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6曲目『先輩生着替え。衣装合わせをしよう!』

 七月三日。その日は、軽音部全体が朝からざわついていた。もちろん、『俺』――百瀬ヤスシの心も。夏ライブの合否発表があるからだ。

「ぐわああああっ、ダメだった!」「今年こそ行けると思ったのに!」「ダメかー。あー」

 部室前には、防音扉に張りつけられたオーディション結果に悲鳴を上げる先輩方と、

「ウチら入ってるよ! やったー!」「学祭中庭目指して、まずは夏ライブを成功させよう」

 全力で喜んだり、淡々と喜んでいる先輩方がいる。悲喜こもごもだ。

 俺は早く、『キング・ホワイト・ストーンズ』の結果が見たい。だけど百人もの部員を抱える■■大学軽音学部の、二回生以上のほぼ全員が狭い部室前に集まっているので、満員電車のようになってしまって前に進めない。

「俺様に任せろ!」小柄なイナズマちゃん先輩がシロ先輩の上によじ登る。

 なるほど、肩車作戦だな? 高所から張り紙を見るんだろう。なんて思って見ていると、

「えぇぇええええええええええええええええええええええええええっ⁉」俺は仰天した。イナズマちゃん先輩が、ごった返す部員たちの肩やら頭を踏んづけていったからだ。

「いてっ」「あ、こらイナズマちゃん!」「アンタ去年もそれやったでしょ」

 どうやら常習犯らしい。防音扉の前にまで到達したイナズマちゃん先輩が、ずぼーーーーっと人並みに飲み込まれていく。

「「「「…………」」」」俺たち四人は無言だ。冷たい汗が俺の背を伝う。果たして――。

「受かってるぜ!」イナズマちゃん先輩の声だ!「最終日、中庭ライブだぁ!」

「やっっっっったぁあああああああああああああああ~~~~~~~~~~~っ!」アオ先輩が、あのミステリアスでダウナーなアオ先輩が、飛び跳ねた!「ありがとう! ありがとうモヤシちゃん! キミのお陰だよ!」抱き着いてくるアオ先輩と、

「……スキンシップ禁止です」僕をアオ先輩から引き剥がすくれなゐ先輩。「でも、おめでとうございます、アオ。夢にまた一歩、近付きましたね」

 ネコのように戻ってきたイナズマちゃん先輩も交えて、俺たちはハイタッチをした。『キング・ホワイト・ストーンズ』。最高のバンドだ!



 Aマイナス。それが、『キング・ホワイト・ストーンズ』の評価だった。十個ある夏ライブ出場枠には余裕で入れる。が、五枠しかない学祭中庭ライブの枠に入るには心許ない評価だ。

 各パートの評価は、ボーカル・アオ先輩、ギター・くれなゐ先輩がAプラス、イナズマちゃん先輩、シロ先輩がAマイナス、そして僕がBプラス。僕が足を引っ張ってしまっている。

『ドラム、上手い。が、グルーヴが感じられない』

『極めて正確で、とても素晴らしいドラム。だが、グルーヴ感がない』

『打ち込み風の曲を丁寧に再現した、という意味ではこれ以上になく完成された素晴らしいドラム。だが、生演奏のドラムとして捉えた場合、どうしても物足りなさが目立つ。人間味、ライブ感、グルーヴが感じられない』

 それが、僕に下された評価。人間メトロノーム、打ち込みの再現としては十分に通用する。が、人間が叩く以上、さらなるプラスアルファが求められるということか。プラスアルファ――それが『絶妙なノリ(グルーヴ)』なのだ。僕は未だに、グルーヴが理解できずにいる。



『リハリハ』という言葉がある。■■大学軽音学部の造語かもしれない。『リハーサルのリハーサル』という意味だ。『リハーサル』とは、ライブ当日の朝から行う、演者たちと裏方(PA、照明、各楽器パート)による事前準備のこと。

