みを見せた。
「ここだけの話だがね。私の小説には秘密があるのだよ。都内某所の路地裏に『作劇屋
「え? それは本当ですか?」
「本当だとも。私の上梓した小説はすべてそこで手に入れたのだよ」
彼の言うことを完全に信じたわけではなかったが、僅かな可能性を信じて私は彼にその店の詳しい場所を聞いた。値段を聞くのを忘れたが、何百万円しようと構うものか、と思った。買うのは新人賞に出す一回きりでいい。プロになるきっかけさえ掴めれば、そこからは自分の実力で勝負してやる。そう思った。
「というわけで、私はここにやってきたわけなんだ」
私が語り終えるまでの間、彼女はブラウン管から目を離さずに、時々キーボードをかちゃかちゃやっていた。
その作業が一段落すると、彼女は私に向き直って言った。
「取りあえず経緯はわかった。ところで物語のフィナーレにはまだちょっと時間がある。ここから右に二百メートルほど行ったところにampmがあるから、お米サンドを買って、冷めないうちに持ってきてくれたまえ」
急な依頼に、私は戸惑った。
「なんで私が……」
彼女は構わず私の方へ歩み寄ると、着ていたカーディガンを私に羽織らせた。
「主人公はそうそう舞台から退場するわけにはいかないんだよ。こういうのは脇役の仕事だ。四の五の言わずに行きたまえ。ほら、外は寒いから、私のカーディガンを貸してあげよう」
彼女はさらに、かぶっていたつば広帽も私にかぶせた。
「この帽子とカーディガンには不思議な力があってね。これを着た人間はどんなに体格が違っていても周囲の人からはあたしに見えるんだ。この格好であのampmに行けば、黙っててもいつものお米サンドを売ってくれる。注文がスムーズだからこの格好で行きたまえ」
彼女に促され、釈然としないまま私はお使いに出たのだった。