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最終日① 晴れる霧

 タロが太郎に初めて姿を見せたあの日から、遂に七日目がやって来た。

 今日中に太郎と妃奈子が恋人同士になれなければ、タロの追試は不合格。
 彼はもう一度、二年生をやり直さなければならない……のだが、その肝心のタロが未だに姿を現さない。

 本当にタロはどうしてしまったのだろう。
 やはり追試を放り出し、怒ってパラレルワールドに帰ってしまったのだろうか。

(せっかく、妃奈子ちゃんとも仲直り出来たのにな)

 その日の昼休み、太郎は野菜ジュースを飲みながら、窓の外を眺めていた。

 そんな太郎の頭にあるのは、やっぱりいなくなってしまった彼の事。

 何故彼にあんなに酷い事を言ってしまったのかと言う後悔の念と、彼に一言でも良いから謝りたいと言う強い想い。

 ズルズルとジュースを啜っていた太郎であったが、彼は一度口からストローを離すと、はあ、と溜め息を吐いた。

(戻って来てくれないかな、タロ……)

 酷い言い方をしてしまってごめんね、とそれだけを伝えたい。

 しかしタロが戻って来たとしても、タロには何のメリットもない。

 確かに太郎からしてみれば、タロにその一言を伝えれば、罪悪感と言う心のモヤは晴れるだろう。
 しかし、タロからしてみたらそうではない。

 タロはもともと、太郎と妃奈子を恋仲にすると言う追試のために、太郎のところへとやって来た。
 しかし例えタロがここに戻って来たとしても、太郎が妃奈子にその想いを伝える事は、万が一にもない。
 つまりタロの場合、彼が戻って来ようが来まいが、タロの不合格は確定するのだ。

 それならばタロにとっては、彼が戻って来るメリットなど微塵もない。

 その状況で、果たしてタロは戻って来るだろうか。

(戻って来ないよ。だって僕だったら、絶対に戻らないもん)

 はあ、と太郎は無意識に溜め息を吐く。

 思い起こせば、太郎はタロがいる間、自ら進んで何か行動をしようとしただろうか。

 タロと樹が色々と作戦を練っていた時も、やりたくないとか、ずっとこのままが良いとか、否定的な意見ばかりを言ってはいなかっただろうか。

 妃奈子と土田の件だって、真実を知るのが怖いからと言う勝手な理由で、二人に直接真相を聞こうともせずに、勝手な思い込みで二人は付き合っているんだと信じ込んでしまった。

 そして、昨日の仲直りの件だって、結局先に行動に移したのは妃奈子の方だったじゃないか。
 タロがいなくなり、意気消沈していたとは言え、相手の方から謝ってくれるまで、結局自分は何も行動しなかった。
 わざわざ妃奈子が太郎を呼び寄せ、話をしようともしない太郎の理由を周りから聞いた事で、彼女の方から謝罪してくれたおかげで、二人は元の関係に戻れたんじゃないか。

(僕が嫌だって言っても時は進む、か……) 

 ふと、以前のタロの言葉を太郎は思い出いした。

 関係を崩したくないから、ずっとこのままでいたいから、何もしたくないと言った太郎に、タロは悲しそうに異論を唱えた。
 太郎が何もしなくたって、時は進むのだ、と。
 周りは常に前に進んで行くのだ、と。

 昨日の仲直りの件は良い方に転んだから良かったものの、正にその通りだったのではないだろうか。
 妃奈子が太郎と仲直りしたいと前に進んだから、二人は仲直り出来たのではないだろうか。

 そうだ、太郎は確かに前へは進まなかった。
 けれども仲直りしたいと思った妃奈子が前に進もうと行動を起こしたから、二人は仲直りする事が出来たのだ。

 前に進まなかった太郎と、進んだ妃奈子。
 太郎が何をせずとも時は動いた。
 何もしなくとも、物語は進んでしまった。

(駄目だな、僕。何でも怖がって、前に進もうとしないだなんて。今日まで何もしていないだなんて、我ながら情けないよ。これじゃあタロに愛想尽かされたって、文句の一つも言えないよ)

 はあ、と吐く、本日何度目かの無意識の溜め息。

 ぼんやりと窓の外を眺めながら、太郎は再び野菜ジュースのストローに口を付けようとした。

「こんにちは、太郎君」
「え?」

 しかしその直前、誰かに名前を呼ばれ、太郎はふと顔を上げた。

「あれ? え? 妃奈子ちゃん?」

 調理室で土田とお弁当を食べているハズの妃奈子が、何故ここに?

 心配そうな表情で自分を見つめている妃奈子を見上げながら、太郎は不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの、妃奈子ちゃん? わざわざ僕の教室を尋ねて来るなんて……」
「うん、ちょっと心配だったから」
「え?」

 心配? 何が……?

