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 ぎぃ、とネズミから漏れた悲鳴が、ノイズの隙間から萩原の耳に届いた。

 ヴィオレの体格は、巨大ネズミと比べても小柄に見える。高所から飛び降りたとはいえ、骨盤を踏み折るなど小さな体で引き起こせるような現象ではない。ずり、と後ろ足を引きずるネズミの姿を見れば、そのダメージの深さも想像しやすい。

 下肢の機動力は失われたものの、ネズミの反応は速かった。前腕だけで体を揺らして襲撃者を振り落とすと、後ろ足を引きずったまま頭の向きを変えて襲いかかる。

 ヒトの胴体などたやすく両断できそうな前歯がヴィオレに迫る。ネズミが一歩を踏みしめるたびに地面が震え、定点カメラからの映像もガタガタと揺さぶられる。

 劣悪になった足場で、ヴィオレは的確に回避行動をとっている。それでも、見ているだけの立場であるはずの萩原は、もどかしさを感じずにはいられなかった。

 本来、人間がペストと戦おうとするのに、距離を詰める必要はない。それを可能にするだけの技術を人間は持っているし、ヴィオレもその恩恵を授かるはずだった。

 しかし、授からなかったからこそ「失敗作」として浅間に残り、今ペストの脅威を退けようとすることができるのだから、それを責める相手はどこにもいない。

 うまくいかないものだ、というネガティブな言葉を、萩原は喉の奥に留める。

 イヤフォンから聞こえるノイズは、ヴィオレの動きに伴う音と共に激しさを増していた。靴が砂を噛む音か、耐えることのないノイズなのか、判断がつかない。

 距離をとったヴィオレの前で、巨大ネズミは薄く口を開いていた。

 強靭な前歯のわきからこぼれているように見えるのは、ネズミの口腔内で燃え盛る炎だ。ヘビの舌を思わせる動きで存在感を主張する炎が、ヴィオレに向けて放たれる。

 水平方向に立つ火柱が、モニター上を横断した。同時に、イヤフォンから流れていたノイズがぶつりと途絶える。

 ペストの異様さを幾度も見てきた萩原すら、思わず息をのむ光景だ。

 染色体異常に基づく進化は、これまでに築かれた生物の常識をあっさりと覆した。巨大な体躯も、放射能への適応も、通常では考えられないほどの速さで進み、他の生態系を破壊するに至っている。「火を吹くネズミ」が生まれたのも、その非常識な進化の結果だと言える。

 その中でヒトが生き延びているのは、他でもない──ペストが進化で得たDNAを、人体改造に利用したからだ。

「──っ」

 熱波を受けて機能不全に陥った無線が、ようやくマイクの音を拾った。

 モニターを埋め尽くしていた火柱は消え、焼かれた高山植物が灰となって散る。その中で、ヴィオレはネズミに向かってまっすぐ突進していた。

 人体改造を受けたヒトは、ペストが数百年かけて得た力を一代で手に入れることになる。

 短い呼気と共に、画面上のヴィオレが地面を蹴る。

 ヴィオレの異能は念動力。

 炎にのまれようと自分の体表から五センチの範囲には侵入を許さず、相手の体に触れればその内側へダメージを通す。

 脚力や重力ではなく、念動力の圧力によってペストの骨盤は破壊された。それが生命維持に必要な部位──たとえば脳に向けられたら、果たしてどうなるのか。いちいちダメージを想像するまでもない。

 ヴィオレは一度の跳躍でネズミの頭上へ到達すると、直接脳を潰す一撃を叩き込んだ。

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