8曲目『どうすれば良いのか、何を信じれば良いのか、分からない』
「え、は? 何で? どうしてアオ先輩が」ぐるぐる。ぐるぐる。思考が空回りをする。
アオ先輩が、ステージ上のドラム椅子に座った。アオ先輩が夏野や駿河くんにアイコンタクトを送り、スティックを振り上げる。違うだろ、アンタは『キング・ホワイト・ストーンズ』のバンマス兼ボーカルだろ。何で、どうして、夏野のバンドなんかでドラムを叩いてるんだ⁉
イントロが始まった。……上手い。とてつもなく上手い。グルーヴを感じさせる、見事なドラム。『キミには負けるよ』などと言って、今まで俺の前で叩いてくれたことはなかったが、アオ先輩ってこんなにドラムが上手かったんだ。
ギターが入り、夏野の歌が始まった。アイツは、性格はあんなだが、歌とギターだけは腹が立つほど上手い。曲は、最近大ヒットした映画のテーマソング。場はあっという間に温まり、客が体を揺すり始めた。全身で音楽を楽しんでいる。熱狂している証拠だ。けれど、俺は熱くなれない。むしろ、心がどんどん冷え込んでいく。
どういうことなんだろう。どういう状況なんだ、これは? 夏野のバンドのドラムが海野アオだった。俺は、初ライブの前日に追放された。ということは、次のドラマーのアテがあったということだ。それも、昨日の今日でバンドに合わせられるほどの、極めて優秀なドラマーが。海野アオのように、有能なドラマーが。
つまり、海野アオこそが、俺が追放されることになった元凶!
どういうことだろう。海野アオは、俺の敵なのか? アイツは今まで俺のことを猫可愛がりしながら、裏では馬鹿にして、あざ笑っていたのか? 舞台の上の海野アオは、いつもどおりのポーカーフェイスだ。俺はさっきから海野アオを睨みつけているが、目が合うことはない。
海野アオ――そう、俺はいつの間にか、心のなかでアイツのことを先輩とは呼ばなくなっている。
海野アオが元凶だった。どちらから話を持ちかけたのだろう? 夏野が海野アオに声を掛けたのか、海野アオが夏野に話を持ちかけたのか。それによって、海野アオが持つ悪意の度合い、俺が海野アオに抱くべき敵意の度合いは大きく変わる。が、いずれにしても、海野アオが裏では夏野のバンドでドラムを叩きつつ、素知らぬ顔で俺に笑顔を振りまいていたのは事実だ。俺を最低最悪のやり方で欺き続けてきたことは事実だ。四ヶ月にも渡って、俺はアイツに騙され続けてきたんだ。
演奏が終わる。夏野のナルシスティックでつまらないMCの後、二曲目が始まった。ぐるぐる。ぐるぐる。俺の思考が空回りをする。あまりの怒りで、腹の中がぐつぐつと煮えくり返る。
ふと、隣のくれなゐ先輩が、俺の手の甲に触れてきた。それでようやく俺は、自分が震えるほどに強く拳を握りしめていることに気付いた。隣を見ると、くれなゐ先輩が悲しそうな顔で俺を見上げていた。
もう片方の腕を引かれた。見れば、シロ先輩が俺の腕を掴んでいる。何だろう、俺がすぐにでも殴り込んでいきそうに見えたのだろうか。俺にそんな度胸はないというのに。
そんなことより、先輩たちはこのことを知っていたのだろうか。海野アオが俺を裏切っていたということを。だとしたら、コイツらも俺の敵ということになるが――。
「うおっ」急に、背中に重みを感じた。イナズマちゃん先輩が、俺の背中によじ登ってきたんだ。
「何も考えンな」耳元で、イナズマちゃん先輩の声。「今はただ、演奏に集中するンだ。分かったな?」
俺は頷く。こういうとき、イナズマちゃん先輩は頼りになる。そうだ、この曲が終わったらもう、俺たちの出番だ。■■大学軽音楽部に百あるバンドの内、九十個ものバンドの犠牲の上に、俺たちは出演する。海野アオのことはいったん頭から追い出して、今は演奏に集中すべきだ。オーディションに落ちて、叫び出したいくらい悔しいだろうに、黙って会場設営や各々の裏方仕事に従事してくださっている軽音楽部の部員たちのためにも、恥ずかしい演奏はできない。
「……ん?」ふと、気付いた。俺の体が振動している。ステージのメインスピーカーから放たれる爆音による振動だけではない。もっと大きな震えが、俺の体に伝わってくる。「あっ」
