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9曲目『元カノ・くれなゐと付き合おう』

 数日後、午後の練習後のこと。

「さっきの演奏、何」トイレに寄った後、授業に向かおうとしていた俺は、海野アオの、刺すような冷たい声を聴いた。

「――⁉」思わず、廊下の陰に隠れてしまう。

「何、って何」通路の向こう、海野アオに応えるのはくれなゐ先輩の声。こちらも、海野アオに負けず劣らず冷たい。

「ここが大詰めなの。分かるでしょう? 次のオーディション、何が何でも通らなきゃならない。それも、圧倒的上位で入選しなきゃならないの。学園祭ライブに出るだけじゃ意味がないの。上位入選して、最も注目される最終日の中庭ライブ枠を押さえないといけないの。三回生、四回生たちの強力なバンドを押しのけて、だよ? ……なのにくれなゐったら、演奏に全然身が入ってないじゃないか」

「そんなことない。ヘンなクレームつけないでもらえる?」

 くれなゐ先輩は、いつも、誰に対しても敬語を貫いているはずの人だ。なのに今は敬語も忘れ、とげとげしい言葉を海野アオに投げ返す。

「あるよ。最近のキミは、まるで上の空だ」

「……誰の所為だと思っているの?」

「そりゃ、キミ自身の所為だろ」

「はーっ」苛立たしげ気に、くれなゐ先輩がため息をついた。「私、バンド辞める」

「…………………………………………え?」

「イラストもね。アンタは一人で沈むといい」

「な、何で⁉」

「だって、契約と違うじゃない。何でアオは全部持っていて、私には何もないの? せめてやっちゃんくらい私にくれたっていいじゃない!」

 契約? 何の話だ?

「イナズマちゃんたちから、聞いた。アンタがモヤシくんと、陰で何をやっていたのかを」

「なっ、イナズマちゃん――」

「私が無理やり聞き出したの。あの子たちのことは責めないであげて」

「――――……」

 陰で何をやっていたのか――四月から数日前まで、『スーパーモヤシモード』起動のため、と称して俺と海野アオがやっていた叡智な行為のことを言っているのだろう。俺の元カノを自称して、常々俺に好意的だったくれなゐ先輩にとっては、腸が煮えくり返るような思いなのかもしれない。俺が海野アオに対して抱くのと同じような、憎々しい感情。

 彼女こそ、俺に近付きたがっていた。が、海野アオが立てた『バンド内恋愛禁止』ルールを遵守して、俺に対して過度なスキンシップは取らずにいた。なのに、そのルールの言い出しっぺである海野アオ自身が、くれなゐ先輩に隠れてそういうことをやっていたという事実は、裏切り以外の何者でもないのだろう。

 俺としても、くれなゐ先輩に申し訳ない。謝って、許してもらえるだろうか……。

「イナズマちゃんとシロのこと、悪く言える立場なの? 裏切り者」

「そ、それは――わ、分かったよ。『バンド内恋愛禁止令』を解く。これでいいんだろう?」

「やった!」

 廊下の向こうで、『タポポポポポ』という、猛烈なタップ音。続いて、

 ――ムーッムーッムーッ

 俺のスマホが鳴り出した! や、やばい! 盗み聞きしてたのがバレる!

「やっちゃぁあ~~~~~~~~ん!」

 くれなゐ先輩が、俺が潜む物陰に突撃してきた!

「ご、ごごごごめんなさい! 盗み聞きする気は――」

「やっちゃん!」くれなゐ先輩が、ぎゅっと俺の手を握った。ギターダコでカチカチな左手と、柔らかい右手。両手とも、驚くほど指が細い。「私と付き合ってください!」

「…………え? えぇぇえええええええええええええええええええええええええええ⁉」



 そんなわけで、人生二人目の彼女が爆誕した。いや、くれなゐ先輩曰く先輩は俺の元カノだから、二度目にして一人目なのか。ただ、くれなゐ先輩には本当に本当に申し訳ないんだけど、何しろ十年近くも前のことだから、俺は付き合っていた頃の記憶が曖昧なんだ。その所為か、くれなゐ先輩が元カノということに妙な違和感を覚えている。

 まぁ、昔のことは置いておこう。今の話をしよう。そう、くれなゐ先輩が、俺の彼女になってしまったのである!

