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本編

 木曜日の午後。ここは一人暮らしの私の部屋。窓際のライティング・デスクに肘を付き、レースのカーテン越しに空を見る。で、少し逸る心を抑えながら、凮月堂のストロベリーのゴーフレットを齧り、マリアージュ フレールのマルコ ポーロ ルージュを一口飲んた。紅茶は行きつけの店で買ったもの。ゴーフレットは先週祖母を訪ねたら「貰い物だけれど食べきれないから上げるわ。あなたこれ好きだったでしょ?」と言われて貰ってきたものだ。私がゴーフレットを好きだったのは、小学校低学年の頃なのだが、祖母にしてみれば、ついこの間のことなのだろう。実際今でも結構好きである。
 そうして意を決し、ちょっとだけ期待をしながらパソコンで小説の投稿サイトを開いて中を見た。また駄目だったか…。そのサイトの小説コンテストの結果発表を確認して、半ば納得し、半ば悔しかった。1次選考の通過率は上がってきたが、最終には残らない。私にもっと才能があったら、この大賞の人のような物語を書くことができただろうか?
「もし宜しかったら、その願い、叶えましょうか?」
 いつの間に現れたのだろう? ここは私の部屋で誰も入れる筈が無いのに、その男はいた。20代後半位に見える。タキシードのような服を着ている。
「こちらへどうぞ」
と、男はお辞儀と共に手を指し示す。周囲が少し豪華な執務室のような場所に変わっている。慌ててスマホを確認するが、もちろんアンテナは立っていない。
「わたくし、こういうものです」
 差し出された名刺には、「 タレント仲介業 明星商会 販売担当 メフィスト」とある。
「…随分、御大層な…芸名ですね」
「お褒めに預かり光栄ですね。本題ですが、あなたは文学の才能=タレントをお望みですね? コンテストに入賞できるような。私の上司が最近見つけたものがぴったりだと思うのです。どうでしょう、前金に銀行の帯封付き1万円札で1千万円払って頂ければ、あなたにその才能をお売りいたしますよ。あなたが納得できる結果が出たら、後金でもう1千万円お支払い下さい」
「…魂を寄越せ、とかではないの?」
「昔はそういうことをしていた時代もありましたが、今や我々も人間社会に馴染みましたので、お金で構いません。但し、あなたが納得できる結果を得たにも関わらず、後金をお支払い頂けなかった場合には、代わりに魂を申し受けます」
「…なるほど。で、どうやって信じろと?」
 男が指を鳴らすと、目の前に姿見が現れ私の姿が写った。男が指を鳴らす度に私の姿は、猫、鳥、リス、犬、馬、と次々変わって行き、また私自身の姿に戻った。
「…このあたりで、お分かりでは? それ以前に、あなた、既に私が悪魔であると信じてらっしゃるでしょう?」
「…分かった。1千万なら払える。よろしくお願いします」
 口座には株で儲けた2千万円があった。税金を考えても前金なら払える。このお金なら、本当に才能が手に入るのなら、大して惜しくは無い。
「では、こちらにご署名を」
 机の上に2枚の紙があり、今回の契約内容が記されていた。署名すべきと思われる場所の片方には、シジルらしき模様が描かれていた。男は万年筆のようなペンを渡してきた。軸の一部が透明になっていたが、私が触った瞬間に中のパイプが赤い液体で満たされた。
紙は不思議な手触りで、多分羊皮紙だろう。シジルの隣に私の名前を書いた。
「…これ、私の血?」
「良くお分かりで。では確かに契約完了ということで。現金のご用意ができ次第、心の中で私をお呼び下さい。一瞬で伺います。現金を頂けたら、その場で才能をお渡しします。そちらも数秒で済みます」
「…分かった。明日も仕事は休みだから、午後にはお金を用意できると思う」
「では、また明日」
と、男の声を聞いたと思ったら、私は自分の部屋に戻っていた。今の出来事が信じられない気がしたが、私の手には確かに名刺と契約書があった。
***
 銀行は午前中の方が空いてると思ったので、窓口が開くすぐの時間に行き、現金を引出した。袋を覗いて、ちゃんと帯封があるのを確かめた。早く帰宅してメフィストを呼ぼう。
「…それには及びません、こちらで済ませましょう。それを持って街中を歩くのもご不安でしょう?」
 息が止まるかと思った。眼の前にメフィストが居て、私を銀行店舗の隅に誘った。袋を彼に渡した。
「確かに、頂きました。では、あなたのお望みの才能を差し上げましょう。少し頭をこちらへ向けて下さい」
 言われるままにお辞儀をするように頭を傾けた。彼が私の頭に手をかざすと、すぐに何か温かいものが頭の中に流れ込んできた。
「…これで終わりです。では、また、後金をお支払いできるようになったらお呼び下さい」
 顔を上げると、既に彼はいなかった。
***
 その後私は新作を書き始めた。今まで私は物語を作る為に、主人公キャラの設定を考え、彼に関わる登場人物のキャラが際立つように腐心し、彼らが活躍できる世界を考え、物語が魅力的になるようなストーリーを考えた後にプロットを書き、それから漸く物語を書いていた。時々キャラが何を考えているのか分からなくなり、何日も書けなくなることなんか当たり前だった。キャラがどうしたらこちらの期待通りに動いてくれるのか悩みながら、エピソードは毎回苦しんで捻り出すのが常だった。
 でも、今は以前と違って物語世界がありありと浮かんだ。実際に私自身そこにいて眼の前で見ているかのようだった。登場人物はそこにいるキャラを若干デフォルメするだけでとても魅力的で際立ったキャラを書くことができた。見ごたえのある事件は勝手に発生した。私がぼんやりと「なると良いな」と思った方向に自然な形で物語は進んでゆき、時々キャラは放っておいても勝手に動いて、私が想像もしていなかったようなエピソードも発生した。事件の経緯やキャラの成長や過去を知りたいと想った時は、それらに注目して時間を過去・未来に少し動かして見るだけで全てを知ることができた。私はそれらを分かり易い順序に並び替え、なるべく分かり易い文章で説明するだけで良かった。才能とは恐ろしいものだと心底思った。
 1年弱かけて書き上がった長編でコンテストに応募し、今は結果を待っている。今度こそ、うまくいくに違いないと信じて。
 …少しだけ。ほんの少しだけ、この才能を元々持っていた人はどうして手放してしまったのだろう? と、いう疑問が湧いた。まぁ、先方も悪魔と取引したのだから、何か事情があったのかも知れない、と考えることにした。私だったら絶対に手放さなかった、とは思うけれど。

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