1話 誘蛾灯
その街は、石畳の広場を中心に活気づいていた。
美しい装飾が施された建物が並び、カフェのテラスでは人々が香り高いコーヒーを楽しんでいる。広場を通る小川には小さなボートが浮かび、観光客がその景色に見入っていた。市場では果物やパンが所狭しと並び、賑やかな声が響く。
しかし、一歩路地に入ると街の顔は変わる。細い道の両側には古びたレンガの建物が立ち並び、洗濯物が頭上で揺れる。小さな運河が静かに流れ、石橋の上には猫が気ままに横たわっている。水面には灯りが揺らめき、足元の石畳がしっとりと湿っていた。
喧騒の影に潜む静寂。それもまた、この街<UKシティ> が持つ独特の魅力だった。
太陽が西の海へと沈み、薄曇りの空には月がぼんやりと浮かんできた。石畳の路地を照らす街灯の明かりが、長い影を落としている。
その路地の奥に、一人の男性が立ち尽くしていた。
彼はスーツ姿の日系人だった。整えられた黒い髪に薄い眼鏡をかけ、手には傷一つない黒いスーツケースを握りしめている。ネクタイは少し緩められ、額には薄っすらと汗が滲んでいた。
「さて、困ったぞ…。ここはどこだ…」
彼は、先ほど繁華街から離れたばかりだったが、いつの間にか迷い込んでしまった路地の静けさに、心のどこかで小さな不安を抱いていた。
路地は細く曲がりくねり、壁際にはひび割れたポスターが貼られている。足音を響かせると、小さな運河が目の前に現れた。薄暗い水面には街灯の光が揺らめき、風が吹くたびに小さな波紋を広げている。
「綺麗だな…こんな街中にホタル…? 」
辺りでは小さな光が蛍のようにゆったりと舞い、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。それは何が発光しているのか、どこから来ているのか、男には分からなかった。
彼は立ち止まり、息を整えた。スーツケースの持ち手を握る手には力がこもり、目は周囲を探るように動いている。冷たい風がネクタイを揺らし、心をさらにざわつかせた。
「この音は……?」
しばらく街を彷徨っていた男の耳に、静かなギターの音色が届いた。音に引き寄せられるように歩みを進めると、彼はやがて高い木々が並び立つ薄暗い公園に足を踏み入れる。
そこには、蛾が舞う街灯の光を背にした一人の女性がいた。
淡い紫色の髪を二つに分けてまとめた彼女がアコースティックギターを抱え、淡々と弾いている。その姿に男は安堵のため息をつくが、同時に彼女の髪型に妙な連想をしてしまった。── まるで左右に束ねられた素麺のようだ、と。
「バカなことを考えてる場合か」と男は心の中で自分を叱りつけ、意を決して女性に声をかけた。
「あの、演奏中にすみません。実は、道に迷ってしまって…」
彼の声に、女性の指が弦の上で止まり、すみれ色の瞳がこちらを向く。彼女の顔がはっきりと見えた瞬間、男は思わず息を飲んだ。均整の取れた美しい顔立ち。どこか神秘的な雰囲気さえ漂わせるその姿に、彼は一瞬見とれてしまう。
「近くに『アッロッジョ・シクーロ』というホテルはありませんか?」
「知っていますよ。案内しましょう。」
女性は淡々と言うと、脇に置かれていた大きな鞄を軽々と持ち上げ、先に立って歩き始めた。慌てて男もその後を追いかける。
「ありがとうございます! ご丁寧に…助かります。」
彼は礼を言いながらも、女性の後ろ姿に目を奪われていた。黒いパーカーに包まれた肩、そして短めの紫のワンピースから覗くほっそりとした太もも。歩くたびに揺れる腰のラインに、彼の視線はつい吸い寄せられてしまう。
しかし、周囲が次第に暗くなっていくにつれ、男の心に不安が広がる。街灯も月明かりも届かない静寂の中、彼は思わず声をかけた。
「あの…本当にこっちで合っていますか?」
「ええ。こっちが近道なんですよ。」
女性は振り返り、すみれ色の瞳を真っ直ぐに彼に向ける。その瞬間、彼女の唇にかすかな笑みが浮かんだ。そして突然、彼女は肩に掛けていた鞄を地面に下ろす。
「え…?」
彼女の動きにつられて、男も足を止める。女性は無言のまま鞄のファスナーをゆっくりと開け始めた。
男はその様子に妙な期待と焦燥を感じ、勢いで口を開く。
「も、もしかして娼婦の方ですか? お金ならありますよ…」
彼の声は掠れ、呼吸は荒い。すっかり雰囲気に飲み込まれ、彼は今にも彼女に飛びかかりそうな勢いだった。だが──
「お代は結構ですよ…」
女性の澄んだ声が響いた次の瞬間、男の期待は不意打ちを喰らうこととなる。
彼女が鞄の中から取り出したのは、鈍い光を放つチェーンソーだった。
エンジン音が轟き、夜の静寂を切り裂くように辺り一帯に響き渡る。月の光が不気味に女性の姿を照らし出す。チェーンソーを構えた彼女の表情は、どこか楽しげですらあった。
「楽しませてくださいね……」
その言葉と共に、チェーンソーの刃が唸りを上げる。男は目の前の光景に悲鳴を上げ、後ずさろうとするが、すでに歩く事はできなかった。
静かな公園に月明かりが差し込む。血の気を帯びた赤い月が、空に浮かんでいた。
◇
朝の光に包まれた公園は普段であれば緑が美しく、鳥たちがさえずり、ランナーたちが集う平和な場所だった。
