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2話 キューピッド刑事






石畳の広場から少し離れた海沿いに、そのレストランは絵画のように佇んでいた。

美しい装飾が施された建物は夕陽を浴びて輝き、テラスには海風に揺れる小さなテーブル。波のさざめきが静かに耳をくすぐる。客たちはその絶景を楽しみながら、午後のティータイムを満喫していた。

ウェイトレスのネルは、長い金髪を片側でまとめ、黄色いスカーフが軽やかに揺れている。彼女が優雅な所作で料理を運ぶ姿は、一見、完璧に見えた。


「お待たせしました。ムール貝のインペパータでございます。」


ネルは淑やかに料理をテーブルに置いた。しかし、目の前の女性客が怪訝な表情を浮かべる。


「え?頼んでないわよ。」


ネルの動きが一瞬止まる。数秒の沈黙。遠くから店主の声が響いた。


「ネル!隣だ、隣!」
「し、失礼しました!」


ネルは慌てて料理を取り下げるが、その勢いが仇となった。ムール貝が皿から飛び、次の瞬間、隣席の男性の胸元へ跳ねる。


「熱っつい!?」
「ご、ごめんなさい!」


慌てたネルは近くの水入りグラスを掴み、男性客の頭にぶっかけた。


「冷たっ!? 何をするんだ君!」
「ヤケドしたら大変かなって…!」


男性は濡れたシャツを握りしめ、苛立ちを募らせる。


「びしょ濡れじゃないか!」
「これで拭きます!」


ネルは手近にあった白い布を掴み、男性に差し出した。しかし、それを見た男性の顔がさらに青ざめる。


「それはテーブルを拭いてた雑巾じゃないか!?もういい!」


男性客は怒りのまま財布から札を叩きつけ、濡れたシャツを振り乱しながら店を出て行った。ネルは肩を落とし、静かに後片付けを始める。すると、奥から店主が険しい顔で手招きしていた。


「帰りたい……」


ネルは小さく呟きながら、店主のもとへ向かった。







小一時間に及ぶ説教を終え、ネルは案内役へと配置転換されることになった。店の入口は人通りの多い通りに面しており、休日の今日は特に賑やかだ。


「さっきのことを忘れて、笑顔、笑顔……」


ネルは自分に言い聞かせながら、通りすがりの子供たちに手を振り返す。その金髪と髪型は通行人の目を引き、家族連れの中には彼女に声をかける人もいた。

しかし、ネルの内心は複雑だった。


「今日はこのまま何も起こらず終わってくれないかなぁ……」


しばらくして、陽は傾き始め、オレンジ色の光が石畳の街を染める。

ネルはレストランの前でホウキを手に、掃除が捗ってしまい、向かいの店先まで掃除し始めていた。人通りは疎らで、街の喧騒も遠のき始めている。そんな静寂を破るように、後ろから耳障りな声が響いた。


「お、姉ちゃん暇そうだな?」


その声にネルは嫌な予感を覚えつつも、振り返り、いつもの営業スマイルを浮かべた。


「こんにちは〜お食事ですか?」


振り返った先にいたのは、いかにも厄介そうな二人組。

片方は赤いモヒカン頭でトゲ付き肩パッドの服を着ており、もう片方はビョウだらけの革ジャンを素肌に纏い、世紀末、もしくはマッドなマックスな世界からそのまま迷い込んだような出で立ちだった。ネルの笑顔がわずかに引きつる。


「お、なかなか上物じゃねえか。」
「けど、まだちょっとガキ臭いなぁ…」


男たちはネルを品定めするようにジロジロ眺めながら、勝手なことを言い合っている。肩パッド男が一歩近づき、ネルの腕に手を伸ばしてきた。


「掃除なんていいから、俺らの相手してくれよ。」


ネルは冷ややかな笑顔を浮かべ、肩パッド男の差し出した手にホウキの柄を握らせた。


「代わりに掃除してくれるなら、考えてもいいよ。」


男の表情が歪む。


「おい、ねーちゃん。調子に乗るなよ。」


肩パッド男はホウキを奪おうと力を込めたが、ネルの片手がそれを軽々と支えて動かない。苛立った男が両手で引っ張った瞬間、ネルはホウキから手を離す。勢い余った肩パッド男は背中から派手に転倒した。

「このガキィ!」と声を荒げ、革ジャン男がネルに向かって腕を振り上げる。しかし、その一瞬の隙にネルは近くの立て看板を足で引っ掛け、勢いよく男にぶつけた。男はよろけ、看板は宙を舞う。さらにその看板を掴み、畳み掛けるようにもう一度男を叩きつけた。


「テメエ!やってくれたな!」


肩パッド男がナイフを取り出す。

ネルは一瞬だけため息をつくと、跳躍。両足で肩パッド男の呆然とした顔を蹴り飛ばした。男は無様に吹き飛び、レストランの窓ガラスに突っ込み、見事に割ってみせた。


「あ、やば……」


ネルは冷や汗を浮かべると、案の定、店主が現場に到着していた。険しい表情の店主が無言でネルに近づく。彼女は目をつむり、覚悟を決めた。

しかし──肩に置かれる手は優しい。ネルがそっと目を開けると、店主は笑顔で親指を立てていた。


「明日から来なくていいよ。」


明るい笑顔と共に放たれたその一言。ネルは「ですよね」と心の中でつぶやき、肩から首をがっくりと落とした。









UKシティ軍警察署は中央広場から少し離れた石畳の一角にそびえ立っていた。

灰色の大理石で作られた外観には、鋭角的な紋章が刻まれ、見る者に威圧感を与える。鉄格子で守られた窓、入り口に立つ銃を携えた警備兵、そして時間ごとに街に響く時計塔の鐘の音。静けさと重厚さがこの建物の全てを語っている。