「すみません、私、指硬くて」いつものフリフリな地雷系ファッションに身を包んだくれなゐ先輩が、俺を見上げてくる。「もっと女の子っぽい手指の方が男の子は嬉しいんでしょうけど……」

「そ、そんな! 全然気にならないです!」

 くれなゐ先輩は俺より背が低い。俺は一七一センチで、くれなゐ先輩は一六〇センチくらいだろうか。

 あの後、なし崩し的にくれなゐ先輩の告白を受け入れてしまった俺の手を取って、くれなゐ先輩が歩き出したのだ。向かう先は中央広間に面した講堂。一回生・二回生共通の『一般教養(ぱんきょ)』の講義が行われる場所だ。俺たちは同じ講義を取っている。だから、付き合いはじめて早々、授業デートというわけだ。

「嬉しい」くれなゐ先輩が、ぎゅっと俺の手を握る。夢にまで見た恋人繋ぎだ。「ずっとずっと夢だったんです。やっちゃんとこうして、再び彼氏彼女になるのが」

「は、はい」

「カレカノなんだから、敬語は禁止です。先輩呼びも禁止」

「くれなゐ先輩も敬語ですけど」

「私のはキャラ付けだから」

「自分で言っちゃうんですか」

「うふふ。ほら、やっちゃん」

「は――う、うん」

「~~~~っ‼」くれなゐ先輩――くれなゐが頬を染め、最高の笑顔を見せてくれる。

 マジか。マジでくれなゐが、このめちゃくちゃ美人でギターも上手い女性が、俺の彼女になったのか。

 くれなゐは人目を惹く。今も、キャンパスを歩く男子たちがチラチラとくれなゐを見ている。ふ、ふふふ、ふはははは! 世界よ、この子は俺の彼女だぞ。灯(ともしび)くれなゐ二十歳。俺の、彼女だぁああああああああああああ!

 ……正直、告られて熟考もせずに受け入れてしまったのは、我ながらちょっと軽薄じゃないかと思った。俺の恋愛経験の少なさからくる価値観かもしれないけど、『付き合う』というのは相手の人生を背負うレベルの決断だと思うからだ。

 けれど俺は、その場で受け入れてしまった。くれなゐは俺の元カノらしいし、前世で世界を救ったくらいの善行を積まなきゃ付き合えないレベルの美少女だし、それに、地雷系でときどきメンタルがヤバくなるものの、くれなゐが実はメチャクチャ健気で良い子で、誰よりも努力家だということを、この四ヶ月を通して俺は知っているし。

 そして、何より。

「くれなゐ、好きだよ」

「私もです!」

 この、穴を。

 胸にぽっかりと空いた、凍えそうなほどの隙間風を生み出す穴を、何とかして塞ぎたかったから。俺の心は今、ぐちゃぐちゃだ。海野アオに裏切られて、手酷いトラウマを植え付けられて。

 三日や四日、寝て起きたくらいでは、まったく回復しなかった。一週間経っても、一ヶ月経っても、一年経っても立ち直れないのではないだろうか、と怖かった。心の拠り所が欲しかった。情けない話だけど、寄りかからせてくれる存在が欲しかったんだ。

 ぎゅっと、手を握った。くれなゐが微笑んで、その手を握り返してくれた。

 大丈夫。くれなゐがいてくれる。くれなゐの温かな手が、俺をちゃんと、ここに繋ぎとめてくれている。だから大丈夫。大丈夫。



 デート。デートである!

 付き合いはじめて初の土曜日に。いつもより少し着飾ったくれなゐに手を引かれ、俺は街に出てきた。

「街に出て――」くれなゐが爽やかに微笑んでいる。「最初に入るのが楽器ショップだなんて、私たちも筋金入りのバンドマンですね」

 ■■大学のふもとから阪急電車に乗り、揺られることぴったり三十分。大阪梅田に降り立った俺たちが最初に向かったのは、駅前の大手楽器チェーン店だ。

「『筋金入り』って、平成か」

「昭和かも知れません。ふふっ、イナズマちゃんの影響ですね」

 今日のくれなゐには、いつもまとっている暗さ――鬱屈した何かが感じられない。とても爽やかで、何というか輝いているんだ。

「何かプレゼントさせてよ」くれなゐが手を絡めてきたので、俺は握り返す。「貧乏だから高い物はムリだけど」

「じゃあ、コレは?」くれなゐが示したのは、

「ピック!」

 色とりどりのピックが並んでいる。くれなゐがピックを左手に取る。ピックに負けず劣らず、くれなゐの指先もカラフルだ。くれなゐは演奏しないとき、左手指にカラフルな絆創膏をしている。『青子緑子』の超絶高速ギターを弾きこなすために、血豆が絶えないからだ。