 何を準備する必要があるのかというと、最重要なものが『二つ』ある。準備不足だとライブが崩壊しかねないほど重要な物事が。

 一つは、スピーカーから観客へ届けられる『音』造りの準備。これには『PA』チームの面々が当たる。PAとはPublic Addressの略だが、要はライブにおける『音響』全般を管理する人のことだ。某ぼっちなろっく漫画・アニメで『PAさん』がやっている仕事のことでもある。

 ライブというのは、マイクとスピーカーによって成り立つ。ボーカル、シンセサイザー(キーボード)は、スピーカーによる音の増幅無しでは広範囲に音を広げられない。アンプで音を増幅させるギターやベースも、そのアンプにマイクを当てることで、さらに音を増幅させる必要がある。生音でも耳を塞ぎたくなるほどの爆音を出せるドラムですら、増幅された音たちの前では蚊の鳴き声くらいにしか聴こえない。だから、ドラムにも幾つものマイクを当てて、音を拾って増幅させ、スピーカーから音を放出させる。ドラムにセットするマイクの数、実に九個(スネア・ハイハット・ハイタム・ミドルタム・ロータム・バス・左クラッシュシンバル・右クラッシュシンバル・ライトシンバル。右クラッシュシンバルとライトシンバルの違いを語りはじめると日が暮れるので、この場では割愛する)。

 そしてPAチームは、それらのマイク一つ一つ(ボーカル、リードギター、サブギター、ベース、シンセ、ドラム×9、他の楽器)の音量をそれぞれのツマミで調節する。各ツマミは『全体音量』『Hi』『Mid』『Low』を意味しており、それぞれ全体音量と高・中・低音を司る。例えば『カーン』という快活な音が魅力のスネアドラムを扱うとき、音を効かせたかったらハイを多めに入れれば良い。逆に『ダッ』というスネア独特の濁音(鉄の網こと『スナッピー』の音)にフォーカスを当てたい場合は、ロウを多めに入れてハイ・ミドルを下げれば良い。それだけ。

 そう、それだけ。簡単な話だ。各マイクから吸い上げられた音をハイ・ミドル・ロウに分類し、曲全体のバランスを考えて、目立たせたいパートの、目立たせたい音域のツマミの目盛りを上げて、それほど重要ではないパート・音域の目盛りを下げれば良い『だけ』。けれど、言うは易し行うは難しとはまさにこのことで、限られた時間の中でこの『だけ』を実現するのが、これがもう、逆立ちするよりずっとずっと難しい。しかも、そこに各種事情が入り込む。

 例えば、ボーカル。歌は、ボーカルがメインだ。当たり前過ぎるほど当たり前の話だ。けれど、ボーカルを活かすためのバックミュージシャンたちもまた、血の滲むような努力を重ねてオーディションに合格した猛者ばかりだ。そんなバックグラウンド演者たちが、もしもボーカルよりも上級生だったとしたら。『◯◯パイセンの音、ちょっと強めにおねしゃーす』みたいな要望がボーカル兼バンマスから出てもおかしくはない。そうした場合、メインであるボーカルを殺さないようにしつつ、他パートの音も活かすという極めてシビアなバランス感覚が必要になるだろう。

 例えば、他楽器のソロシーン。ギターにせよベースにせよシンセにせよドラムにせよ、他楽器にせよ。ソロシーンというのは、人生の晴れ舞台だ。『全人類よ、俺の演奏を聴け!』って感じの、トランス状態に入った夢のような時間だ。そんな時間が、もしも蚊の鳴くような音のままで、観客に何一つ届いていなかったとしたら? 数ヶ月もの血の滲むような努力が、PAのちょっとした手元の狂いでパーになるとしたら? 人生の『ここ!』をターゲットにしたその瞬間が、パーになるのだ。PAは、その恐ろしさを知っている。人生を台無しにされた演者たちの、恨みの深さを知っている。だから、必死に準備をしてくれる。これが、最重要なものの一つ目。まぁ要するに、苛烈なオーデを勝ち抜いた演者たちにとっての『命』そのものだ。