イナズマちゃん先輩だった。俺の背中にピッタリとくっついているイナズマちゃん先輩の体が、震えているんだ。可哀想なほどに。
すぐに、くれなゐ先輩とシロ先輩も震えていることにも気付いた。そうか、彼女たちも、このことを知らなかったんだ。知らなかったのに、彼女たち自身も泣き出したいくらい混乱しているだろうに、こうして俺を案じてくれて、俺を落ち着かせようとしてくれている。
そんな彼女たちの優しさのお陰で、俺は落ち着くことができた。と同時に、一瞬でも彼女たちを疑ってしまった自分を恥じた。
「次は、『キング・ホワイト・ストーンズ』の皆さんです!」MCに促され、俺たちはステージに上がる。「皆さんご存知ですか、YouTubeやニコニコ動画で大人気のボカロP『青子緑子』を。実はこのバンドのバンマス海野アオさんは――」
海野アオがドラム椅子から立ち上がり、ステージ前面に進んでいく。俺とすれ違ったとき、目は合わなかった。
俺はドラム椅子に座る。椅子の高さは、スネアの高さと角度は、タムタムの角度は、シンバルの高さと角度は、キックペダルのバネの強さは、すべて俺の好みと完全に合致していた。海野アオが直したのだろうか。そんなことが、そんなことすらもが、腹立たしい。俺はカウント代わりのハイハットを四回叩く。曲が始まる。『もやしマシマシロックンロール』。
何も感じなかった。夢にまで見た初ライブ。百人以上の観客。最高の演奏。この四ヶ月の集大成。なのに俺は、何も感じなかった。ただ淡々と、丁寧に叩いた。みな、笑顔だった。海野アオも、イナズマちゃん先輩も、シロ先輩も、くれなゐ先輩も、もちろん俺も。
笑顔は、義務だ。俺たちの、この時間のために、百人近くの軽音部員たちが犠牲になっている。オーデに落ちて、出演できず、なのにライブ設営のために奔走してくれた。そんな彼ら彼女らのために、俺たちはこのライブを成功させなければならない。
淡々と。笑みを顔に貼り付けたまま、俺は淡々と叩いた。
一曲目が終わった。拍手は大きかったように思う。海野アオが、何かを喋っていた。俺には何も聴こえなかった。二曲目が始まる。『青と緑のハザマで』。216bpm。何も難しいことはない。俺が入部試験のときに叩いた、海野アオと初めてセッションした曲。
それだけ。それだけ。ただ、それだけだ。
こうして、俺の人生初ライブは、最低最悪の形で幕を閉じた。
撤収作業の後は、打ち上げだ。とても参加できるような精神状態ではなかったが、出演者である以上、参加して、渉外と一緒に他部・サークルとの顔繋ぎに従事し、またライブ成功のために奔走してくださった部員たちにお礼を言って回らなければならない。
駅前の大手チェーンの大部屋で、二百人近くの若者たちがワイワイとやっている。
『キング・ホワイト・ストーンズ』のメンバーはバラけていた。海野アオはもちろん、イナズマちゃん先輩も、シロ先輩も、くれなゐ先輩も。皆よそよそしくて、別の輪に入ってしまった。分かってる。バンドメンバーで顔を突き合わせたら、さっきのことについて海野アオを問い詰めてしまいそうになるからだろう。打ち上げの場を険悪にするわけにはいかない。
挨拶回りの後、俺はドラムパートの輪に入って過ごした。
「今日の演奏、何だったんだよ」本山先輩――『キング・ホワイト・ストーンズ』に入りたくても入れなかった、例の先輩が俺に声を掛けてきた。「ずっとメトロノームで見てたけど、数bpmズレてた。そりゃ客には気付かれないレベルだが、1bpmのズレすらないお前の演奏に惚れたからこそ、俺は身を引いたのに」本山先輩の言葉からは、底知れない怒気が滲み出ていた。「次に適当な演奏したら、許さない」
「……すみません」
「まぁ、何かあったってのは分かってるよ」『キング・ホワイト・ストーンズ』の様子が変なことに、先輩も気付いている様子だった。先輩が肩を叩いてくれる。何だかんだと言っても、優しい人なんだ。「けど、そんなのは関係ない。ドラムパートの中にも、出演できなかった奴はいるんだからな」
「はい」俺は頭を下げる。「貴重なアドバイス、ありがとうございます。肝に銘じます」
翌日、午後。『キング・ホワイト・ストーンズ』の練習のために、俺は部室に訪れた。
「アオ、説明しなきゃなンねぇことがあるんじゃねぇのか⁉」
