空気中に漂う夏の残滓を感じながら、月岡佑真は駅から自宅への道を歩いていた。久し振りに会った友人達と飲んだ帰りで、アルコールに絡め取られた足取りはおぼつかない。
時刻は深夜一時過ぎ。通りに人影は全く見当たらず、ポツポツと光る街灯が、アスファルトを青白く照らしている。
人影のない道を歩いていると「お前、昔っからビビりだったのに、一人で帰れるのかぁ?」と、悪友の一人に言われたことを思い出す。
さすがにもう大人だし、何ならタクシーでも使えば良いと言い返したが、駅のロータリーには一台も停まっていなかった。
「終電とは言え、珍しいよなぁ……」
胸の奥にかすかな不安が湧いてきたが、居ないものは仕方がないし、友人への少しの反抗心もあって歩いて帰宅することにした。
駅前を通り抜け、商店街に差し掛かった辺りで喉の渇きを覚え、手近な自販機に硬貨を滑り込ませる。
定まらない指先でボタンを押し込み、取り出し口からペットボトルの水を取り出す。
自販機に揺れる体を預け、なんとはなしに目の前の風景を眺めた。
普段、通り過ぎるだけの商店街だが、意外にもいろんな店があることに気付いた。
携帯ショップ、ブティック、美容室やカレー屋と、多種多様な店が軒を連ねている。
ふと、違和感を感じた。
「なんか、いつもと違う気がするな」
何かが違うのにそれがわからない。違和感の正体を探すように視線を彷徨わせた。
「あれ? あんな所に、道なんてあったか……?」
商店会のアーケードの電灯が一箇所だけ明滅している。その下には色あせた看板の和菓子店があった。
時刻が時刻だけに、すでにシャッターが下りていて、それはひどく錆びついてボロボロだった。そんな店の左側、路地がぽっかりと口を開けている。暗くてハッキリとはわからないが、奥の方でユラユラと揺れる光が見える。
もしかしたら大通りに続いているのかもしれない。
毎日のように通る場所だったが、記憶はひどくボンヤリとして曖昧だった。路地は元々あったような気もするし、やっぱりなかったような気もする。
いつもなら、気付いたとしても無視して通り過ぎるだろう。しかし今は、酒の勢いと友人の言葉が背中を押した。
「ただの路地でしょ」
自分に言い聞かせながら、恐る恐る路地の前へとやってきた。
奥を覗き込んでみると、向こうから湿った風が吹いてくる。路地の何かがそうさせているのか、風は低いうめき声のような音を響かせた。
路地の幅は狭く、人が並んで歩くのは無理そうだ。コンクリートで舗装された道は、所々ひび割れ苔むしているのが見えた。
両側の建物から薄明かりが漏れ、路地をかろうじて照らしている。先ほど見えた揺れる光は、今は見えなくなっている。
「来てみたは良いけど、何か雰囲気あるなぁ……」
その時、路地の奥の方から、楽しげに談笑するような声が風に乗って聞こえてきた。妙に籠もったように反響した声で、何を話しているかまでは分からなかった。しかし、人の気配を感じて少しほっとした。
「さっき見えた灯りは、もしかして車のヘッドライトか何かかな?」
この先に人がいることがわかり、怖さが薄れる。代わりに、少年時代に置いてきた冒険心が湧き上がってきた。
「探検なんて久しぶりだな」
遠い記憶の自分に、少し気恥ずかしさを覚える。苦笑いと共に、路地へと足を踏み入れた。
路地へ足を踏み入れると、カビ臭い臭いが鼻をついた。少し顔をしかめながら足を進めると、地面が濡れていることに気付いた。
「あれ? 雨なんて降ったっけ?」
ここ二週間程は晴天だったはずだ。少し不思議に思いながら周りを見渡すと、何かの排水パイプのようなものが建物から出ている。
「ああ、なんだ。アレのせいか」
ペチャペチャと湿った足音を立てながら、先へと進んでいった。
外から見た時はかなり薄暗いと思ったが、目が慣れた事と、建物の窓から漏れ出る淡い光のおかげで、歩くことに不自由はなかった。
細い路地だけあって、建物の玄関はなく窓があるだけか、入り口があっても勝手口だけのようだ。エアコンの室外機が置かれていたり、ゴミ箱が置かれていたりで、ただでさえ狭い道が余計に狭くなっている。
頻繁に人が通る場所ではなさそうだった。
あまり掃除もされていないのだろう。建物の壁には、雨水で出来たであろう黒い染みが、這うように不規則な形を描いている。
その中の一つが目を引いた。頭と肩、そこから伸びる腕。人影が壁の中から、こちらを見つめている様に見える。
「あー……、ほら。なんだっけ。パ……パレイ……何とか現象って言う、脳が勝手に補正しちゃうやつ。アレだよな。……たぶん」
首筋にゾワリとする感覚が走ったが、あえてそれを無視した。意地になっているのかもしれない。頭上で排気ファンがゴウンゴウンと低い音を立てていた。
緩くカーブしている路地を進み続けると、細い電柱があり、その上部には街灯が取り付けられていた。電球が切れかけているのか、ジジッ……ジジジ……と、虫の羽音のような音を立てながら、か弱く光っている。