 もう一つある。それが、演者たちへの『返し』だ。『返しスピーカー』とは、観客ではなく演者に向けられたスピーカーのこと。ライブの映像などで、ボーカルの足元に三つ四つ並んでいる黒い箱を見たことのある人は多いのではないだろうか。アレが返しスピーカーだ。

 ライブ中、演者は常に爆音にさらされている。ボーカルは、自分の声が聴こえない。ギターもベースもシンセも、自分たちが奏でている音が何一つ聴こえない。生でも耳をふさぎたくなるほどの爆音を出すドラムですら、自分が今まさに叩いたスネアの音が聴こえないのだ。

 俺も今日、『キング・ホワイト・ストーンズ』のリハリハでステージに立たせてもらったが、あれは本当に、ちょっとした恐怖体験だった。自分の腕が、眼の前のスネアドラムに向けて勢い良くスティックを振り下ろした。それが見えているのに、音が聴こえないのだ。まるで、自分が幽霊にでもなってしまったかのような、自分の手足が自分のものではなくなってしまったような不気味な感覚。本当に怖かった。

 そこで頼りになるのが、『返しスピーカー』だ。返しスピーカーが自分の声を、自分の楽器の音を返してくれることで、演者は初めて、自分たちがちゃんと演奏しているという現実感を得ることができるのだ。

 だが、その『返し』を設定するのもまた、PAの手元にある無数のツマミだ。だから、リハリハで入念に調整する必要がある。演者にとって、自分の演奏が聴こえないことほど恐ろしいことはない。PAによる返しの調整が下手くそな場合、演者は無音の中で演奏する羽目に陥る。『音やリズムを外しまくっているかもしれない』、『そもそも音が出ていない可能性すらある』という恐怖と戦いながら、笑顔で演奏しなければならないのだ。

 ボーカルがライブ中に片耳を抑えはじめたら、要注意だ。耳を塞ぐと、骨伝導で自分の声が聴こえるようになる。つまり、そうでもしなければ自分の声がまったく聴こえない、返しがまったく機能していないことを意味する。



『夏ライブ』は我ら■■大学軽音楽部が主催するイベントで、夏休み前の八月一日に開かれる。場所は食堂棟の中庭で、本校舎中庭に次ぐ人気ステージとなっている。食堂棟は部活棟の隣に立っており、文字どおり食堂と、大小三つの売店を有しているため、暇な学生の大半がこの地区に集まるからだ。人通りが多ければ、自然と観客も多くなるというわけだ。

 機材は、軽音楽部の部室に置いてあるニメートル級メインスピーカー×四と、多数の返しスピーカー、PA機器、そして軽音楽部ドラムパート所有のドラムセットを下ろしてくる。

 普通、メインスピーカーほどの巨大な機材を丸一日レンタルすると、目ん玉が飛び出そうになるほどのお金が掛かる。PAまで派遣してもらうとなると、更に二倍、三倍の値段になる。ならば、とライブハウスを借りると数万円から掛かってしまうため、バンドマンたちはキツいチケットノルマに悲鳴を上げることになる。

 その点、俺たち軽音楽部は強い。機材もPAもすべて時前だからだ。必要なお金は、ビラの制作・印刷費くらいなもの。ほぼ無料で参加できるということで、■■大学の軽音系部活・サークルのほぼすべてがこぞって参加する。参加部・サークルが多いから、参加者が集客した観客も多い。■■大学の、夏の一大イベントだ。

 部員百数十名のマンパワーは伊達ではない。元気の有り余る男子パワーで、巨大なメインスピーカーを、超重量な一メートル級ベースアンプを、PA機材や何十個ものマイクを、三階の部室からあっという間に下ろしてしまった。かく言う俺も、ドラムセットを下ろした。

