5曲目『突然の路上ライブ! アイコンタクトの恐怖を克服しよう!』
そんなこんなで一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、数週間が過ぎて、気が付けば五月も半ばに差し掛かっていた。編曲・譜面起こしも完成し、個人練習も大詰め。今は、並行して全体練習を行っている。すべて順調。七月中旬の夏ライブオーディション動画締め切りに向けて、一ヶ月以上の前倒しでバンド活動は進んでいる。
ちなみに、スケジュールどおりのことを『オンスケジュール』と言い、遅延していることを『ビハインドしている』とか『ビハってる』と言うらしい。するてーと、『ビハインド』の対義語である『アヘッド』のことを『アヘってる』と言うことになるわけで。
我らが『キング・ホワイト・ストーンズ』は右を見ても左を見ても美女・美少女揃いなんだけど、そんな彼女たちが日常的に『今アヘってる』『◯◯作業が◯週間分アヘった』とか話しているのを聴いていると、なんだか下品な気持ちになってしまうのは、僕の心が汚れているからなのだろう。心頭滅却。敬愛するバンドメンバーズを性的な目で見るべからず。
「おーん? なんでぃ、俺様のことジロジロ見やがって」イナズマちゃん先輩がベースを武器みたいに振り回している様子を眺めていたら、先輩が絡んできた。
「いえ。イナズマちゃん先輩は可愛いなぁと思いまして」そう、イナズマちゃん先輩は美少女だけどセーフだ。見ていると気持ちが和む。
「はン。心にもねぇことは言うンじゃねーよ」
ちなみに、僕の中ではアオ先輩とシロ先輩が『美女』判定。イナズマちゃん先輩とくれなゐ先輩は『美少女』判定だ。いや、より詳細に分類すると、イナズマちゃん先輩は『幼女』判定。ついつい、小学生を眺めるような生暖かい目で見守ってしまう。暴れて怪我しないかハラハラしたりして。これで成人済みだって言うんだから、人体というやつは本当に不思議だ。
「モヤシくん!」今度はくれなゐ先輩が絡んできた。「イナズマちゃんばっかり見てないで、もっと私を見てください! ほら、思い出しませんか? 十年前は毎日ずっと一緒に遊んでたじゃありませんか。あの頃のモヤシくんはとってもキュートなのに、同時にカッコ良くて。もちろん今もカッコイイですけどね!」めっちゃ早口だ。そしてクネクネしている。
「あ、アリガトウゴザイマッシュ」僕は未だに、くれなゐ先輩との距離を測りかねている。
「注目」アオ先輩が、ぱんっと手を叩いた。
途端、全員が私語を止めてバンマスに注目する。こういうメリハリの良さも、僕がこのバンドが大好きな理由の一つだ。夏野のバンドはいつもダラダラとしていて、バンマスの夏野自身がどうでもいい世間話で時間を浪費していた。有料スタジオの貴重な時間を、だ。
「各自、配置について」
アオ先輩の指示に従い、僕はドラムスの椅子に座り直す。数分の休憩を挟んだけれど、『スーパーモヤシモード』は継続中。この一ヶ月で、モード継続可能時間もずいぶんと延びた。
「では、今日からいよいよ――」
そう、いよいよ例の練習が、始まる。毎日アヘアヘ言っていたのは伊達ではなく、僕らは約一ヶ月のアヘッドで、次のステージに進むことになった。即ち、
「動画撮影を始めるよ」
夏ライブオーディション提出用の、動画撮影だ! 場所は、いつもの部室。録画に特別な機材は要らない。スマホと、スマホ用の三脚があれば十分だ。三脚は部室に置いてある。
すべての準備を終えたアオ先輩が、「3・2・1・Q!」
演奏が始まった。
「……悪いけど」録画内容を見ていたアオ先輩が、首を振った。「全然ダメだね」
「あー、せやなぁ」アオ先輩のスマホを覗き込んで、シロ先輩が苦笑する。
「あちゃ~、こりゃひでぇな」イナズマちゃん先輩も、
「……やっぱりこうなりましたか」くれなゐ先輩も同じようなリアクション。
どういうことだろう? いつもどおりパーフェクトな演奏だったと思うけど。ドラムは1bpmもズレることなく完璧に叩いた。先輩方の演奏も完璧だった。
「ちょいちょい」アオ先輩が手招き。口で『ちょいちょい』言うのが何とも可愛い。「これは、ゴッド先輩がいた頃の演奏なんだけどね。参考に視てみて」
「はい?」言われるがまま、僕はアオ先輩のスマホを覗き込む。
ゴッド先輩――僕が来る以前、アオ先輩を唯一満足させることができたドラマーだ。どんな顔をしている方なんだろう? と思ってドラマーの姿を探すと、「えっ、黒⁉」
黒い。顔が真っ黒。え、ヘルメットか何かを被ってるの?
