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四日目⑨ 狂い始めた歯車

 観覧車にコーヒーカップ、久しぶりにゴーカートにも乗った。

 やっぱりどこもかしこも人混みで疲れたけれど、それでも彼にとっては、とても幸せな時間だったのだ。

 喧しいタロや樹がいなかったからじゃない。

 妃奈子が傍にいてくれたからだ。

(何だかんだ言って、今日はとっても楽しかったな)

 今日は渋々ここに連れて来られたわけだが、結果的には来て良かったと思う。

 土田の事もあったから楽しめるわけがないと思ったし、タロが大暴れして大変だったりもしたけれど。

 でも、それでも妃奈子とこうして遊びに来る事が出来て、今日はとても楽しかった。

「もうすぐ閉園の時間だね。楽しい時間って、本当にあっと言う間に過ぎちゃうな」

 青い空はいつの間にかいなくなり、代わりに茜色の空が顔を出している。

 あんなに沢山いた客達も疎らになり、園内には『蛍の光』が流れていた。

 そう、もうすぐドリームランドの閉園時間である。

「本当だよね。授業もこのくらい早く終われば良いのに」
「ふふっ、太郎君らしい考え方だね」

 一日中命一杯遊んで、妃奈子が傍で笑ってくれて、今日は本当に楽しかった。
 良い思い出も沢山出来たし、体も良い感じに疲れている。

 ああ、今日はぐっすりと眠れそうだな、なんて思いながら、太郎は妃奈子と一緒に出口を目指していた。

「フリーパス取ってくれたお姉ちゃんには感謝だね。また一緒に来たいなあ」
「うん、またみんなで来ようよ」

 彼女が隣で笑ってくれている事でこんなにも満たされ、とても幸せな気持ちになれるなんて。

(やっぱり妃奈子ちゃんには、ずっと側で笑っていて欲しい)

 ずっとこのまま、何も変わる事なく、友達として、幼馴染として、ずっと、ずっと、一緒にいたい。

「みんなで、か……」
「うん?」

 しかしそう思う太郎に対して、妃奈子が一瞬だけ寂しそうな笑みを見せた時だった。

 その幸せな時間に、突然終止符が打たれたのは。

「あれ? 太郎? それに妃奈子も一緒か?」
「え?」

 背後から、聞き覚えのある声が聞こえて来る。

 そしてその瞬間、太郎の心臓がズクンと嫌な感じに波を打った。

 それは、今最も聞きたくなかった声。
 そして、最も恐れていた偶然。

 だから太郎は振り返らずとも、そこにいるのが誰なのかが、すぐに分かってしまったのだ。

 自分達の後ろに立っている人物。

 それはおそらく……。

「あれっ? 土田君?」
「よう、二人とも! こんなところで会うなんて、奇遇だな!」

 隣で響く妃奈子のキョトンとした声が、背後の人物を確定させる。

 ゆっくりと振り返れば、そこに立っていたのは予想通りの土田。

 妃奈子の恋人……。

「えー、何、お前らもドリームランドに来ていたのかよ? オレら一日中ここで遊び回っていたんだけどさ、今の今まで全然会わなかったな」
「そうなの? 私達も一日中いたんだけど……うわ、全然気付かなかった……」

 何故……どうして、こんなところで、よりにもよって土田に会ってしまったのだろうか。

「まあ、凄い混んでいたしな」
「そうだね。もし擦れ違っていたとしても、これじゃあ気付かないか」

 何も、こんな最後の最後で会わなくたって良いのに。
 妃奈子と一緒にいて、小さな幸せに浸っている時に、出て来なくたって良いのに!