 部室にどっしりと根を張ったドラムセットを、パートリーダーが指差して『さぁ、下ろすぞ』と言ったときには『?????』となったものだったが、先輩ドラマーたちは――件の山本山先輩も含めて――歴戦の手さばきであっという間にドラムを解体してしまい、あれだけ大きかったはずのドラム『セット』を、スネア、シンバル、ハイタム、ミドルタム、ロータム、バス、クラッシュシンバル×二、ライトシンバルという小さな『部品の集まり』に変えてしまった。そうなったらもう、女子の細腕でも十分運べる。俺もけっしてマッチョな方ではないが、バスドラムを抱えて難なく階段を降りることができた。

 そんなわけで、俺もドラムパートとしての仕事に従事し、その後は『キング・ホワイト・ストーンズ』のドラム担当として、PAさんたちの音作りに付き合わせてもらう、という貴重な体験をさせてもらった。それも終わったところで、時刻は十九時半。

 食堂棟の中庭では、部員たちが右往左往と忙しい。各部員は演者であると同時に裏方でもある。『広報』は広報活動のために看板作りやビラ作り。『渉外』はタイバン(軽音楽部以外の軽音系部活・サークル)との交渉。『MC』は文字どおりMCの仕込みに忙しい。中でも忙しいのはPAで、合計二十数組にもなる夏ライブ参加バンドたちの音作りを延々と行っている。PAの方々には、本当に頭が上がらない。彼ら無くしてライブは成り立たない。

 多忙な方々がいる一方で、俺はもう今日の仕事をすべて終えてしまった。手持ち無沙汰だ。

「はほひゃひはへふ?」

 俺がテラスの椅子に座って部員たちを眺めていると、アオ先輩がやって来た。手には出来立てアツアツのタコ焼き。マヨネーズが掛かってる。学生を目当てに大学に面した道路でいつもやっている屋台のヤツだ。

「もらいます。一個おいくらですか?」財布を出そうとする俺の手を、

「ほふへふにはははほ」アオ先輩が握った。

「良いんですか? アオ先輩って基本、常時金欠じゃないですか」

 先輩は大人気ボカロPだけど、商業活動は――同人レベルの小規模グッズ販売以外は――やっていない。ニコ動やYouTubeの収益といっても大したものではなく、動画のためのイラスト発注費や、楽器、作曲活動用機材・PC・ソフト、音楽研究のための書籍・雑誌購入費、音楽購入費や各種サブスクなどの必要経費に当てて、あとは大学の教科書参考書・家賃・食費・光熱費・通信費・服飾・美容などに人並みにお金を使ったら、もうほとんど残らないのだそうだ。『確定申告要らずだから、楽でいいよ』なんてうそぶいていた。

「ひふへいは。ほふにはっへへ、はわひぃほーはいをへひはふふはいほはひひょうは――」

「先輩、アオ先輩、ちょっと待って。さすがに長文過ぎます。聞き取れません」

「もぐもぐごっくん。失礼な。ボクにだってね、可愛い後輩を労うくらいの甲斐性はあるのさ」アオ先輩は周囲を見回して、「よし、くれなゐはいないね。ほら、少年。あーん」

「先輩はまた、そうやって俺をからかって……もがっ、もぐもぐ」

「んふふ」と真顔で笑うアオ先輩。「文句言いつつも、ちゃっかりあーんされるんだから。本当、モヤシちゃんは可愛いなぁ」そう、いつもの真顔モードだ。辺りはすっかり暗くなってしまったから、詳細な顔色までは分からないが。

「ごっくん。思わせぶりな態度ばかりして。いい加減、勘違いしますよ。いいんですか?」

「生意気な口だね。もう一個あげよう。誰が、ナニを、勘違いするって?」

「ですから、俺が、先輩に――もがっ」

 そのとき。

 そのとき、軽音楽部が持ち込んだ照明が、ぱっと辺りを照らした。

「わっわっ」アオ先輩が、慌てて顔を、暗がりの方へ逸らした。

 だけど、俺はばっちり見てしまった。先輩の、耳まで真っ赤に染め上げた、可愛い顔を。だらしなく口元を緩ませた、照れ顔を。



 もしかして。



 もしかして、勘違いではないのではないだろうか? 俺は今まで、先輩が顔を赤らめるのは、叡智なことをしているからだと思っていた。相手がたとえ興味のない男でも、胸やら全身やらを触られれば、そりゃ顔が赤くもなるだろう、と思っていたんだ。

 けれど。それだと、今、このシーンで先輩が顔を赤くしていたことに説明がつかない。もしかして、先輩は俺に気がある――とまでは言わないまでも、異性として多少は意識してくれているんじゃないだろうか。単なるオモチャ、ドラムの付属品、人間メトロノームとしてではなく、男として見てくれているのではないだろうか。告ったら、ワンチャンあるのでは?

