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39話 崩れゆく物語






「大丈夫?」


ウタが心配そうに声をかけると、ルネは胸に顔を埋めていた状態からそっと顔を上げた。その瞳には、わずかな混乱と、ほんの少し安堵の色が浮かんでいた。


「うん、平気…何があったの?」


辺りはまるで生き物が呼吸するかのように黒い霧が舞い上がり、視界はほとんど利かない。二人は慎重に立ち上がり、立ち尽くす。遠くの方に赤く燃え上がる光が見えた。それを見つめたウタは、小さなつぶやきのように呟く。


「あれは何だろう?」


ルネは一瞬迷った後、静かに言葉を放つ。


「ちょっと見やすくしようか。」


その言葉と共に、彼女は足元をしっかりと踏みしめ、両腕に集めた白い光を空に放った。

両手を前に出し、まるで扉を開くように左右に広げる。すると、煙のような土煙が静かに割れ、視界が広がっていく。そこには、神殿の跡地に大きな穴が開き、周囲を深い沈黙が包んでいた。そして、その中心には赤い光を放つ存在が竜の翼を羽ばたかせその場に浮かんでいた。


「テオ…なの?」


ルネが驚愕の声を漏らす。その声には、戸惑いと確信が入り混じっていた。

浮かんでいるのは、かつての仲間の姿。しかしその瞳は、まるで深淵を覗き込むような鮮血のように赤く、どこか虚ろで感情が抜け落ちている。胸部には見たこともない厚い灰色の鎧が装着され、左手には異様に光り輝く槍を握りしめていた。

その時、大穴の中心部から低く響く男の声が耳に届いた。


「もう少し手加減しろ。アビスブックが傷ついたらどうする。」


その声に従い、ウタは下を見た。そこには、黒い髪に青白い肌をした細身の男が立っており、脇には大事そうにアビスブックを抱えている。その男が気づいて、ゆっくりとこちらに目を向けた。


「ほう、まだ生きているとは。悪運の強い奴らだ。」


ウタはその言葉を冷徹に受け止め、身を乗り出して答える。


「あなたは魔族なの?」


男は自嘲的に笑いながら、答えた。


「如何にも。貴様がアビスゲートを通ってこの世界に来た人造人間だな? 確か名前はウタだったか?」


その言葉に、ルネは驚きの声を上げそうになったが、ウタは冷静を保ったまま、言葉をまくし立てた。


「私は共感型人口汎用知能搭載アンドロイドで、英語ではエンパシック・アーティフィシャル・ジェネラル・インテリジェンス、通称『EAGIA』です。一般的にはイージアと呼ばれます。補足しますが、『人造人間』という表現も間違いではありませんが、それはあまりにも広義的すぎて、適切ではないと考えます。例えば、バナナを食べるときに『食べ物を食べよう』とは言いませんよね?」


感情のこもらない言葉に、場の空気が一瞬凍りついた。だがその一言で、グラヴァスと名乗った男も思わず沈黙した。ルネは、その言葉に込められたウタのわずかな怒りに気づき、少しだけその肩を感じ取った。