 よく分からない妃奈子の答えにキョトンとする太郎であったが、妃奈子は変わらず心配そうに太郎を見つめていた。

「太郎君、元気ないから、何か悩み事かなあって」
「え?」
「土田君には、私と喧嘩しているのが原因だろうって言われていたんだけど。でも、そうじゃないみたいだから」
「……」
「授業中もボーッとしていて先生に怒らるし、友達ともあんまり話さないでずっと一人でいるし、お昼もロクに食べていないみたいだって、土田君が教えてくれたの。昨日持って行ったシチュー、ちゃんと食べてくれた?」
「あ……うん、ちゃんと食べたよ。美味しかった、ありがとう」

 昨日、仲直りしてから、妃奈子はまた夕ご飯のお裾分けを持って来てくれた。

 あまり食欲のない太郎であったが、せっかく妃奈子が持って来てくれたのだからと、彼は久しぶりにちゃんとした夕食を摂った。

 お皿を二人分用意して、シチューを二つに分けて……。

 結局、どちらも太郎が食べるハメになってしまったのだが。

「でも、今日のお昼ご飯って、その野菜ジュースだけなんでしょ? 駄目だよ、ちゃんと栄養摂らなくちゃ!」
「でも、あんまり食べる気がしなくって……」
「でもぉ……」

 苦笑を浮かべる太郎に溜め息を吐くと、妃奈子は心配そうな視線を改めて彼へと向け直した。

「ねぇ、本当にどうしたの? 何か悩んでいるんでしょ? 太郎君の元気がないと、私、心配だよ」
「あ、あはは、大丈夫だよ。妃奈子ちゃんが心配する事じゃないよ。僕なら大丈夫だから気にしないで」
「もしかして……また葵東高の人達に虐められたの?」
「え?」
「お金、全部盗られちゃったとか?」
「えっと、そう言うわけじゃ……」
「私、ずっと思っていたんだけど、カツアゲって立派な犯罪だよね? だって他人のお金盗るんだもの。それ、警察に通報した方が良いんじゃない? たぶん勝てるよ」
「いや、だからその……」
「うん、そうしよう! 大丈夫、私も警察に付いて行くからっ!」

 大変だ。
 このままでは、太郎が葵東高の不良達にカツアゲされたと勘違いした妃奈子が、警察に通報して大事にし兼ねない。

 それはマズイ。結構色んなところに迷惑が掛かってしまう。
 何とかして妃奈子の誤解を解かなくては。

「……大切な友達がいなくなっちゃったんだ」
「え?」

 何とかも何も、本当の事を口にするしかないのだろうが。

 そう思った太郎が正直にその理由を口にすれば、妃奈子はその予想外の原因に、キョトンとしながら首を傾げた。

「ずっと一緒にいたんだけど、喧嘩していなくなっちゃったんだ。僕が酷い事を言ったせいで、帰って来なくなっちゃったんだ」
「友達? それって……女の子?」
「え? 男の子だけど?」
「あ、そうなんだ」

 気のせいだろうか。
 一瞬だけ、妃奈子の機嫌が悪くなった気がしたのは。

 まあ、良いか。

「ずっと帰って来るのを待っているんだけど、中々帰って来なくって。もう、帰って来てくれないかもしれないんだ」
「……」

 ポツリポツリと話してくれた、太郎の元気のない理由。

 それを静かに聞いていた妃奈子であったが、彼女はしばし考える仕草を取った後、不意に太郎に視線を戻した。

「ねぇ、太郎君。その友達の事、ちゃんと探しに行ってあげた?」
「え?」
「もしかしたら、近くにいるかもしれないよ?」
「……」

 妃奈子は一体何が言いたいのだろうか。
 もしかして、タロを探しに行けと、そう言いたいのだろうか。

「私だったら、その友達の行きそうなところを色々と探しに行くと思うの。だってこのまま喧嘩別れするなんて、絶対に嫌だもの」
「……」

 やはり探しに行くべきなのだろうか。
 でもタロの場合、もうパラレルワールドに帰っているかもしれない。普通の人とは違うのだから。
 だからタロがパラレルワールドに帰っている場合、それはもう手遅れ。探したところで意味なんかない。

 そんな事をぼんやりと考えながら太郎が眉を顰めれば、妃奈子もまた困ったようにして眉を寄せた。

「あのね、太郎君。ただ待っているだけじゃ駄目なんだと思うの」
「え……?」

 ドキリと。

 妃奈子のその指摘に、太郎は自分の心臓が波を打つのを感じた。

「ただ待っているだけじゃ、友達は帰って来ないよ。だって喧嘩をしたんでしょ? その友達だって、気まずくて、太郎君のところに帰るに帰れなくなっているかもしれないもの」
「でも……でも、もう近くにいないかもしれないんだ。それに酷い事を言ったのは僕だ。彼はもう、僕の事なんか嫌いになっているかもしれない。僕にはもう会いたくなんかないかもしれないんだよ」
「でも、近くにいるかもしれないよ? それに嫌われていないかもしれないし、会いたいけど、会いに来れないだけかもしれない」
「え……?」