 いやいやいや、バンドを壊すわけにはいかない。バンド内恋愛は破滅への入口。アオ先輩は『キング・ホワイト・ストーンズ』のバンマスで、尊敬できるミュージシャンで、大人気ボカロP。意識するな意識するな意識するな。性的な目で見るな。心頭滅却! ……だ、け、ど。

「せ、先輩……俺」

 だけど、この気持ちをごまかし続けるのも、いい加減つらくなってきていた。だって、今日は七月四日。アオ先輩に出逢い、拾ってもらったあの日から、もう三ヶ月が経過したんだ。俺はあの頃から、ずっとずっとずーーーーっとガマンしてきた。毎日毎日、この憎たらしいほど可愛い顔を見せつけられて、『スーパーモヤシモード』起動のために過剰なスキンシップをされて、それでもなお、ガマンし続けてきたんだ。いい加減、そのガマンも限界だった。

「俺、先輩のことが――」

「あああっ、そういえば!」アオ先輩が、露骨に話題を逸らした。話を、逸らされてしまった。「夏ライブの衣装、届いた⁉ シロが選んで、送ってくれてるはずなんだけど」

「アッハイ」少し――いや、かなり残念だったが、バンドとして普通に重要な話題だったので、ちゃんと返答することにした。今の僕は、先輩が理想とする演奏を提供するために、ここにいる。あの日の誓いは今も有効だ。「昨日届きました。まだ封は開けてませんが」

 衣装は毎年、シロ先輩が選んで、贈ってくれているのだそうだ。『送って』でもあるけど、同時に『贈って』でもある。ご存知シロ先輩は某社の社長令嬢で――その会社がだいぶ前から傾きかけとはいえ、それでも――俺たちに比べれば圧倒的にお金持ち。かつシロ先輩は服のセンスが先輩方の中で最も『安定している』ので、衣装担当になっている。

 アオ先輩は一見オシャレそうに見えて、実は服のレパートリーがクソ狭い。どうも、キャラ作りのためにダウナー系の格好をしているだけで、ファッションにはさほど興味がないらしい(音楽に人生のリソースをぶっ込み過ぎて、他に気を配る余力がないのかもしれない)。その証拠に、服装が春先からちっとも変わっていないのだ。白い革ジャンは文字どおりの一張羅。キャミソールとホットパンツが日替わりではあるものの、それらをセットにした服装以外でいるところを見たことがない。変更点といえば、春先は黒タイツを履いていたのが、今は素足に変わったくらいだ。いや、その変更点が一番エロ可愛くてヤバイんだけどね。アオ先輩の素足はヤバイ。本当にヤバイ。あ、いや、何の話だったっけ、ナニの話だったっけ? アオ先輩の素足――じゃなくて! 先輩方のファッションセンスの話だ。

 イナズマちゃん先輩はギャップ萌えに特化した、スポーティーでぶかぶかの服しか選ばない。くれなゐ先輩は言わずもがな地雷系専門である。そんなわけなので、尖り過ぎず安定したファッションセンスを持つシロ先輩が、その時々の舞台に合った衣装を見繕ってくれるのだ。

 ん、俺? 俺は夏野曰く『ファッションセンスが小学生で止まっている』らしいから……。

「あー、じゃあ確定っぽいね」

「何の話ですか?」

「シロがね、どうもボクとモヤシちゃんの衣装の送付先を取り違えちゃったらしくて」

「ええっ?」

「昨日、届いた衣装着たら微妙にサイズが合わなかったものだから。シロに確認したら、もしかしたら――って。今日はもう帰るし、モヤシちゃんの家に取りに行っても良いかい?」