しばらくの静寂の後、男が大袈裟な様子で両手を広げ、口を開いた。


「では、私のことはグラヴァスと呼ぶがいい。本心を言えばウタ、貴様が来た世界について興味があるのだが…お茶でもどうだ?」


ウタが反応する前に、ルネが一歩前に出て、割って入る。


「アビスブックを返して。話はそれからよ。」


ウタはそれを聞いて、静かに頷いた。グラヴァスは不敵に笑いながら、言った。


「では交渉決裂だな。貴様らは分かりやすくて嫌いじゃない。」

「それはどうも。」


その言葉に、ルネはすぐに短剣を抜き、戦闘の準備を整える。


「アビスブックは転送陣に乗せられん。キメラ、城に持ち帰れ。」


グラヴァスは、降りてきたテオにアビスブックを渡し、命じた。


「奴らのことは無視していい。最速で戻れ。」


その言葉が終わると、グラヴァスの足元が青白く光り始め、男はそのまま消え失せた。ルネは、まだ空を見上げているテオに向かって声を上げる。


「テオ! 本を返して!」


だが、テオは何も答えることなく、翼を広げて空へと飛び立った。


「ウタ!追える?」

「任せて。こっちに来て、後ろ向きになって。」


ウタは冷静に指示を出すと、ルネは背中をピッタリと寄せ、彼女の背中から出した幅の広い革紐で自分たちをしっかりと固定した。


「いくよ。」
「うん。」


ウタの機械仕掛けの翼が再び強く発光し、二人は空へと飛び立った。目指すは、赤い光を放つテオの姿。追跡の時間が始まった。









先を行くテオに高度を合わせ、空を翔けるウタとルネ。彼女たちは、風を切り裂くように追跡しながらも、次第に静けさが広がる空間に身を委ねていた。ふと、ウタがその沈黙を破るように言葉を発した。


「何処まで行くつもりだろう?」
「城って言ってたわね。魔族の国に城があるのかも。」


ルネの意識は空の遥か向こうに広がる未知の領域に向かっているようだった。

その時、不意にルネはウタに抱きしめられる。


「北に行くならルネは途中で降りる?きっとかなり寒いよ。」


共和国の首都アルデンフィードで、ルネが何度も「寒い寒い」と言っていたことを思い出したウタは、心配そうな表情を浮かべた。


「私は大丈夫。本当はオーラを使えば寒さは平気なの。」


ルネは淡々と答えるが、その言葉の裏に潜む強さがウタを驚かせる。


「ずっと使わずに我慢してたの?エラい。」


ウタは心の中で感心しながら、ルネの頭を撫でる。その仕草に、ルネは少し照れくさそうに反応した。


「ちょっと!今はそういう事してる場合じゃないでしょ。」


ルネは顔を赤らめ、少し慌てた様子で言い返す。


「ごめん、つい。」


ウタは困ったように笑い、照れくさそうに笑うルネを見つめた。相変わらず表情を欠いたまま飛び続けるテオだったが、この瞬間だけは彼女の無表情がふさわしかったのかもしれない。