街灯に照らされ、周囲より明るくなっているその場所が、逆に恐怖心を掻き立ててくる。
「怪談によくあるやつみたいだな」
脳裏によぎったイメージを振り払うように、あえて声に出してみる。
光が当たっている壁には、他の建物と同じ様に雨染みが広がっていた。
この雨染みも、顔や身体があるように見えてしまう。
「カエ……リタイ……」
声が聞こえた気がした。
「――!」
バネ仕掛けの人形のように、後ろを振り返るが、街灯が相変わらず弱々しい光を落としているだけだった。
早鐘を打つ心臓をなだめようと、大きな呼吸を繰り返す。
少し落ち着きを取り戻すと、ポケットにタバコが入っているのを思い出した。箱を開けると、最後の一本だった。
指先がかすかに震え、ライターが中々点かない。幾度目かのチャレンジで、やっとタバコに火を点けると、肺いっぱいに吸い込んだ。
血中にニコチンが行き渡り、クラクラと揺れる感覚が広がる。
「ビビり過ぎだよ……」
煙を吐き出しながらつぶやく。これじゃアイツの言った通りじゃないか、と少し情けなさが湧いてきた。
吸い終わったタバコを靴で揉み消し、先へと足を進める。意地になって進んでいるだけだった。
湿った足音だけが響く中、路地を進み続けた。相変わらず道は狭く、両側の壁や塀も黒い染みで汚れている。変わらず、ずっと同じような風景が繰り返されている。
ただ一点、路面を濡らしている水の量が増えている気がする。
路地に入った時は、道の表面が濡れている程度だったはずだか、今はそこかしこに水溜りが出来ていた。
ピチャリ。
「うわ、またやった」
なるべく避けながら進んでいるが、薄暗いのでどうしても水溜りを踏んでしまう。
染みてこないかと心配になり、水溜りを踏んだ方の足を持ち上げ確認してみる。
どうやら大丈夫そうだと顔を上げた時、路地の先にうっすらと灯りが見えた。
「ようやく出口かぁ。結構長かったなぁ……」
冒険の終わりを予感して、無意識に歩く速度が上がる。
「どこに通じてるんだろうな。知ってる場所だといいけど」
水溜りを踏んでしまうことも気にせず、早足で明かりの下へ向かった。
「……まじかよ」
そこは、三方を建物に囲まれた、少し広い空間だった。
その空間の一番奥に電柱が一本立っていて、煌々と光る電灯が据え付けられていた。電柱からは電線が何本も、それぞれの建物に伸びていて、空に広がる蜘蛛の巣のようだった。
一気に脱力感に襲われ、一息つこうと電柱にもたれかかった。
薄暗さに慣れていた目には、痛いくらい眩しい。目を細めながら見回してみると、光のせいで粘度を増した闇が、周りを取り囲んでいた。
ふと、入口で見た雨染みの記憶が浮かび上がる。闇の中に、人型の影が這い出てきているような錯覚を覚えた。
背中に冷たいものが伝い、心臓がうるさいくらいに跳ねる。
「まさかね!」
不吉な考えを振り払うかのように、意識的に胸を張る。商店街まで戻ろうと、来た道を戻り始めた。
靴が弾く水音が、壁に反響しては消えていく。道を引き返し始めてから、もう随分と歩いている。全身が、じわりと汗ばみ始めていた。
「おかしい……。商店街まで、こんなに遠くなかったはずだぞ」
視線の先には、まだ薄暗い路地が続いている。
「何なんだよ。変だろ、これ。一本道だったろ……」
迷うはずの無い道で迷う。その混乱と不安は胸に重くのしかかり、息を詰まらせた。強く握りしめた手は、じっとりと汗で湿っている。
「そうだ、スマホ! マップで今どこか確認できれば」
ガサガサとスボンのポケットをまさぐるが、中々取り出せない。
やっとの思いで取り出したスマートフォンを、もつれる指で操作し、地図アプリを起動する。読み込みの時間すら、もどかしく感じた。
画面に現れた地図を見て絶句した。
起動したはずのアプリは、画面のすべてが黒一色で塗りつぶされていた。現在位置のポインターは画面の中央に表示されているが、自分が今どこにいるのかは、全く分からなかった。
「どう言う事だよ。電波が届いてないのか?」
呆けたように画面を眺め続けていると、背後から、動物の吐息のような、生臭く暖かい風が吹いてきた。その風に首筋を優しく撫でられて、全身が粟立った。
その時、どこからか含み笑いが聞こえてきた。子供のような甲高い声だが、笑い声を機械的に真似ているような、無機質な声だった。
「なになに! な、何なんだよ!」
叫びながら周囲を見回した。しかし、誰も見つけることはできない。細く薄暗い路地と、雨染みで黒く染まる建物の壁しか無かった。
「誰だよ! どこにいるんだ! 勘弁してくれよ!」
必死になっている姿が滑稽なのか、声は二つ、三つと、その数を段々と増やしていった。
声から逃げるように後ずさるが、壁にぶつかり、そのままズルズルと腰を落とした。
そのまま耳を塞ぎ、頭を抱え込む。