「アッハイ。分かりました」

 なるほど、今回の衣装は全員シックでメンズライクなスーツに黒ネクタイというスタイルにしたらしい。俺とアオ先輩は一七〇センチ前後と体格が近いから、ぱっと見どちらの衣装か分からなくても不思議はない。

 というわけで、タコ焼きを腹に収めた俺たちは、大学を出て歩き出した。雨のない日は基本、バスは使わない。丘の上のキャンパスから急な坂道を下ること十五分、ふもとの駅前に至る。ごみごみした街並みを十分ほど縫うように歩けば、先輩の北向きマンションに到着だ。

「待ってて。モヤシちゃんの衣装、取ってくるから」

「はい」

 何だか懐かしい。

『ね、キミ。ボクと付き合ってよ』

 そう言われて、『すわ美人局か』とおっかなびっくりアオ先輩について行ったのが、もう三ヶ月も前のこと。あのときは、まさかあのミステリアスな先輩とバンドを組むことになるとは夢にも思っていなかった。ましてや、その先輩が『青子緑子』その人だったりだとか、一緒にライブに出られるようになるとは。夢みたいな日々が、ずっとずっと続いている。この夢が、ある日突然、覚めてしまいそうで怖いんだ。

「お待たせ」アオ先輩が出てきた。「じゃあ、行こうか」

「はい」今度は俺が先導する。僕の住む安アパートは、ここから徒歩十分程度。

 道中、大した会話はなかった。アオ先輩が俺をからかうようなことを言って、俺がそれに乗っかったり、乗っからなかったりする。いつもの俺とアオ先輩だ。

「お邪魔します」俺の部屋に至り、ドアを開いた俺に続くアオ先輩が、玄関先で丁寧に靴を揃えた。先輩の、時々飛び出すこういった意外な育ちの良さに、俺は戸惑う。いや、意外とか言ったら失礼か。

「おー、コレがボクの衣装だね」先輩が、机の上に置きっぱなしになっていた包みを手に取った。「ここで着てみても良いかい?」そう言って、ジャケットを脱ぎだす。先輩の、日焼けしていない真っ白な肩が露わになった。

「エッココデ⁉」久しぶりにテンパった。ここのところ、アオ先輩の思わせぶりな態度にも冷静に対応できるようになったと思っていたのに。先輩の白い肩一つで、俺はもう大変だ。

「だってほら、ボクらって体格似てるし、同じパンツスーツで黒ネクタイだからさ。取り違えたってのがボクの勘違いの可能性もあるわけだろう? だから着て確かめてみないと。それとも何かい、少年? キミはボクに、この衣装をわざわざボクの家にまで持って帰って、そこで着替えろというのかな? 手間だろう、それは」

「うっ……」言いたいことは山ほどある。手間だろうよ、そりゃ。でも、初めて上がった男の部屋で着替えるってアンタ正気か? やっぱり俺は、男として見られていないのか? 俺はアンタのオモチャに過ぎないってのか? いっそ一度くらい、怖い思いをしてみたほうが――。

 アオ先輩を掴もうとした。手を伸ばした。が、先輩の――あぁ、アオ先輩の、こちらを信頼しきった目に見つめられた瞬間、俺はどうしようもなくなった。

「っ……『僕』、外出てます!」

「何でさ、家主を追い出すわけにはいかないよ」

「いやいやいや! からかうのは、もう本当に、これっきりにしてください!」

 僕――いや『俺』は、転げるように部屋を出た。手持ち無沙汰。あ、そう言えばお茶もコーヒーも切れかかっていたな。やることもないので、近場の――行きつけのスーパーに向かう。パック紅茶とインスタンスコーヒーを買い物カゴに放り込み、レジへ。会計はスマホ決済だ。