 くれなゐは、そんな手指を『女性らしくない』と恥じている。カラフルな絆創膏は、そんな彼女の気持ちの裏返しだろう。けれど俺は、そんなくれなゐの手指を美しいと思う。だって、いくら敬愛する『青子緑子』のためだからって、血豆ができて、その血豆がつぶれるような演奏を、毎日毎日続けているんだぞ? 並みの精神力じゃ無理だ。俺なら泣いて辞めてるね。

 夏ライブの最中なんて、くれなゐ、左手から血を流しながら演奏し続けていた。俺はそんな、仲間想いで負けず嫌いなくれなゐのことを『美しい』と思う。



 ――コンコンコン、コンコンコン

 俺はドラムコーナーで、バラ売りのスティックを手に取り、その先で後頭部を叩く。

 ――コンコンコン

 骨伝導で音が脳に直接聴こえてくる。また別のスティックを手に取ると、

 ――コァンコァンコァン

 音が違う。さっきの一本より高い。さらに別のスティックを手に取ると、

 ――コォンコォンコォン

 一転して低い音が返ってくる。これは、各スティックの木の密度が違うからだ。木の密度が違うと、ドラムを叩いたときの音が変わる。軽いスティックなら軽快な音に、重く高密度なスティックなら重厚な音になる。スネアを両腕で連打したときに、決定的な違和感を生じさせてしまうのだ。

 YAMAHAやTAMAみたいな一流企業のスティックですら、これほどの個体差がある。スティックというヤツは、一本一本が全然違う生き物なのだと、俺は思っている。

 気にしない人は、気にしない。スティックなんて所詮は木の棒だから、何週間、何ヵ月も使い続けてたら摩耗したり欠けて重量が変わるし、そもそもその日の湿度で重さが変わる。どれだけ丁寧に使っていても、リムショットを多用していればスティックの根元が削れていき、やがてひび割れが生じ、そこから欠けが生じていって、最後にはスティックが真っ二つだ。だから、そんなに神経質に選んだところで、あまり意味がないとも言える。

 でも、俺は気にする。すごく気にする。なぜって、俺が『キング・ホワイト・ストーンズ』のドラマーだからだ。『青子緑子』の曲は本来、打ち込み。腕の左右でスネアの音が変わるなんてあり得ない。俺のドラムに求められているのは『ライブ感』ではなく『再現性』だ。

 俺は海野アオに、手ひどく裏切られた。けど、俺は依然として『キング・ホワイト・ストーンズ』のドラマーだ。少なくとも、当初誓ったとおり、十一月の学祭ライブまではバンドに留まるつもりだ。海野アオが俺を欺いたからといって、俺がドラムで手を抜いて良いことにはならない。

「いいスティックは見つかりそうですか?」

 くれなゐが寄ってきた。そのまま手でも握ってくるかと思いきや、俺のスティック選びの邪魔にならないところギリギリで立ち止まる。楽器やスティックは、バンドマンにとって武器。武器選びの邪魔はしないと言う訳だね。さすが、くれなゐも筋金入りのバンドマンだ。

 ――カンカンカン

「ヘンなことしてるって思わないんだね」

「密度を揃えているんでしょう? スティック選びの基本です。……嬉しい」

「嬉しい?」

「あ」くれなゐが『しまった』という顔をして、「な、何でもないですっ」

「ん?」下手な詮索はしないほうが良いだろう。「あ、ええと……そう言えば、くれなゐってドラムもできるんだよね」

「できるどころか――あ」

「何さ」

「何でもないです!」

「そう?」俺はスティック選びに集中する。



「嬉しいです」くれなゐが、ピックの入った袋をぎゅっと胸に抱く。

「安物だけど」

「関係ありません。宝物にします」

「消耗品だけど」

「あはは、それはそうですね」そう言って笑うくれなゐは、いつものような暗さをまとっておらず、とてつもなく可愛い。

 俺は今、間違いなく幸せ者だ。世界一幸せかもしれない。

 ――なのに。

 この、言葉にできない『違和感』は何なんだろう? 俺はなぜ、くれなゐのことを『元カノだった今カノ』と認識できないのだろう? 十年前の彼女の顔が、面影が、もやがかって上手く思い出せないんだ。