「朝はそこまででもなかったけど、昼くらいかな? 混んで来たの」
「何、お前ら朝イチで来ていたの? 一日中っつっても、オレらは昼前くらいだったかな? でも、その頃にはもう入場ゲートは渋滞していたぞ」

 土田は、太郎と妃奈子が幼馴染である事は知っている。
 しかしそれでも、自分の恋人が他の男と出歩いている姿を見るのは、当然良い気はしないハズだ。
 だってもしも太郎が土田の立場だとしたら、それはきっと、とても嫌な気持ちになるのだろうから。

「入場ゲート通って、中に入っただけで疲れちまったよ」
「オープンしたてで混んでいるとは思っていたけど……でも、ここまで混んでいるとは思わなかったよね」

 土田は今、妃奈子と楽しそうに話をしている。
 しかしそれは外見だけで、内心では物凄く怒っているかもしれない。

 幼馴染とは言え、他の男と遊園地に来るなんて許せない、と。

「ところで土田君は誰と来たの? 誰も一緒にいるようには見えないけど?」
「ああ、五十嵐と来たんだけどさ、さっき逸れちまって……。探してみたけど見付からないし、スマホも繋がらないし、もうすぐ閉店時間だしで、とりあえず入場ゲート出たところで待ってみようかと思ってこっち来たんだよ」

 もしかしたらこの事が原因で、二人は別れてしまうかもしれない。

 そうなれば、妃奈子はとても悲しむだろう。
 しばらくは立ち直れないかもしれない。

 そんなのは、嫌だ。

「つーか、お前らこそ二人でお出掛けなんて、もしかしてデートかよ? 二人で仲良さげに遊園地歩いちゃってさ! ンだよ、羨ましい! おい、こら、太郎! お前も黙ってねぇで何とか言えって!「僕にも遂に彼女が出来ましたー!」とかさ!」
「――ッ!」

 ズクンと。
 太郎の心臓が再び嫌な感じに波を打つ。

 やはり土田は勘違いをしている。
 妃奈子が自分と浮気をしているのではないか、と。

 ここで曖昧な返事や、照れた素振りを見せてしまえば、土田は更に誤解をしてしまうだろう。
 それは駄目だ。ここははっきりと否定をしなければ。
 曖昧な事を言って、土田に誤解を生ませれば、後で被害に遭うのは妃奈子だ。

 そんなのは駄目だ。
 彼女を悲しませるわけにはいかない。
 彼女の涙は見たくない。

(そうだよ。僕がはっきり言ってあげなくちゃ! 妃奈子ちゃんのために!)

 確かに妃奈子が他の男の下へ行ってしまうのは嫌だし、このままずっと自分の隣で笑っていて欲しいとは思う。

 けれどもそれ以上に、彼女を悲しませるのは嫌だ。

 ああ、そうだ。自分は最初から、彼女の恋を応援してやるべきだったのだ。

 それが彼女にとっての幸せなのだから。
 それが彼女の笑顔を守る事に繋がるのだがら。

 全部、妃奈子のためなのだから。

「デ、デートじゃないよ、もう! 太郎君だって困っているじゃない! 変な事言わないでよ!」
「あははっ、良いじゃねぇか、そう言う事にしておけば! なあ、太郎! 朝から可愛い彼女引き連れて、デートしていたんだろ? やるじゃねぇか、太郎のクセに!」

 真っ赤な顔で妃奈子が首を横に振り、土田がニヤニヤと笑いながら、太郎に問い掛けたその瞬間だった。

「違うよッ!!」
「!?」

 自分でもビックリするくらいの大声で、太郎がそれを全否定したのは。

「妃奈子ちゃんが彼女だなんて、変な事言わないでよ! 妃奈子ちゃんは、僕にとってはただの幼馴染なんだから! 今日だって、二人で来たわけじゃないよ。樹姉ちゃんに、無理矢理引きずられて来たんだよ!」

 こう言えば、土田は納得してくれるだろう。
 自分達の仲を誤解しないでくれるだろう。
 だからこれで良いんだ。
 樹に無理矢理連れて来られた事にすれば良い。
 来たくなかったのに、仕方なく来なきゃいけなかった事にすれば良い。
 それが、妃奈子のためなのだから。

 そう考えた太郎は、驚いたように目を見開いて固まる土田に、更に状況を説明してやった。

「姉ちゃんさ、親戚の子を預かったからって、僕達を巻き込んでここに連れて来たんだよ。そのクセに途中で親戚の子と一緒にいなくなっちゃってさ。でもフリーパスって今日一日しか使えないでしょ? だからもったいないから、仕方なく妃奈子ちゃんと一緒に遊んでいたんだ。それだけの事なんだよ!」

