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第伍章「伊能の本懐」ノ玖

「あぁ、あぁ、なるほど、なるほど。何をそんなに怯えているのかと思えば」

 地球において、異質。
 異世界において、なお異質。
 世紀の怪物・伊能三郎右衛門忠敬は、朗らかに微笑んだ。
 そして、言った。




「何のことはない。もとよりワシは、全て記憶しておる」




 首領の表情が恐怖に歪んだ。

(人をバケモノみたいに)伊能は多少、傷付く。(六六六もの異能を持つお主のほうが、よほどバケモノじゃろうに)

 伊能は気付いていない。生まれてこの方こんなふうだったので、伊能は、自身の脳がいかに異常か知らずに過ごし、知らないまま、その生涯を閉じたのだ。
 思い返せば一ヶ月前。異世界に転移し、初めて【測量】し、その結果をウィンドウに表示させたその時から。
 伊能がウィンドウや羊皮紙に描画してきた情報はすべて、伊能自身の頭脳を単に具現化したものだった。

 異能【測量】が補助記憶装置のようなものを用意してくれたりだとか、

 伊能が普段意識していない脳の潜在能力部分に記憶した情報を引っ張り出してきたりだとか、

 そういう便利機能などは、【測量】にも【暦】にも【バタフライ・エフェクト】にも存在しない。

 伊能は単純に、

 そう、ただ単純に、

 生来のバケモノじみた学習能力と記憶力の賜物として、【測量】したありとあらゆる物事を記憶していたに過ぎない。

 ただ単純に、

 この森に存在するありとあらゆる生物・無生物の過去と現在と未来に関する何兆何億何千万の情報と、

 伊能が何か行動した場合に発生し得る何那由他(なゆた)阿僧祇(あそうぎ)恒河沙(ごうがしゃ)通りの未来を記憶しているに過ぎない。

 寺子屋の子らが九九をそらんじるのと同じような気安さで、記憶しているに過ぎない。




 そう。
『記憶』と『改暦』は、
 首領が異能封じを使うその前に、
 とうに終わっていたのである。




 五十歳を過ぎて弟子入りし、天文学の雄となり、日本一の測量士となった者の脳ミソは伊達ではない。伊能は生まれながらにして異能力者だった。【測量】だの【暦】だのというのは、女神が、
『伊能ならば時間を費やせばいずれは実現できることを、時間短縮できるようにした』
 というちょっとしたサービス機能に過ぎない。伊能の【記憶力】【学習力】【学習意欲】こそが、異能力者だらけの異世界においてすら通用する、バケモノじみた異能力だったのだ。

「そ、そんな……」首領がその場に座り込んだ。「バケモノ」


   ◆   ◇   ◆   ◇


【Side 暗殺ギルドの首領】

「そ、そんな……バケモノ」

 恐怖。
 恐怖だ。
 幼いころから、他者の異能を喰らいながら生きてきた。農奴の中でも最も卑しい身分として生まれ、何度も死にそうな目に遭い、死んだほうがマシな目にも遭ってきた。
 そんな彼女の人生を救ってくれたのが、異能喰らいの異能【スキル・イーター】だったのだ。
【スキル・イーター】があったからこそ、彼女は生き延びることができた。闇の世界を渡り歩き、暗殺ギルドの母体とも言える『教団』に入団し、異能を喰らいながら成り上がり、暗殺ギルドを設立するに至った彼女にとって、異能こそが人生のすべてだった。そんなふうにして、百数十年にも及ぶ人生を生きてきたのだ。
 そう、異能だ。異能こそが強さの根源。この世のすべてだ。だというのに。

(コイツは異能も無しに、『無数』――そう、比喩表現でもなんでもなく、文字どおり無数の情報を記憶している。こんな、ちっぽけな、折れそうなほど細い娘が――ヨボヨボの老人が、異能も無しにこの私を圧倒している!)

 首領が百年以上を掛けて築き上げてきた世界観に、ヒビが入る。朗らかな笑みを浮かべながら、自分の人生を全否定してくるこの幼き老人に、首領は明確に恐怖した。
【無痛】無しに痛みを無視できる我慢強さが怖い。
 か細い体で単身、六六六個の異能を持つ圧倒的強者に立ち向かってくる精神力が怖い。
 何億個か何兆個か、想像もつかないほどの大量の情報を脳内で処理し、最適解を選択し続ける頭脳が怖い。
 一度『怖い』と感じてしまったらもう、どうしようもなかった。

【精神安定】でも、
【無心】でも、
【精神統一】でも、
【不屈の精神】でも、
【悟り】でも、
【明鏡止水】でも、
【涅槃寂静】でも。

 どの精神系異能を使ってみても、恐怖は一向に収まる気配を見せなかった。

「あぁ……あぁぁ……」

 気が付けば、空を覆っていた【グランドシジル・オブ・デビル】が消失していた。
 戦意を喪失し、心という心を折られ尽くした首領は、ありとあらゆる異能が使えなくなってしまったのだ。
 その時、遠くから『パァンッ』と空気を切り裂く音が聴こえた。
 次の瞬間、首領の視界が跳ね跳んだ。

 くるくる
   くるくる
     くるくる

 回転する視界の中、
 全身を輝かせ、剣を振り抜いた姿勢の将軍バルムンクと、
 こちらを寂しそうに見つめる伊能忠敬の姿が、
 見えた。
 それが、孤独な百数十年を生きた彼女が視た、人生最期の光景だった。
 首領は、目を閉じた。

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