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ヴィオレを出すと伝えたとき、部屋にわずかなどよめきが生まれたのを、萩原孝一は聞き逃さなかった。
そもそも今の状態自体、とても珍しいものであることは間違いない。だから彼らが動揺してしまうのは仕方がないことなのだが、萩原は自分の指示が少なからず影響を与えているだろうとも感じていた。
無論、判断が間違っていたとは思わない。
萩原はいつでも最善の一手を打つことを考えているし、今回の場合、状況からして選択肢がひとつに絞られていたからだ。
「ヴィオレが最上部に到着しました」
オペレーターの報告を受け、萩原は顔をあげた。
薄暗い室内で存在感を放つのは、壁と一体化した巨大モニターだ。
画面には、緑がまばらに見える黒色の大地と、一匹のネズミが映っている。
荒廃してしまった場所、というわけではない。もとより、カメラのある場所は標高三七〇〇メートルを越える過酷な土地だ。
本来、ネズミの生殖能力に対し、山地の環境は適さない。文字通りネズミ算式に増えていく捕食者に対し、被食者が圧倒的に足りないからだ。
そもそも、高地の生態系では、モニターに映る巨体を維持することすら難しい。
比較対象に適したものは画面内に映っていないが、少なくともネズミの全長は一〇メートルに達している。ここ数百年で起きた環境変化──放射能汚染による染色体異常とそれに伴う進化が原因で、元は手のひらに乗るサイズだったという。しかし、萩原はそのイメージをうまく思い浮かべられない。
放射能汚染を生殖サイクルの速さで乗り越えたネズミとハエは、いまやペストと総称されて食物連鎖の頂点を支配している。
「目と耳に損傷が見られますね。低地での縄張り争いに負けて登ってきたのでしょう」
萩原の隣に立つ白衣の男が、声量を落として囁いた。
男の言う通り、ネズミの左目は潰れ、左耳は一部が噛みちぎられている。黒い体毛に覆われて見えないが、他の部位にも傷を負っていることは容易に想像できた。
争いに負け、生息に適さない土地に追い込まれたとなれば、大抵の生物は衰弱してそのまま死ぬ。いくら巨大化したとしてその摂理は変わらないのだから、モニターに映っているネズミも本来なら気にかけるほどの存在ではない。
地下都市・浅間の直上に居座ってさえいなければ。
「迷惑な話だ」
思わずこぼれた呟きは、萩原の本音だった。
なにより、タイミングが悪すぎる。近辺で群れを形成しようとしていた大型のハエたちを掃討するのに、主な戦力を浅間から離した途端の出来事だ。
「ヴィオレ、目標を視認」
不意に、萩原が片耳につけていたイヤフォンから、ノイズ混じりの声がした。
緊張のせいか硬くなってはいるものの、それは紛れもなく年若い少女のものだ。砂をこするようなノイズがいつまでも抜けないのは、彼女が通信環境の整っていない地上にいることを示している。
大型ネズミの居座る、放射能に汚染された地上に。
「戦闘行動に移ります」
少女の宣言と共に、ネズミが映るモニターに動きが生じた。
ヴィオレ──「紫」の意味を持つ名の元となった髪の色が、モニターの上方から現れる。
短く切りそろえられた髪を揺らし、ヴィオレは危なげなくネズミの腰へ着地。勢いそのまま骨盤を踏み砕く。