「懐かしいですね、この道」

「……え?」

 くれなゐの声に顔を上げてみれば、懐かしい街並み。実家の近所の通学路だった。考え事をしているうちに、ずいぶんと歩いてしまったらしい。

「あっ、ごめん。デート中なのにぼーっとしちゃって」

「いいですよ。何考えてたんですか?」

「十年前のことを。キミと付き合ってた頃のことを、思い出そうとして」

「なら、一緒にこの道を歩きましょう」

 二人、手を繋いで歩く。ここは小学校の通学路。小三? 小四? の頃に、『赤』と名乗る地雷系少女と、毎日のようにこの道を歩いた。

「そうだ、そうだよ! 地雷系の女の子!」

「はい」地雷系ファッションに身を包んだくれなゐが、優しく微笑む。「最初に地雷系の服を贈ってくれたのも、やっちゃんだったんですよ」

「そう……そうだ、そうだった! 何で忘れてたんだ、こんな大切なことを!」

 通学路を歩いていくうちに、次々と記憶がよみがえってくる。あの頃のくれなゐは塞ぎがちで、手首を……その、切っちゃうことがたまにあって。それで、いつも手首に包帯をしていて。

『地雷女』

 と、学校ではウワサされていた。小学生というやつは、残酷だ。男女問わずくれなゐのことを叩いていた。

「そうそう。あの頃はやっちゃんだけが味方で」

「それで、全財産をはたいて地雷系の服を買ったんだっけ」

「その服を贈ってくれたときのやっちゃん。何て言ったか覚えてます?」

 思い出した!

「「似合ってる。地雷系バンドだ。ロックだ!」」二人の声が、言葉が、吐息が混じり合う。

 ……いやぁ、若気の至り。

『包帯が目立つなら、包帯が目立たないファッションにすればいい』

『包帯自体をファッションにしてしまえばいい』

 小学生の発想と行動力。我ながら恐ろしい。

「もう大丈夫なの? ……その、手首」俺は、くれなゐの両手首に巻かれている包帯を見る。

「リスカは」くれなゐが、手首を撫でる。「もうしてません。やっちゃんに出逢えてからは一度も。痕は残っちゃったけど。見てみますか?」

「みっ、見ないよ」

「ふふっ。私は救われました。やっちゃんという、私だけのヒーローに」

「でもキミは!」俺は突然、泣きそうになる。「……ある日突然、消えてしまった」

「親の都合の引っ越しで。悲しくて、どうしてもサヨナラを言い出せなかった」

 ……そう、か。引っ越しか。引っ越しなら、仕方ないか。

 あの頃のことは、記憶があいまいだ。くれなゐとの交際期間は、半年か、それよりも短いくらいだったような気がする。きっと、『嬉しい』と『悲しい』が短期間に圧縮され過ぎて、脳がいろいろなことをあいまいにしてしまったんだろう。

 けれど、幸せだった。幸せだったんだ。幸せだったんだよ。

「着きましたよ」

 小学校だ。気が付けば目の前に、俺たちが通っていた小学校があった。

「入ってみましょう」

「え、大丈夫なの?」

「大丈夫です。実は私、ここの先生なんですよ」

「え、どういうこと?」

 疑問はすぐに晴れた。『放課後・休日音楽教室』という看板が、音楽室に掛かっていたからだ。

「このイラスト」くれなゐが、看板のイラスト――少女がギターを演奏している絵を指差して、「私が描いたんですよ」

「え、うまっ」上手い。それになぜだか、ものすごく見覚えがある画風。何だっけ?