署内に足を踏み入れると、無機質な廊下がどこまでも続き、やがて重厚な木製の扉が目に入る。

扉の向こうには、レイ特認警部の個室があった。部屋はシンプルだが整然としており、深いブラウンのデスクには資料が山積みになっている。微かに漂うコーヒーの香りが、殺伐とした雰囲気に一筋の温かみを添えている。


「収穫なしか……」


革張りの椅子にもたれ、レイは書類の束をデスクに置いた。一番上には『初期検死報告書』の文字が躍る。
コーヒーを一口飲みながら、彼はジェイソン事件について考えを巡らせた。この五十年にわたる未解決事件は、最近になってその頻度を増している。


「またすぐに次の事件が起きそうだな……」


呟いてため息をつくレイ。捜査を途中で投げ出す署員や上層部の諦めムードが、彼の苛立ちを募らせていた。

そんな時、扉が軽くノックされた。


「どうぞ。」
「レイ、署長が呼んでるぜ。新しい相棒じゃないか?」


顔を覗かせたのは、茶色がかった黒髪に太い眉毛、そして濃すぎる顔立ちが特徴のフィリッポだった。学生時代からの友人であり、どこか軽薄な雰囲気をまとっている。


「仕事の時間だ、《 キューピッド刑事》! 今日も愛の種を撒き、幸せの花を咲かせるのだ!」


得意げな調子で踊り出すフィリッポ。最後は片膝をついて明後日の方向を見つめるという妙に芝居がかった締めくくりだ。


「その呼び方はやめろ。一応、俺はお前の上司だぞ。」


レイが鋭く言うと、フィリッポは一瞬で敬礼姿勢を取った。


「失礼しました! レイ特認警部殿! 自分は麗しい乙女が幸せを掴むことを喜んでいるだけであります!」


──レイが《 キューピッド刑事》と呼ばれる理由は単純だった。
着任以降、彼の相棒となった女性たちが次々と結婚するという謎のジンクスがあるのだ。三人目まで同じ展開が続くと噂は署内外に広まり、相棒志望者が殺到する始末。本人はこの状況を大いに不快に思っている。

それもそのはず──レイはいつしか、かつての相棒全員に好意を抱いていたのだ。しかし彼の想いが届く前に、相棒たちはそれぞれ別の男性と結婚してしまった。


「フィリッポ、お前も遊んでないで仕事しろ。」
「了解であります!」


不機嫌そうに肩をすくめ、レイは椅子から立ち上がる。


「次の相棒だけは、絶対に好きにならない……」


そう固く決意しながら署長室へ向かう。その背後には、未だ飄々としたフィリッポの気配がついてきていた。









部屋のドアをノックする音が響いた。


「ロッシ署長、レイです。」


中からは待ちかねたような声が即座に返ってくる。


「お、よし入れ。」
「失礼します。」


レイが部屋に入ると、署長は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。居ても立ってもいられなかったのだろう。レイの顔を見るなり、署長は手で椅子を指し示す。


「呼ばれた理由は分かってるだろうが、座ってくれ。」

「? ……はい。」


『いつも』とはどこか違う署長の態度に違和感を抱きつつ、レイは促されるまま長椅子に腰を下ろした。すると署長が腕を組みながら口を開いた。


「実はな、今回の相棒は民間登用という形になる。」


その言葉を聞いた瞬間、レイは反射的に立ち上がり、声を張り上げた。


「私に素人のお守りをさせる気ですか!?」


一方、部屋の外。扉に耳を当てて盗み聞きをしているフィリッポは、心底楽しそうに顔を輝かせている。


「おやおや、また面白い展開だな……」


そんな彼の耳には署長の宥める声が届いていた。


「待て待て、今回は王女殿下たっての要望で──」


《 王女殿下》の名前が出た瞬間、フィリッポは思わず目を見開いた。興奮に任せて耳を扉に押し付けている彼の背後には、静かに一つの影が近づいてきていた。


「すみません、こちらがロッシ署長の部屋ですか?」


清らかな声に、フィリッポは飛び上がるように振り向く。その目が、驚きにさらに大きく開かれていった。

──部屋の中では、レイがなんとか怒りを飲み込み、再び長椅子に座り直していた。

署長は口ひげを撫でながら、少し呆れたように言う。


「お前はもう知っていると思ってたんだがな。TVはあまり見ないタイプか?」

「どういう意味です?」


その時、部屋のドアがノックされる。署長はすぐに応じた。


「いいぞ、入ってくれ! ……来たぞ。お前の新しい相棒だ。」



ゆっくりとドアが音を立てて開かれる。その瞬間、レイは内心で強く思った。


『次は絶対に好きにならない──』


ドアの向こうに現れたのは警官の制服を着た女性だった。
肩にかからない艶やかな紫色の髪、希少な宝石を思わせる紫がかった瞳、そして人とは思えない整いすぎた端正な顔立ちが一瞬で目を引く。彼女の声は、清澄な水面を揺らすような柔らかさを持っていた。


「初めまして、ウタです。」


その瞬間、レイの決意は早くも危ういものになった──



『……自信がない──』





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