「……あっ」違う。これは、僕だ。ここに映っているのは、僕。この動画は、たった今録画したばかりのものだ。「なんてこと……」
「そう、ゴッド先輩の演奏ってのは嘘なんだ。ごめんね。でもこれで、ボクが言いたいことは分かってくれただろう?」
「はい……。僕、こんなにもうつむいてたんですね」ヘルメットかと思うほどに。僕は、恥ずかしいほどに僕は、演奏中、ずっとずっと下ばかり見ていた。
「音楽は聴かせるモノだけど」アオ先輩が諭すように言う。「ライブは魅せるモノだ。目と耳の両方でお客さんを楽しませる。衣装、スモーク、照明。中でも最も重要なのが、演者のパフォーマンス。お客さんのほうを見て、笑顔で、楽しそうに演奏する。とても大事なことさ」
言葉もなかった。僕は今まで、夏野の『寒い演奏』『ジメジメした顔』『モヤシ野郎』といった言葉に傷付き、被害者のつもりでいた。『ドラムは筋肉だ』とか言って、見せ筋にばかりこだわる夏野のことを、心の底では馬鹿にしていた。だけどアイツの言葉には、一定量の事実も含まれていたんだ。『パフォーマンスもまた、音楽』。そのとおりじゃないか。
「というわけで、もう一回やってみようか」
「よろしくお願いします!」席に戻り、スティックを振り上げる。演奏が始まった。
「モヤシちゃん、顔!」
先輩の鋭い指摘で、僕はまたしてもうつむいていたことに気付く。なんてこった、無意識だ! 顔を上げる。すると、アオ先輩と目が合った。
「そう、アイコンタクト。バンド演奏の基本だよ」
イナズマちゃん先輩、シロ先輩、くれなゐ先輩とも目が合う。僕は無性に気まずくなって、うつむいてしまう。
「こらこら、モヤシちゃん。顔、顔」歌詞の合間を縫って、アオ先輩が指摘してくれる。
僕は再び顔を上げるが、先輩たちと目が合うと、無性に居心地が悪くなって――より正直に言うと、怖くなって――うつむいてしまう。ならば、とカメラ代わりのスマホに目を向けると、レンズの向こうに無数の視線があるような気がして、僕を睨んでいるような気がして、胸の辺りがキュッとなる。あっという間に、僕のリズムは瓦解した。
「モヤシちゃん……」
「ゴ、ゴメンナサイ!」
「別に怒ってはいないよ」アオ先輩が、僕の頭を撫でてくれる。「何も怖いことはないんだから。ほら、ボクの目を見てごらん」
見る。けれど僕は、すぐに怖くなってしまう。動悸がして、額に冷や汗が滲んできて、泣きたい気持ちになって、やがて目を逸らしてしまう。……原因は、分かっている。人の目が、怖いんだ。一年以上に渡って夏野に詰められ続けてきた日々がトラウマになっている。スマホのレンズも同様だ。レンズの向こうには、こちらを『観る』人の目があるから。
「ここには、キミをいじめるような奴はいないよ」
「はい」
「皆優しい、気の良い奴らさ」
「分かってます。でも」
「モヤシちゃんは、ボクらと一緒にライブに出たい?」
「っ。出たいです」
「でも、そのためには人の目を見れるようにならないと。本番はお客さんがいるからね。克服するために、頑張ることはできそう?」
「が、が……」声が震える。けど、勇気を出すんだ!「頑張ります!」
「よく言った! それでこそ男の子だ。というわけで」アオ先輩が、にんまりと微笑んだ。「にらめっこ大会を開催します」
「戦いはトーナメント形式で行われます」部室棟三階の片隅で、アオ先輩が丸めたノートをマイク代わりにアナウンスする。「優勝者には、『青子緑子』のキーホルダーが進呈されます。非売品だよ」
「くれ!」「ウチも欲しいわ~」「……私も!」「あ、えっと、ぼ、僕も!」
ヒット曲『青と緑のハザマで』のイメージキャラクターが印刷されたキーホルダーを見て、全員が目の色を変えた。僕はもちろんのこと、イナズマちゃん先輩、シロ先輩、くれなゐ先輩も『青子緑子』の熱狂的なファン――有り体に言って信者だ。先輩方は、普段こそアオ先輩に友人として接しているけど、その根底にあるのは『青子緑子』に対する強い強い憧れだ。
「では」アオ先輩がノートPCを開き、カタカタカタカタカタッターン!「これがトーナメント表。気になる一回戦は――、くれなゐ! VS、モヤシちゃん! だぁ~~!」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」」
「う、うおおお、です」
皆、ノリ良いなぁ。
「「にらめっこしましょ♪ わろたら負けよ♪ あっぷっぷ!」」