防音扉を開けるなり、イナズマちゃん先輩の怒号が耳に飛び込んできた。
「イナズマちゃん!」シロ先輩が、イナズマちゃん先輩を羽交い締めにしている。
「……そうだね」対する海野アオは無表情だ。「けど、せっかくこうして部室を取っているんだ。練習しなきゃもったいないだろう? それに、他部員の目もある」
……確かに。部室の外には、前のバンドや自主練に来ている部員などがいた。昨日のことが早くも噂になっているのか、彼らは俺のことをチラチラと見ていた。防音扉とはいっても、多少の音は外に漏れる。だから、いつまで経っても音楽が始まらなかったら、『中で揉めてるのかも』と勘ぐられる恐れがある。海野アオの言っていることは、正論だ。
「けっ。どの口が」吐き捨てるようにそう言ったものの、イナズマちゃん先輩は大人しくベースのセッティングを始める。
「では、まずは『もやしマシマシロックンロール』から。モヤシちゃん、カウントお願い」
海野アオの、俺に対する呼び方が元に戻っていた。まぁいい。むしろ、『やっちゃん』なんて親しく呼ばれたら嫌悪感を覚えるところだから。
「はい」カウント代わりのハイハットを四回。演奏が始まる。
俺は、272bpmの曲を難なく叩けてしまった。『スーパーモヤシモード』とかいうおかしなモードには入っていない。ただの、素の状態の俺が、まだまだ速度を上げられるほどの余裕さで、楽々と叩けてしまった。何のことはない。単に、俺は成長していたんだ。四ヶ月、毎日のように『もやしマシマシロックンロール』を叩き続けてきたことで、272bpmを余裕で叩きこなせるほどに、俺の貧乏ゆすりとビートの速度が高まっていたんだ。『海野アオと気持ちが通じ合ったから』とか、『未知の力に目覚めたから』とか、そういうラノベやマンガに出てきそうな理由ではなかった。ただ単に、四ヶ月に渡る俺の努力が実を結んだ結果に過ぎなかったんだ。薄ら寒い充足感が、俺の胸を満たす。
俺、何のためにバンドやってるんだろう……272bpmの16ビートを苦もなく叩きながら、俺はぼーっと考えていた。
最初は、モテたいからだった。小学生の頃からドラムにだけは自信があって、身長でも勉強でもスポーツでも同級生たちに追い抜かれていった中学高校時代の中でも、ドラムだけは誰にも負けずにいたから、『ドラムだけが、僕に残された最後の砦なんだ』と思っていた。『だから、ドラムを活かして大学生デビューしてやるんだ』って。
それが、夏野のバンドから追放されて。追放されたその日に、アオ先輩に拾われて。その日から、俺がバンドをやる理由が変わった。
最初は義務感だった。アオ先輩に拾ってもらったあの日、俺はアオ先輩に誓った。
『ようこそ、ボクたちのバンド――キング・ホワイト・ストーンズへ! 今日からキミが、ウチのドラマーだ。最高の演奏を頼むよ?』
『はい! アオ先輩のご期待に添えるよう、全力を尽くすと誓います!』
その言葉のとおり、俺は全力で練習に取り組んだ。その結果が、今の俺だろう。
バンドに入ったことで、ある意味、『モテるため』という目的は満たされてしまった。右を見ても左を見ても美女・美少女揃いな『キング・ホワイト・ストーンズ』の中でチヤホヤされて、俺は毎日が楽しかった。俺の元カノを名乗るくれなゐ先輩もいたし、くれなゐ先輩は俺に好意的だったから、その気になればくれなゐ先輩と付き合えるかも、とも思っていた。
バンドに入って一週間も経つ頃には、俺の『バンドをやる理由』が変化しはじめていた。アオ先輩だ。クールでミステリアスで格好良くて可愛くて、だけど生活力皆無で抜けてるところもあって、そんなギャップがまた可愛い女の子。そんな彼女の顔を、すぐそばで見ていたかった。彼女の歌声を、特等席で聴いていたかった。それが、俺が『キング・ホワイト・ストーンズ』でドラムを叩く理由になっていた。
今なら分かる。最初は恩義だと思っていたけど、違ったんだ。俺は最初っから、アオ先輩のことが好きだった。アオ先輩の、あの凛々しくも可愛らしい姿に一目惚れして、あの魅力的過ぎる声に一『耳』惚れした。そう。単純に、アオ先輩のことが好きだったんだ。ずっと一緒にいたったんだ。
けれど、アオ先輩は――海野アオは、俺を最悪の形で裏切った。