「あーっ、せんせー!」「赤ちゃん先生だ!」「灯先生、こんにちは」

 くれなゐがドアを開くと、思い思いの楽器に触っていた小学生たちが一斉に顔を上げた。どうやらくれなゐは、人気者のようだ。

 子供たちに頼まれるまま、さっそくアコギを手に取るくれなゐ。カラフルな絆創膏をしたまま、流行りの曲を弾く。流れるような指遣い。本当に、なんて流麗な演奏だろう。これで絆創膏を剥がすと、さらにもう一段階上手くなるっていうんだから驚きだ。少年ジャンプの主人公なのかもしれない。スポーツマンガの主人公たちが、重量付きリストバンドを嵌めたまま敵と戦う、みたいな。

 俺も、ドラムを触っていた子たちに頼まれてドラムを教える。疲れたら、壁際に置いてあるお菓子やジュースを頂いたりする。音楽教室には十人近くの子供たちがいる。対して教師はくれなゐと、小学校の音楽教師が一人だけ。くれなゐはもう十年来ずっとこの教室の先生をやっているのだそうだ。完全なボランティアなので教師役は集まらず、生徒同士が互いに教え合っている。

「いろいろと思い出してきたよ」俺が、肩によじ登ってくる子供をあしらいながら言うと、

「へぇ」抜群に形の良いバストに頭突きするエロガキの頭を押し返しながら、くれなゐが微笑んだ。「どんなことをですか?」

 む、うらやまけしからん。それは俺が収まるべき場所だぞ――じゃなくて。

 そう、かく言うも俺も小学三年生の頃、一個上の先輩――それも、とびっきり可愛い女子からドラムを教えてもらったんだった。俺はその子と仲良くなりたくて、休日にスティックの選び方を教えてもらうことを口実にデートに誘ったりしたんだっけ。そうだ。骨伝導の音でスティックの密度を調べる方法は、その子から教えてもらったんだ!



 あの綺麗な先輩女子、なんて名前だったっけ?

 焚き木、

 薪、

 松明(たいまつ)、

 明かり……あれ?



「せんせー、何かやってー!」という生徒たちの言葉に押され、俺とくれなゐはセッションを開始する。

「じゃあ特別に、『青子緑子』の未発表最新曲を披露してあげましょうか」くれなゐが絆創膏を剥がす。おおおっ、本気モードだ。「――『血とくれなゐ』」

 ややローテンポな、バラード寄りのロック。こんな曲、俺は聴いたことがなかった。が、別に不思議はないだろう。俺は『キング・ホワイト・ストーンズ』の中では一番の新参者で、くれなゐは一番の古参だ。

 160bpm。切なさと格好良さを煮詰めて煮凝らせて成形したような、素晴らしい前奏。六秒弱――二小節聴いて、俺は曲の感じを掴んだ。三小節目の頭からドラムを合流させる。続く二小節で、曲に対する解釈を修正、ビートに裏拍を混ぜて、微修正する。

『こんな感じでどうかな?』とくれなゐを見ると、

『か』

   『ん』

      『ぺ』

         『き♪』

 と、実に幸せそうな笑顔で、くれなゐが口を動かした。

 懐かしい。懐かしいなぁ。こうやって毎日、くれなゐとセッションしてた。十年前の俺たちは、この音楽室で愛をはぐくんでいたんだ。

 どうして忘れていたんだろう? そうだ、あの頃のくれなゐは、自分のことを『赤ちゃん』と名乗っていたんだ。『くれなゐ』とは名乗っていなかった。……ん? でもくれなゐは、『キング・ホワイト・ストーンズ』のみんなからは『赤ちゃん』と呼ばれている。じゃあなぜ、一致しなかった? 分からない。けれど、分からないことで悩んでも仕方がない。俺たちは今、この瞬間を生きている。大学生の俺は、今、大学生のくれなゐと付き合っているんだ。

 セッションは続く。くれなゐが鼻歌を歌っている。くれなゐはお世辞にも歌が上手いとは言えなくて、だからカラオケに行くのを嫌がる。そんなところも最高に可愛いと思う。

 くれなゐがギターを演奏している。さっき俺がプレゼントしたばかりのピックでギターを奏でている。

 くれなゐと、目が合った。アイコンタクトはバンドの基本だ。

 くれなゐが晴れやかに微笑んだ。

 俺も、微笑む。

 灯くれない。最高の彼女だ。

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