テオはひたすらに北を目指し、帝国と共和国の境界を越え、リュッカ村を過ぎ、ストーンヘイルの山々を超え、ついにはアルデンフォードの美しい街並みを眼下に捉える。

ウタは目を凝らすと、星狼の塔の最上階に、ルナ陛下とシャイラが並んで立っている姿が見えた。ウタが呟くように話す。


「ルナ陛下とシャイラが塔にいる。」
「…ちゃんとテオを連れ帰ってあげないとね。」


ルネは頷きながら、決意を胸に抱き締める。

山々を越えて、星狼の塔は次第に山々に隠れ、視界から消えていく。眼下に広がるのは、無限の銀世界。空気が澄み切り、冷気が体を包み込んでいた。


「かなり冷えてきたわね。ウタは平気なの?」


ルネは心配そうに言うが、ウタは平然と答える。


「私は水星でも活動できるから大丈夫。」


その言葉には一切の不安が見えなかった。


「…水星ってどこよ。」


ルネは驚きとともにその言葉を返す。


「仮に直線で目指したとして、私の航行速度なら約100日以上かかる距離にある場所。」


ウタはあっさりと答え、ルネは太陽も月も見えない薄暗い空を見上げた。


「……世界は広いわね。」


ルネはその言葉に肩をすくめながらも、心の中で感じる広大さに圧倒されていた。

陽の光が届かなくなり、周囲が暗い世界に変わってくると、遠くの空に黒く歪んだ城が見え始める。その城は他のどんな建物とも異なり、異様な存在感を放っていた。


「城ってアレかな?お姫様が住んでいるようには見えないわね。」


それを聞いてウタは冷静に素朴な疑問を口にする。


「グラヴァスのお姫様がテオなのかな?」


ウタが冗談めかして言うと、ルネは少しだけその言葉に考え込み、顔を左右に振った。

テオが城の中腹にある足場に降り立ち、堂々と中へと入っていく。その後を追うようにウタとルネも降り立ち、革紐を解く音が静かな空気の中に響く。

ルネは軽くウタを促すように言った。


「急ぎましょう。」


ウタは少しだけ目を鋭くした。


「待って。あまり言いたくないけど、最悪の場合はテオの霊核を撃ち抜くよ。」


不測の事態に備えようとするウタの言葉にルネは思わず目を見開くが、すぐに冷静に答える。


「……分かった。その時は一緒にやるよ。」


ウタは静かに頷き、ルネと共に城へと足を踏み入れた。










「中は暖かいんだね。」


ウタは、興奮して先を急ぐルネを落ち着かせるように、ゆっくりとした口調で言葉を発した。
その声には冷静さがあり、場の異様さを際立たせていた。目の前の空間は奇妙なまでに整然としている。黒く、不気味な壁は、石とも粘土とも金属ともつかない材質でできており、触れれば冷たいはずなのに、どこか生々しい温もりを放っていた。

壁の至るところに埋め込まれた光る石が、驚くべきほど規則正しいリズムで光を放ち、電力を使っているように見える。だが、ここは城の内部──どんな仕組みなのか想像もつかない。

ルネは肩をすくめ、少し諦めたように問いかけた。


「…テオの行き先分かる?」


ウタは一瞬目を閉じると、何か確信したように答える。


「うん、この城の一番高い所だね。ついて来て。」


そして、ウタは突然駆け出した。

やがて見つけた上階へと続く階段。その前には目も耳もない青白い存在たちが、蠢きながら階段を塞いでいる。生理的に嫌悪感を呼び起こすその光景に、ルネは嫌悪感を隠せなかった。


「うわ、こういうの生理的に受け付けないわ。」


ウタは、少しだけ肩越しに振り返りながら淡々と答える。


「ちょっと待ってね。こういう生物は恐らく──」


彼女が背負っていたコンパウンドボウを素早く構え、鉄球を次々と放ち始めた。その手際の良さには一片の迷いもない。蠢く者たちの最前列、中央、最後尾のそれぞれ二体ずつが、音もなく頭部を破壊されていく。

その光景にルネは言葉を漏らす。


「あんた、容赦ないわね…」


ウタは静かにコンパウンドボウをしまいながら顎をしゃくった。


「ほら、見て。」


倒れた者たちに、周囲の蠢く者たちが群がり始めた。鈍い音を立てながら、彼らは倒れた仲間を貪り食い始める。血と肉が混じり合うその光景は、非現実的でありながらも、生々しい恐怖を伴っていた。


「さ、捕まって?」


ウタの言葉にルネは一瞬戸惑うが、彼女の腰にしっかりと抱きついた。次の瞬間、ウタの背中から光を放つ機械仕掛けの翼が広がり、蠢く者たちの群れの上を悠然と飛び越えていく。その移動は短いもので、二人はやがて重厚な扉の前に降り立った。

ウタは一切の迷いなく扉を押し開け、中へと進む。彼女の背中を追いかけるように、ルネも続いた。



玉座の間──

そこは異様な静寂に包まれていた。だが、すぐに二人の視線は床に膝をつき、グラヴァスの前に跪く一人の女性── テオへと向けられる。


テオの右胸から抜き取られる霊核。その手際には慈悲の欠片もなく、抵抗する力すら奪われた彼女の体は、ただ無力に倒れてしまった。ルネは思わず彼女の名を叫んだ。


「テオ!」


床一面に広がる血の湖。グラヴァスの冷酷な眼差しと共に、玉座の間に満ちるのは圧倒的な絶望感だった。



おびただしい量の血が床に広がり、二人の前で物語が音を立てて崩れ始めた。



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