裏切ったんだ。
「言ったとおりだっただろう?」練習後、部活棟の片隅――俺たちがよくたむろしている四階への踊り場で、海野アオが言った。「キミは絶対に、ボクのことを嫌いになる、って」
言った。海野アオには隠し事がある。その隠し事を知れば、俺は海野アオのことを嫌いになるだろう、と。海野アオは確か、その隠し事に『醜い』とか『醜悪な』みたいな形容詞を付けていたように記憶している。なるほどこれは、いかにも醜悪な隠し事だった。
「さて、これからの話だ」海野アオが一枚の紙切れを配った。「次なるボクらの目標は、十一月五日の学祭ライブ、その最高峰となる中庭ライブへの出演。そのためには、十月一日締め切りの学祭オーデに、最高の動画を提出しなければならない」
配られた紙切れは、WBSだった。四月のあの日、俺が『キング・ホワイト・ストーンズ』に加入したあの日の夜に、アオ先輩が見せてくれたスケジュール表の、更新版。
「オーデ用の新曲は、今書いている。来週中には完成させるから、各自編曲作業を――」
海野アオは、無表情に、淡々と話を進める。イナズマちゃん先輩が、ブルブルと体を震わせている。シロ先輩は真っ青だ。くれなゐ先輩は、うつむいている。
「以上。何か質問は? なければミーティングはこれで解散――」
まるで突き放すように、ペラペラの紙一枚で話を終わらせようとする海野アオ。違う、そんな話が聞きたいんじゃない。説明しろ。昨日の、アンタの裏切りについて話せよ。アンタにはその責任があるはずだ。
「違うだろ!」イナズマちゃん先輩が、海野アオに掴みかかった。「てめぇ、アオ、お前は、何でこんな――」
「イナズマちゃん!」シロ先輩がイナズマちゃん先輩を羽交い締めにして、海野アオから引き剥がす。「それは、そこから先は、モヤシちゃんに言わせてあげるべきや」
海野アオは無表情だ。
「っ……そうだったな。おい、モヤシ」
「はい」俺は立ち上がり、海野アオを見下ろす。海野アオは俺と目を合わせようとしない。「昨日のアレは、何だったんですか」
「…………。アレ、って、何のことかな。抽象的な言い方は、止してくれ」
「何で! 何でアンタが、夏野のバンドでドラムを叩いていたのか、って聞いてんだよ!」握りしめた拳が、ブルブルと震える。「アンタ、四月からずっと――いや、俺に声を掛けた、あの日、あの時からずっとずっと、俺のことを騙してきたのか⁉ アンタの所為で、俺は夏野のバンドを追い出された。アンタはそれを知っていながら、素知らぬ顔で俺に近付いて、俺を『キング・ホワイト・ストーンズ』に引き入れた。とんだマッチポンプだ。自分の手でクビにさせて、落ち込んでいるところを拾い上げて、優しい言葉を掛けて。俺はさぞかし滑稽だったろうな。そんな俺のことを見て、アンタ、裏では笑ってたんだろ⁉」
「……どうしても。どうしても、優秀なドラマーが必要だったんだ」
「ああっ⁉ 何の話だよ!」
「『何で』って聞いただろう、今。ボクには、『青子緑子』の曲を叩ききってくれる優秀なドラマーが、どうしても必要だった。ゴッド先輩が部活を引退してしまってから、ニヶ月。ボクは血眼になって、ドラマーを探し求めた。でも、見つからなかった。ボクの曲を叩けるドラマーは、この大学には一人もいなかった。ボクは絶望していた。絶望していたんだよ。そんな折に、くれなゐから聴いたんだ」
くれなゐ先輩の肩が、ぴくりと動いた。
「私の元カレで、リズムキープモンスターのドラマーが今年入学しましたよ、って。
小学低学年の頃に初めてスティックを握り、
始めて一分で8ビートを叩き、
二分でフィルインできるようになり、
五分で16ビートを覚えたバケモノ。
絶対リズム感を持っていて、どれだけ長時間叩いても、1bpmのズレも生まない、リズムキープ力の権化。
百瀬ヤスシ。
ボクはどうしても、そいつが欲しくなった。運命だと思った。去年は、この大学で最もドラムが上手かったゴッド先輩の手を借りてすら届かなかった、学祭中庭ライブ。ボクの人生のすべて。それを達成するために、何が何でも手に入れなきゃって思った。でも、そいつは今、別のバンドに入っているという。しかも、ずいぶんな自信家らしい」
