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出会い

 郷原(ごうはら)強右衛門(ごうえもん)という男と知り合えたのは私にとって幸いだったと思うが、それは彼が人間として魅力的だからではない。彼が小説家で、十万部を売り上げたこともあるベストセラー作家だったからだ。
 私は彼から面白い小説を書く方法を何とかして盗もうとあらゆる努力を惜しまなかった。一緒に酒を飲みに行ったり、薪能を観劇に行ったり、おべっかを使ったりレベッカのコンサートに行ったりいろいろした。努力の末に彼から聞き出した「面白い小説を書くための秘密の方法」はいかにも胡散臭いものだったが、藁にもすがる思いで私は今、彼から話に聞いた都内某所の路地裏を歩いているのだ。
 何度も訪れた街だから迷わず着けるだろうと思ったのは間違いで、一歩裏路地に入るとまるで知らない街のようだった。ましてや郷原強右衛門の指定した場所は路地裏のさらに奥、迷宮の最深部のようなところだった。私は何度も迷い、中天にあった太陽がハチミツみたいな弱々しい光を低空から投げかける頃になって、やっとその看板にたどり着いた。

 作劇屋 築垣(つきがき)禮音(れいね)

 漆黒の看板には白い明朝体でそう書いてあった。こここそが郷原の話していた場所に違いない。私はその看板の下、コンクリート打ちっぱなしの壁にしつらえられたスチール製の扉をゆっくりと開いた。
 中は薄暗かった。部屋を照らすものと言えば、天井からコード一本で吊された裸電球と、真正面の机の上に置かれたパソコン用らしいブラウン管ディスプレイくらいだ。ブラウン管の横には前時代的な白く四角いパソコンが、かすかな風音をたてていた。
 そしてその机の向こうには、この部屋の主らしい少女が座っていた。室内だというのに黒いつば広帽をかぶり、黒い厚手のカットソーの上にベージュのカーディガンを羽織っていた。肩にかかる長さの漆黒のストレートヘアは艶やかで、まつげの長い目が印象的な、魅力的な少女だった。
 私が何か言いかけた瞬間、「ピポッ」という、いかにも旧式のパソコン然とした電子音が鳴った。少女は音の発生源であるパソコンのディスプレイをのぞき込むと、「あっちゃぁー、しまった」と頭を抱えた。
「なんてこった。もう開演時間じゃないか。物語が始まってしまった」
 右手でマウスをせわしなく動かし、なにやらクリックしながらつぶやいている。
「しかも三一致の法則に則った小品だって? じゃあ終幕までここを動けないじゃないか。お腹空いたからampmでお米サンドでも買ってこようと思ってたのに」
 彼女が何を言っているのかいまいち話が見えないが、彼女が「物語」と言ったのを私は聞き逃さなかった。
「物語? やはり小説家の代わりに物語を作って売ってくれるという噂は本当なのか? なら是非、私に売ってくれ。できれば三一致の法則に則った小品なんかじゃなく、四百字詰め原稿用紙三~四百枚程度の長編小説がいい」
 三一致の法則と言うのは、西洋の演劇における作劇の規則で、話の筋は一つ、場面は一カ所、時間はたかだか一昼夜、という三つのきまりをさす。筋・場面・時間の三つがストーリーの最初から最後まで一致しているため三一致の法則という。当然、あまり長い演目にはならない。
 私が欲しいのは、文芸の新人賞の長編部門に応募できるような作品なのだ。一昼夜の出来事が三百枚の長編小説になるとは思えない。
「何か勘違いをしているようだね。あたしに物語を作ることなんてできないよ。いや、誰にだってできないのかもしれない。自分が物語を作る時の心理をよく内観してみたまえ。作ると言うよりも勝手に出来上がってはいないかね?」
 言われてみれば、確かにそうかもしれなかった。物語を作るとき、まず最初にあるアイデアが湧く。それをもとにストーリーを組み立てようとするのだが、大抵はうまくいかない。なんとかならないかと必死にこねくり回すのだが、どうしても物語にならない。諦めてそのアイデアを捨て、さてどうしようかと途方に暮れていると、昔同じようにこねくり回して結局ものにならなかった別のアイデアをもとにしたストーリーの構想が突如として降ってきたりする。自分で考えているはずなのに出来上がる物語は全く制御不能で、時代小説を書こうとしていたのに気づけばSFを書いているなどということもしょっちゅうだ。
「あたしが思うに、物語を作るなんてのは、人智を超えた大いなる存在だけが行える特別な能力なんじゃないかな。凡人たるこのあたし、築垣禮音にできるのは、そんな大いなる誰かが作った物語の、開演と終幕を検知する事だけ。で、見つけた物語を人に売っている」
 作劇屋って言っても、自分が作ったものを売ってるわけじゃねーのよ。と言って彼女は舌を出す。
「そんなわけだから、長いストーリーが良いとか、近未来のアゼルバイジャンが舞台の物語が良いとか、そんな注文には答えられないわけよ。もちろん出来も玉石混淆。質の保証は致しかねます」
「そんな……。だって私にここを紹介してくれた男は、デビュー作からずっとここで買った物語を上梓し続けているという話だが、そのすべてがヒット作になってるぞ。ちょっと前の作品なんか十万部も売れたんだ」
 私は反論した。郷原強右衛門はプロの小説家として「何枚程度の作品を書いてください」などの依頼にも答えているし、SF専門誌からの原稿依頼にはちゃんとSFを書いてよこす。そしてそのすべてが面白い。内容も面白さもランダムな作品しか買えないなら、彼はいかにして、依頼に完璧に答えているのか。
「あんたにここを教えたっていうそいつが誰で、どうやってヒットを連発しているか、あたしには心当たりがあるけども、今は物語が始まったばかりだ。いきなり種明かしも不粋だろう。まずはあんたの話を聞かせておくれよ。なんで物語を買いたいのかとか、そいつからどんな話を聞いたかとかさ」
 彼女は視線はブラウン管だけを見つめながら、私に入り口の脇にある籐の椅子を勧めた。私は言われるままに飴色の椅子に座ると、これまでのいきさつを語り始めた。

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