「やだよ……、もう止めてくれよ。俺が何したんだよ……」
泣き出しそうな衝動をこらえながら、声の主に懇願する。
途端に、ピタリと声が止んだ。
荒い息と心臓の音だけが静寂の中に響いている。
強く閉じていた目を、少しずつ開きながら、恐る恐る頭を上げていく。
――正面の壁に、こちらを見つめる黒い影が居た。
それは壁に広がる無数の雨染みだった。ボヤケて曖昧な輪郭は、じわじわと動いているようにも見える。その全てが、絶望の表情を浮かべ、涙を流している。それらは口々に何かの言葉を発していた。
「うわあああああああああ!!」
叫ぶと同時に、手足をバタバタと動かし、這うようにして逃げ出した。
身体の至る所が、地面や壁にぶつかる。当然、痛みを感じるが、今はそんな事には構っていられない。
何度も転びながら、何とか立ち上がり、駆け出した。
背後でザワザワと、何かが蠢く気配がする。
振り返って確認することは出来なかった。
どれだけ走ったのだろう。呼吸が上手く出来ない。酸素が行き渡らず、頭の中が白く濁っていく。
もつれる足は鉛のように重いのに、雲の上を走っているように感覚がない。
心臓だけが激しく跳ねている。
なのに、未だに路地の中にいる。
肩で息をしながら、足を引きずるように進み続ける。
――そしてまた、あの行き止まりへと辿り着いた。
「ははっ……」
思わず、乾いた笑いがこぼれる。全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
「何をやってるんだ、俺は。クソッ!!」
咄嗟に逃げ出したとは言え、まさか逃げ場のない方向に走り出してしまった、自分の迂闊さが恨めしかった。
背後から、何かが近づいてくる気配がする。進むしか無かった。
街灯の光の下へ、転がるように逃げ込んだ。
途端、気配がやんだ。
「え……?」
ゼェゼェと、自分の吐く息の音だけが反響している。
「居なくなっ……た……、のか?」
しばらくそうしていたが、静かな闇が広がっているだけだった。
呼吸が落ち着き始めると、少しだけ冷静さを取り戻した。周囲に気を配りながら、何か出来ることはないかと考え始める。
「そうだ! 電話で助けを呼べば!」
思いつくのが早いか、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を確認すると、電波の強度は十分だった。全身が安堵感に包まれた。
電話帳アプリを起動して、一覧から今日会った友人の名前を探す。目当ての名前はすぐに見つかった。
期待に震える指先で通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。二回。
「頼む。お願いだから、早く出てくれ」
人生でこれほど真剣に、誰かに祈ったことはなかった。
三回。
プツッという音と共に、通話口の向こうから声が聞こえてくる。
「おう、佑真か」
胸が締め付けられて言葉が出ない。
「どうした? 何かあったのか?」
返答がないことを不審に思ったのか、続けて話しかけてきた。
込み上げてくる感情を押さえつけ、無理やり声を出した。
「今、ヤバい状況になってる。地元の商店街の路地に入ったら、出られないんだ。何か変なやつらにも追われてて。とにかくヤバいんだ! 助けてくれ!」
一度声を出すと、堰を切ったように話し続ける。自分でも状況が整理出来ていないので、整然とした話し方は出来なかった。
こちらの話を理解できていないのか、向こうからの返答はなかった。
「悪い。一気に喋り過ぎた。助けてくれ」
少しだけ取り戻した冷静さで言葉を選ぶ。
しかし、返答はなかった。
「頼むよ! 今、本当にヤバいんだよ」
何も言わない友人に、焦りと怒りが湧いてきた時、耳を疑う言葉が聞こえてきた。
「おう、佑真か」
ドクンと心臓が跳ねる。
続けてまた、声が聞こえる。
「おう、佑真か」
「おう佑真かおう佑真かおうユウマかオウユウマカユウマユウマカカカ」
馴染みのある友人の声が、無機質で異様な声に変わっていった。上手く呼吸が出来ない。恐怖と嫌悪感で吐き気が込み上げてくる。
スマートフォンを耳から離しているのに、まだ声は聞こえてくる。壁や地面、あらゆるところから呼びかけられている気がする。
言葉にならない叫び声を上げながら、空を見上げる。視界は電灯の光で白く染め上げられる。
次の瞬間、バン!という音と共に、白と黒が反転した。
「嘘だろ……」
電灯の光が消え、何も見えない程の闇に包まれた。
聞こえていた声は消え、耳が痛いくらいの静寂が訪れた。
闇の中で、何者かの息遣いが聞こえる。
物音を立てれば、それに見つかってしまいそうな気がして、身動きが取れなかった。
涙が溢れ出す。荒くなる息を無理やり押さえつけたので、ひどく息苦しい。
心臓の音がうるさい。止まってくれないかとすら願った。
その時、背後から声が聞こえた。
「――ツカマエタ」
了