……自信家だったのは、小学生までの話だ。あの頃の俺は背が高くて、足が速くて、勉強もできて、スポーツ万能で、まぁ、有り体に言ってかなり調子に乗っていた。あぁ、そうか。くれなゐが本当に俺の小学生時代の元カノなのだとしたら、彼女の中での百瀬ヤスシ像は自信家のままだったのだろう。
「こんなチャンス、もう二度と訪れないかもしれない。何としてでも、何をしてでも、百瀬ヤスシを手に入れなければならない。そのために、ボクは」
俺を、陥れたのか。
「ボクは、夏野に声を掛けた。彼は本当に愚かな奴で、モヤシちゃんの価値に少しも気付いていなかった。一方のボクは、まぁ、このとおり見た目が映える方だし、アイツ好みのグルーヴ感のあるドラムが叩けるから、交渉は簡単に成立した」
それが、四月の出来事だったのか。
それからのことは、俺の方がよく知っている。絶望のただ中にあった俺を拾ってくれた、アオ先輩。俺がどれほど感動し、アオ先輩に恩を感じたのか。アオ先輩のことをどれほど尊敬し、アオ先輩に夢中になったのか。アオ先輩の存在が、俺の中でどれほど大きかったのか……それはきっと、海野アオ本人にすら分かるまい。俺はまんまと騙されて、海野アオの思うがままに操縦されていたんだ。
ん、ちょっと待て。今の話、もしかして――
「くれなゐ先輩? もしかして先輩、このこと知ってたんじゃ――」
「し、知りませんでした!」くれなゐ先輩は、可哀想なほど狼狽していた。「私がモヤシくんのことを推薦したのは、本当のことです。また一緒にセッションしたい、とも言いました。けど、だからって、こんな、アオがここまでメチャクチャで常軌を逸したことに手を染めているだなんて、夢にも思っていませんでした」
俺はくれなゐ先輩の目を見る。嘘を言っている目ではない。俺は頭を下げる。「疑ってすみませんでした」
「い、いえ。私は大丈夫です。一番つらいのはモヤシくんでしょうから」
海野アオの話には、一定の筋が通っているように思える。嘘は言っていない。が、どうしようもなく違和感が残る。意味不明なところがたくさんある。
まずもって、動機が意味不明だ。コイツはこう言ったんだ。『どうしても中庭ライブに出たいから、優秀なドラマーが必要でした。そのために、百瀬ヤスシを操縦したかった。だから、百瀬ヤスシを陥れました』って。『中庭ライブに出たい』と、『だから百瀬ヤスシを陥れました』の間に大きな乖離がある。あまりにも、目的と手段の釣り合いが取れていない。常軌を、逸している。そりゃあ、中庭ライブには出たいだろう。中庭ライブ出演は、全軽音部員の憧れだ。けれど、だからって、言ってしまえば『その程度のこと』のためにこんな、人を陥れるような、人の人生をもてあそぶようなことまでするか、普通? 異常だ。明らかに異常だ。
いや、コイツは今、中庭ライブのことを『人生のすべて』だとか言っていた。そうだ、それもまた、大きな違和感の一つだ。コイツは多分、致命的な何かを隠している。醜悪な『隠し事』は多分、一つだけじゃない。
「海野さん」俺は海野アオに語りかける。
「っ⁉」海野アオが、この話し合いが始まってから初めて、顔を上げた。
何を一人前に、傷付いたような顔をしているんだ? 俺が苗字で呼んだのが、そんなにショックだったのか? 傷付けられたのは、こちらの方だというのに。
「アンタ、まだ何か隠してるな。言えよ」
「っ……言えない。悪いけど、こればっかりは本当に。言ってしまったらもう、ボクの心象は地に落ちる」
「既に落ちてるよ。いいから言え」
「い、嫌だ」
「言え。言わなきゃ、俺はもう、ドラムを叩かない」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!」幼児のように、いやいやをする海野アオ。異様な光景だった。
「――――……。じゃあせめて、あと何個、隠し事があるのか、言え」
「…………」海野アオは泣き出しそうな顔をして、唇を噛んで、そして、「……二個」
つまり、俺を追放させたことを含めて、全部で三つの隠し事があるわけか。この言葉も、どこまで信じて良いか分かったもんじゃないが……いや、せめてこのくらいは、信じてやろう。コイツとは、まだ三ヶ月の付き合いが残っているんだから。