しかし、今日はその光景は一変していた。黄と黒の規制線が周囲を囲み、青い制服の捜査員や鑑識が忙しく動き回る。物々しい雰囲気の中心にはブルーシートがかけられ、そこからは無造作にはみ出した男性の手が見えていた。破れた衣服の切れ端が風に揺れ、傷だらけの黒いスーツケースが転がっている。
「うえ……こりゃあ……うちの晩飯よりひでえ……」
ブルーシートを捲った捜査員が顔をしかめ、ぼやいた。
「おい、シートを戻せ。」
「なんだよ、検死に回す前に検証しないとダメだろ。」
文句を言いつつも、見続けるには辛い光景だったのか、捜査員はすぐにシートを戻す。すると、規制線の外に一台の黒い高級車が静かに停まった。その異様な存在感に、捜査員の一人が声を上げた。
「ほら、おいでなすったぜ。本日の主役の登場だ。」
車から降り立ったのは、一人の長身の男性だった。所々に赤い差し色の入った黒い帽子、流れるような黒い外套、そして青みがかったサングラス。その洗練された姿は現場全体を圧倒するかのような威圧感を放っていた。
「軍警察……!? エリート中のエリートじゃないか…」
彼の登場に、現場の捜査員たちは呆然と見入ってしまう。風に外套がはためくその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
男は規制線を悠然とくぐり抜け、捜査員たちの前に立つと、サングラスを外し、懐から手帳を取り出した。
「特認警部のレイだ。現場の保全に感謝する。」
低く落ち着いた声が、場の空気を一瞬で引き締めた。
「い、いえ。仕事ですから…」
「早速、構わないか? 被害者は?」
動揺する捜査員を尻目に、レイはサングラスを再び掛け、ブルーシートに近づいた。そして片膝をつき、シートを捲って被害者に目をやる。
「見たところ、二十代から四十代の男性ですが、何より損傷が酷い。」
切断面を見つめながら、レイの表情が険しくなる。
「確かに……凶器はなんだ?」
「損傷具合を見るに…恐らくチェーンソーか、それに類するものかと。」
レイはシートを戻し、白い手袋をはめた手を脇に入れ、腕を組む。
「被害者の身元は?」
「それが…身分証も財布も見つかってません。普通の物取りだったら、こんな目立つやり方はしないでしょうね……」
レイは捜査員の言葉に小さく頷き、目を細めて辺りを見渡した。
「目撃者や近所の聞き込みは?」
「今のところゼロ、近所からも情報なしですよ…」
その報告に、レイは重いため息をついた。捜査員の一人が、ふと小声で話しかけてくる。
「警部、これって…もしかして、ジェイソン事件なんじゃ…?」
レイは視線を上げ、捜査員の顔を見た。その表情には恐怖の色が浮かんでいる。
《ジェイソン事件》──ここ数年、世界各地で起きている謎の連続殺人事件。被害者は全員衣服をまとっておらず、チェーンソーによる残虐な方法で命を奪われている。目撃者や遺留品が皆無という、異常な共通点を持つ未解決事件だ。
「そうに決まってる…あの、ジェイソンがこの<UKシティ>に現れたんだ……。」
別の捜査員が蒼白な顔で声を震わせた。その時、レイは規制線の外にできた人だかりに気がつく。
「あれは?」
「たぶん、地元のテレビ局ですよ。新人キャスターがなかなか美人なんすよ。」
レイは顎を撫で、少し考え込むと、捜査員たちに現場を任せて規制線の外へ向かう。
「後を頼む。」
「あいよ。」
そうして颯爽と歩き出すレイ。その背中を見送りながら、捜査員たちは現場に漂う不気味な気配に、改めて身震いするのだった。
◇
昼下がりの穏やかな空気が漂う街角のレストラン。
窓から差し込む陽光に照らされた店内では、ランチを楽しむ客たちが思い思いの会話を楽しんでいた。しかし、壁に取り付けられたテレビが突如ニュース映像を流し始めると、柔らかな空気が一変していく。
画面には、大きな赤いテロップが目を引く。
《 連続殺人鬼、UKシティに襲来か!? 》
緑豊かな公園を背景に、若い女性キャスターが険しい表情でニュースを伝えていた。
『 ── 閑静な住宅街に隣接する美しい公園、こちらで男性の遺体が発見され……あ、警察の方がこちらに来られてますね。話を聞いてみましょう。』
しばらくして、黒い制服に身を包んだ警官がインタビューに応じている様子が映し出される。キャスターの問いに、警官が青いサングラスを外して厳粛な表情で答える様子が、レストラン内の客たちの注意を一気に引き寄せた。
『 ── 仮にジェイソン事件だった場合、被害者は必ずひとりです。夜間はなるべく単独での外出は控えるように── 』
厨房の隅で金髪のウエイトレスは皿を拭く手を止め、テレビ画面に釘付けになっている。彼女の目はキャスターの真剣な声に吸い寄せられるように動かない。
「ネル!」
突然の声に、ウエイトレス姿のネルははっと我に返る。振り向くと、カウンターの向こうで店主が腕を組んで彼女を睨んでいる。
「できたぞ。持ってってくれ。」
ネルは慌てて応じる。
「は、はい。」
そう答えつつも、視線は再びちらりとテレビ画面へ戻った。そこには、公園の規制線やブルーシート、そして重々しい空気の中を歩く警官たちの姿が映っている。
ネルの胸には、妙な不安が小さな波紋を広げていくのだった──