 はっきりと、太郎はそう断言した。

 妃奈子が悲しまないように。
 土田が誤解しないように。

「ちょ、お、おい、太郎っ!?」

 しかしどうしたと言うのだろう。
 ホッとした安堵の笑みを浮かべるかと思いきや、土田はその顔色を、みるみるうちに真っ青に染めると、焦ったように口を開いた。

「な、何もそこまで言う事はないんじゃ……っ」
「どうして?」

 何故、土田はこんなにも焦っているのだろうか。

 不思議に思い首を傾げた太郎であったが、それでも彼ははっきりと断言した。

「だって僕達は、ただの幼馴染だもん。付き合うとかありえないでしょ? ねぇ、妃奈子ちゃん。妃奈子ちゃんだって、こんな事言われたら迷惑だよねっ!?」

 きっと彼女は、笑顔で頷いてくれるだろう。
 そして後で「気を遣ってくれてありがとう」と、安心した笑みを見せてくれるのだろう。

 そう、思っていた。

 そう思って、同意を求めた。

 なのに、

「え……?」

 彼女の方を見て、太郎はギョッとした。

「妃奈子ちゃん……?」

 そこに、彼女の微笑みなんかなかった。

 代わりにあったのは、今まで見た事もないくらいの、彼女の悲しそうな表情。

「ど、どうしたの……?」

 一体どうしたと言うのだろうか。
 薄っすらとではあるが、彼女の瞳には涙までもが浮かんでいたのだ。

 唇をグッと噛み締める事によってその涙を堪えている彼女は、酷く傷付けられた心を押さえるようにして、震える拳を胸の前でギュッと握っていた。

「妃奈子ちゃん?」
「……い、よ」

 彼女のその反応を訝しんだ太郎が、もう一度彼女の名を呼んだ時、聞き取れないくらいのか細い声で、彼女がその震える唇を開いた。

「ひどいよ、太郎君。いくら何でも、そこまで否定する事ないじゃない」
「え……?」

 思いもしなかったその一言。

 それに太郎は、驚いたようにして目を見開いた。

「太郎君にとっては迷惑だったかもしれないけど……でも、そこまで言うなんて、ひどいよ……」
「妃奈子ちゃん?」
「ごめんね、私、帰るね!」
「えっ!?」
「あ、おい、妃奈子!」

 どうして彼女は悲しんでいるのだろう?
 何故、あんなにも傷付いたような表情をしていたのだろう?
 そして、何で泣いてしまったのだろうか……?

 走り去る妃奈子をただ呆然と見送る事しか出来ない太郎の隣で、土田は焦ったような、怒りの声を上げた。

「バ……ッ、バカ太郎ッ! お前、一体何考えてんだッ!」
「え!? え、な、何って……?」
「あークソッ! どいつもこいつも! お前に追い掛けろって言ったところで、駄目っぽいし……。いいか、取り敢えず今日はオレが妃奈子を追い掛けるから、お前は明日か月曜日にでもちゃんと謝るんだぞ! あ、あと、五十嵐に会ったら、先に帰るように言っといて! じゃっ!」

 忙しなくそう告げると、土田は未だに呆然としている太郎をその場に残し、全速力で妃奈子の後を追い掛けて行ってしまった。

「な、何で……?」

 全て、妃奈子のためにしてあげたのに。

 彼女が悲しまないように、彼女の幸せを考えて言ってあげたのに。

 それなのに……。

「どうして? だって僕は……」

 何で、どうして。
 それしか言葉が出て来ない。
 だって彼には自分の何が悪かったのかが、分からないのだから。
 どうして彼女を傷付けてしまったのかを、知らないのだから。

「僕はただ、妃奈子ちゃんのためにしてあげただけなのに……」

 茜色に染まる夕焼け空。

 いつの間にか、そこには黒い雨雲が漂い始めていた。

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