第七十六話 純血派の人間
かた、と目の前に紅茶のカップが置かれた。湯気が隙間風のせいか揺らいでいる。端が少し欠けたカップ。元々倒れていたであろう破損してひび割れた机。軋む椅子。広い一室は荒らされたのかガラス片や壁や床の割れた欠片が散らばっている。
机を挟み目の前に座る男性は、優雅と言える手つきで欠けたカップを口に運んだ。この一室とはかけ離れた、異様な空気が漂っていた。
茶に口はつけるべきではないだろうが、やけに喉が渇いた。口の中を唾で湿らせて、喉に水気を運ぶように唾を飲み込んだ。
「あの……、あなたは」
「ああ、自己紹介がまだでしたな。マイクロフト、と。マイクとでもお呼びください」
「マイクさん。こちらはどこなのでしょう」
率直に聞いてみると、マイクロフトは目をしならせて穏やかと言える笑みを浮かべた。仕草も言動も穏やかなのに、有無を言わせぬ空気がある。ここで怯えていては先には進めないだろうと、じっと目を見つめた。私の目をしばらく見返すように観察していたかと思うと、紅茶をひと口飲むとカップを欠けたソーサーに置いた。
「テクトリスにある廃商業施設、ですな」
攫われたであろう場所からはそう離れてはいないようだ。GPSが機能しているのならば、私のデバイスのGPSを利用して助けに来てくれるのではと思うが、そう単純なことだろうか。目覚めた部屋を出た際に一応デバイスのチェックはしたが、連絡機能はジャミングでもされているのか機能していなかった。望みは薄いかもしれない。
「ここからどう逃れるべきか、お考えを?」
「まあ、誰でもそう思うのでは?」
「ふふ、そうですねえ。あなたは随分と肝が据わっておりますね。見知らぬ私に着いてくるのですから」
着いていくほか選択肢を用意していなかったくせに、どの口が言うのか。と表情に呆れを乗せた。それを見透かしたようにマイクロフトは笑う。
「何故このようなことをなさったのか、理由は教えていただけるのですか?」
「素直に着いて来て頂きましたからね。お教えいたしますよ」
話が早いヒトである。心臓は早鐘を打ってはいたが、なるべく平常心でいる様に心がけた。最も見透かされていそうではあったが。
「私共は純血派の者なのですが」
「はあ、純血派、ですか」
ちら、とマイクロフトの後ろに控える獣人を見る。まさか私が純血派に関わることになるとは。
「純血派の方が何故私を?」
「……あなたは我らに与する理由がお有りだからですよ」
「へえ?」
私が純血派に協力する理由なぞ何もないが。と思ったが今は突っ込む場面ではないだろうと口を噤む。
「この惑星の人々は血を混ぜて命を繋いできた。進化の過程としては正しいものなのでしょうね。しかしながら、それを良しとしない者たちも存在しています。この国が獣人を至高の者とする様に、我ら人間にも」
「……ん? ちょっと待ってください。純血派って獣人の純血派ではないのですか?」
「ええ、私は人間の純血派としてあなたに話をしています」
後ろに控える獣人から獣人の純血派が私と話をするために人間を呼んできたのかと思ったが、どうやら違ったようだ。勘違いをしていた。と、すると。
「あなたは純血の人間……なのですか?」
「ええ、そうしてあなたも。ミツミさん」
よくよく考えたら私も確かに純血の人間と言っていいのか。獣人がまだ存在していなかった地球からやって来たのだから。私はね。とマイクロフトが続ける。
「あなたを保護するためにやって来たのですよ」
「保護、ですか」
保護と来たが、現状迫害されているわけでもないし、別に必要ないなと考えたが、私は喚びビトだ。人権なぞ無視されて召喚された存在と言っていい。保護という観点に関しては間違ってはいないのかもしれない。
「困ってはいないので保護はご遠慮させて頂きます」
「おや、振られてしまいましたねえ」
ふふ、と穏やかに笑うマイクロフトだったが、ですが、と呟いた。
「純血の人間とは、いい金になるのですよ」
「……はあ」
「命とは金になる。畜生を食らう時、考えたことはありませんか? 食われるために生まれ育て、殺せばその血肉は金となる。魂の存在なぞ人々は彼らに求めはしない。逆に人間とは、魂を金にする。声を、思考を、創造物を、魂から生み出すのです。ですが、あなたはその血肉も魂も金もできる。血肉は原初の人間という実験材料に、魂はスフィアダイブという超能力を。あなたを狙う者は多い。今までは龍の巣で温まっていたのでしょうが、外に出れば、こうなる」
ごくりと唾を飲み込む。マイクロフトの顔を見るのが恐ろしい。俯いていた顔を少しずつ上げる。マイクロフトの弓なりにしなった口が見えた。しかし、目は笑ってはいなかった。冷徹さが透けて見えるその視線に、背中に冷や汗を感じた。言葉を紡ごうと恐る恐る口を開いた。
「……それは、脅しているのですか?」
「まさか! 我々はただあなたを保護したい。その一心なのです。まあ、先代の方には断られましたが」
先代、と言うとサダオミのことか。三度の誘拐のどれかが彼ら、人間の純血派によるものだったらしい。保護したいとは言うが、誘拐という手段を選んだ時点で信頼できるに値しないと言っていいだろう。マイクロフトの目が私を射抜く。
「信頼できない、とお思いですね」
「それは、はい」
「素直なのは良いことです。では、もう少しお話しましょう。同じ喚びビトの先達として」
「え」
同じ喚びビト、との言葉に驚きの声を上げる。まじまじとマイクロフトを見てしまった。白髪に銀縁眼鏡、彫りの深い柔和な顔立ち。サダオミは日本人と分かってはいたが、彼は、同じ地球から……。
「あなた……喚びビトなのですか」
「ええ、エルドリアノスによって呼び出された。サダオミよりも古くに」
「……あなたも、心理潜航班に?」
「班長を務めておりました」
班長まで勤めていた身で何故、彼は人間純血派に与しているのだろうか。喚びビトならば、元は獣人のバディが居たと言うことだろう。何か問題が起こったと言うことだ。
「……んん、どうやら、時間切れらしいですね」
「え?」
「あなたのバディがやって来たようです」
遠くから足音のようなものが複数聞こえて来た。マイクロフトは後ろの獣人に目配せすると抱えられ、最後にこう残して去っていった。
「次お会いするときは、色良い返事であることを願っております」
それだけ言い残し、凄まじい速さで一室を出ていった。
私はぽかんと、夢か何かでも見ていたのかと思って放心していたが、すぐに私を呼び声が聞こえて来た。
「ミツミ!」
「あ、ヒューノバー」
ヒューノバーが部屋に入ってくると、私の元に駆け寄って抱きしめて来た。
「ぐえ」
「ああ、良かった。本当に良かった……」
「ヒューノバー、どうして……」
「何もされていない!? 怪我してないか!」
「あ、うん」
ばたばたと武装した複数人が部屋に入って来て何事かと思ったが、いたぞ! と遠くから声が聞こえ、何人かがそちらへと向かっていった。マイクロフトを追ったのだろう。
「そうだ! ミスティは? 無事!?」
「うん、無事だよ」
「あ、ああ、よかった」
ミスティが無事かどうかの引っ掛かりは消えてほっと息を吐く。ヒューノバーや武装隊に連れられ外に出るとミスティが駆け寄って来た。しきりにごめんと謝る悲痛そうな表情の彼女を抱きしめ、聴取に協力してくれとの警察官の声に同意して廃商業施設を背にパトカーに乗り込んだ。