 十分ほどで、戻ってきた。玄関ドアを開け、「せんぱーい、もう入ってもいいですかー? ……先輩?」返事がないので、リビングに続くドアを恐る恐る開くと、

「クンカクンカスーハースーハー……はっ⁉」

 せ、せ、先輩が。ダウナー系でミステリアスでいつも冷静沈着なはずの、敬愛すべきアオ先輩が、俺の、床に脱ぎ散らかしたシャツを、嗅いでいた。思いっきり。言い訳の余地もないほど思いっきり、渾身の力でもって嗅ぎあげていた。

「ファァアアアアァァァアアアアアアアアアアアァアアアアアアッッッ⁉⁉⁉」

 おったまげた。俺はまともな言葉すら口にできないほどテンパり、引っくり返った。

「あ、や、今の無し! 今の無ーーーーし!」アオ先輩が絶叫した。「出てって! 一分後にもう一度入ってきて!」

「アッハイ!」僕は自分の家から追い出される。

 …………一分後。

「あのぅ、ただいま戻りました」

「やぁ、お帰り」アオ先輩は、いつものダウナーでアンニュイでミステリアスなアオ先輩に戻っていた。「なかなか入ってこないから、どこへ行ったのかと心配してたんだよ」

 う、嘘つけ。でも、さっきのは本当に何だったんだろう……追求したほうが良いのか? それとも、スルーしたほうが良いのか?

「い、衣装は大丈夫でしたか?」意気地無しの俺は、スルーすることにした。

 見れば先輩は、メンズライクスーツに黒ネクタイという出で立ち。ハリウッド映画から飛び出してきた、と言われても信じてしまうくらい様になっている。

「やっぱり入れ替わっていたよ。というわけで、キミのはこっちだ。封を開けてしまったことについては、ごめんね。気が付かずに着てしまったものだから」

「えっ」そうか。先輩がこの服を着たのか。「いえ、先輩は別に悪くないですよ」

 我知らず、手渡された衣装に鼻を近付けようとして、俺は慌てて顔を上げた。危ない危ない。先輩と同じような奇行に走るところだった。先輩が着た衣装を、俺が着る。これは関節キスならぬ、関節……ナニ? さきほどの、先輩の痴態――そう、痴態だ。破廉恥な振る舞いと言って差し支えない暴挙――が頭に浮かんで、俺は変なことばかり考えてしまう。

 見れば、先輩もまた、顔を真っ赤にさせている。ムードのようなもの、を感じる。何とも言えず良い雰囲気になっているのを自覚する。今、ではないか。言うとしたら、今しかないんじゃないだろうか。こんなチャンス、今を逃したらもう二度と訪れないのでは。

「アオ先輩。俺、先輩のことが、す、す――」

『き』、が言えない。たったの一文字。それだけで思いが伝えられるというのに、その一文字が言えない。俺は『す』の口のまま硬直してしまい、先輩もまた、そんな俺のことを真っ赤になりながら見つめていて。かれこれ一分が過ぎてしまった頃に、

「好k――」

「そういえば!」遮られた。遮られてしまった。「いつの間にか『俺』になってるね」

「え? アッハイ」

「心境の変化かい?」

 俺の心境を変化させた最大の原因が、可愛い口を緩ませながらそう言う。先輩に少しでも意識してもらいたくて、男っぽく見せたくて、最近は服や髪型にも気を付けるようになった。ファッション雑誌を買って研究したり、古着屋巡りをしたり、美容室に行ったり。一人称を変えたのも、その一環だ。それらはすべて、最高の俺になってから先輩に告白するための、準備だった。満を持して言うつもりだったんだ。

 けれど、それを遮られてしまった。だが、それも当然かもしれない。一分も貰って『好き』の一言も言えないようなヘタレな俺に、先輩は呆れてしまったのかもしれない。

「そうですね、心境の変化です。ちょっとした」俺は微笑む。自然な感じに微笑めたはずだ。「似合いませんか?」

「ううん」先輩も微笑む。優しい笑顔だ。「似合ってると思うよ」

 お互い、それ以上は何も言わない。

 黙っていよう。それが、先輩の望みなら。

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