 それは太郎とは真逆の考え方。
 後ろ向きな捉え方ではなくて、前向きな捉え方。

「まだ、探してもいないんでしょ?」

 思いもしなかったその考え方に驚いた視線を向ける太郎に、妃奈子はニッコリと明るく笑ってみせた。

「だったら探しに行ってみようよ。ウジウジと考えているだけよりも、行動に移した方が良いに決まっている。だって太郎君が動けば、未来も動くかもしれないでしょ?」
「妃奈子ちゃん、でも……」
「確かに太郎君が動いても、未来は動かないかもしれない。でも、太郎君が動かなくちゃ、未来は絶対に動かないんだよ?」
「……」

 ああ、どうして自分はこうも受け身の姿勢ばかりを取ってしまうのだろうか。
 確かにタロの事は心配だった、早く帰って来て欲しいと思った。
 でも結局は思っているだけで、彼を探しに行こうとはしなかった。
 太郎がやっていた事と言えば、ただひたすらにタロが帰って来るのを待っていただけ……。

(本当に、僕は何にもしていないんだな)

 本当に何もしていない。
 でも、それなら今からやれば良いんじゃないのか?
 せっかく妃奈子が教えてくれたのだ。
 それに、今日は試験最終日。
 もしかしたら進級を諦めきれないタロが、近くに来ているかもしれないのだから。

 ああ、そうだ。
 きっと今が自分の動く時。
 タロを待っているだけじゃ駄目だ、自分から探しに行こう。
 そして謝るんだ。酷い事を言ってごめんね、と。

 そして、前に進むんだ……!

(そうだよね。みんな、自分が望む未来が欲しいから、自ら前に進もうとするんじゃないか。僕だって同じだ。僕も自分から動かなきゃいけなかったんだ。僕が望む未来を手に入れるため……タロにもう一度会うために!)

 さあ、タロはどこにいる?
 パラレルワールド?
 近くの橋の下?
 公園のブランコの上?

 違う……おそらくは樹の家。
 だってこの前だって、タロは樹の家にいたのだから。
 それに例え、樹の家にもいないとしても、樹ならば何らかの情報を持っているに違いない。
 樹の家に逃げ込んだくらいなのだ。帰るなら帰るで、樹には一言二言くらい、残しているに決まっている。

 そうだ、そうに違いない!

「ありがとう、妃奈子ちゃん!」

 妃奈子の言葉にしばらく考え込んでいた太郎であったが、不意に立ち上がると、彼はその微笑みを彼女へと向け直した。

「僕、探しに行って来るよ! 自分から会いに行く!」
「うん、それが良いよ」

 彼のその決意に満足したのだろう。
 ニコリと、妃奈子もまた嬉しそうな笑みを太郎へと返した。

「樹姉ちゃんなら、居場所を知っていると思うんだ。だから姉ちゃんのところに行って来るね!」
「樹お姉ちゃん? あ、ちょっと待って、太郎君!」
「え?」

 一体何だろう?

 早速行こうとした太郎を呼び止めると、妃奈子はクスクスと笑いながらその用件を口にした。

「お姉ちゃんのところに行くのなら、この前は奢ってくれてありがとうって伝えておいて?」
「奢る? 何かご馳走にでもなったの?」
「ふふっ、何って、太郎君も奢ってもらっていたじゃない。ドリームワールドのフリーパス券。私、何だかんだでまだお礼言っていないんだ」
「え……?」

 その言葉に、太郎は顔を顰めた。

 だってあのフリーパス券は、樹がデパートの福引で当てたモノだろう?
 樹が運悪くあんなモノを当ててしまったせいで、太郎は樹とタロに引きずられるようにして、妃奈子とのラブラブ大作戦に参加させられるハメになってしまったんじゃないか。

 それなのに、奢ってもらったとは一体何……?

「やっぱり。太郎君気付いてなかったんだね」

 しかし妃奈子にとって、太郎のその反応は予想の範疇だったらしい。
 不思議そうな太郎のその反応に、妃奈子は再びクスクスと笑い始めた。

「あのね、太郎君。デパートの福引の景品に、ドリームワールドのフリーパス券なんてないんだよ」
「え……っ!?」

 景品にフリーパス券がない!?
 え、何で?
 だってあれは、樹が福引で当てたって……。

「おかしいと思わなかった? だって四枚だよ? 例えあったとしても、ペアで二枚が普通でしょ? だから私、ちょっと確認に行ってみたの。そしたらやっぱりそんな景品、置いていなかったよ」

 置いていなかったって……。
 それじゃあ、あのチケットは……、

「それじゃあ、あのフリーパスは?」
「樹お姉ちゃんが、私達のために自腹で買ってくれたモノだと思うよ」
「……」

 当たったモノではないとしたら、それは自らが買ったモノ。
 確かに、それしか考えられない。

 でも、どうして樹はそこまでした?
 何故、そこまでしてあの作戦を決行した?
 だって遊園地のフリーパス券なんて、相当高額なモノだろう?
 しかも四枚だなんて、かなりの金額を支払ったハズだ。

 何故、樹はそんな大金を使ってまで、自分達を遊園地に連れて行った?
 まさかそこまでして、自分と妃奈子をくっ付けたかったとでも言うのだろうか……?

「ぼ、僕、ちょっと行って来るよ!」

 それだけを言い残して、太郎は教室を飛び出した。

 タロに会うため、そして樹に真相を聞くために……。

しおり