くれなゐ先輩の美少女顔を至近距離で見つめる。目ぇでっか。睫毛なっが。見れば見るほど美少女だ。地雷系特有のキツめのメイクが目を引くけれど、すっぴんでもメチャクチャ可愛いんだろうな。彼氏とかいないんだろうか。いや、僕が元カレなんだ。記憶はないんだけど。
「んふふふ」くれなゐ先輩が笑いはじめた。同時にクネクネする。「モヤシくんが私だけを見つめてる。あぁ、なんて情熱的な瞳! こんな目で見つめられたのなんて十年振り――」
「はい、くれなゐの負けー」と、審判役のアオ先輩。
「えええっ、どうしてですか⁉」
「いや、笑ってたし」
「がーん!」とオノマトペを口で言うくれなゐ先輩。意外とお茶目なところもあるらしい。
「ふふっ」そんなくれなゐ先輩がなんだか妙に可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「あ、モヤシくんも笑いましたね」くれなゐ先輩が微笑む。優しい笑顔だ。
二人、至近距離で見つめ合う形になったけど、不思議と恐怖はなかった。
「お次はイナズマちゃん VS モヤシちゃんだ!」
「にらめっこ――」
僕が歌いはじめるのをよそに、イナズマちゃん先輩がツインテールを解きはじめた。何だ何だ、ドキドキするじゃないか。
イナズマちゃん先輩が長い金髪を顔の前に垂らして、「貞子!」
「んっふ」わ、笑わないぞ。
先輩、今度は髪をかき上げ、毛先をクルンとさせて顔の前に持ってきて、「板垣退助!」
あれか、明治時代に流行った、尖ったヒゲに見立てているのか。でもこれ、にらめっこじゃなくて一発芸大会になってないか。
「イタガキシストモジユウハシセズ!」イナズマちゃん先輩、渾身の裏声!
「ぶふぅっ」その、謎の勢いに乗せられて、僕は思わず吹き出してしまった。「は、反則ですって!」
「がっはっはっ。俺様の勝ちだぜ」
心底楽しそうなイナズマちゃん先輩とも、間近で見つめ合う形となる。けれど、不思議と恐怖はなかった。
「お次はシロ VS モヤシちゃん」
「「あっぷっぷ!」」
次の瞬間、信じられないことが起こった。
「くわっ」とオノマトペを口で表現したシロ先輩が、
あぁ、あぁ、あの、いつも糸目のシロ先輩が、
開・眼、したのだ!
「⁉」つられて僕も目を見開いた。
「……んっ、ふふ」糸目に戻ったシロ先輩が、笑いはじめた。「も、モヤシちゃん、そこまでびっくりせぇへんでもええやんか~。あーあ、ウチの負けやわぁ」
そう言っていつもの糸目に戻り、にへらぁと笑うシロ先輩は優しげで、至近距離で見つめ合っても、夏野を前にしたときのような恐怖はなかった。
「あっぷっぷ! 先手必勝! うりゃりゃっ」
「ちょっ、あひゃっ、あひゃひゃっ。くすぐるんは反則やって~イナズマちゃん!」なんて言いながら、メチャクチャ嬉しそうなシロ先輩。何だろう、やはり百合の波動を感じる。
「はい、イナズマちゃんの勝ちー。ラストはボクとモヤシちゃんだね」
「はい」僕はアオ先輩と向かい合う。
「「にらめっこしましょ♪ わろたら負けよ♪ あっぷっぷ!」」
次の瞬間、再び、信じられないことが起こった。
アオ先輩が、あの、クールでビューティーでダウナーでミステリアスなアオ先輩が、
あぁ、あぁ、本当に、もう本当に信じられないほどの、
ヘン顔を、した!
「んふっ、んぶふぅっ、あはっ、あははははははははははっ! ひーっ、ひーっ」
「はい、ボクの勝ちー。優勝はボクだったね」
「つまんねー! キーホルダーよこしやがれ!」「せやせや~」「……ほんそれ、です」
「分かった、分かったよ。じゃあ、じゃーんけーん」
「「「ぽんっ」」」
笑い転げている僕の横では、息ぴったりな先輩たちがグーチョキパーで戦っていた。
「どうだい? だいぶほぐれてきたんじゃないかな?」勝負を終わらせたアオ先輩が、近付いてきた。「って、まだ笑ってるのかいモヤシちゃん。さぁ、次のステージに進むよ」
「ひーっ、ひーっ。まだ何かやるんですか?」
「路上ライブだよ」
「……………………え?」
「人の目に慣れるには、衆目にさらされるのが一番。多少、荒療治の感はあるが、なぁに大丈夫さ。この、天才美少女ボカロPボーカルバンマス美少女のアオ様が付いているんだから」
美少女って二回も言いましたよね、とか。そんなことをツッコむ余裕なんて一ミリもなかった。鏡がなくても分かる。僕の顔は、哀れなほどに凍りついていた。
「無理です無理です無理です絶ぇっっっっっ対に無理です死んでしまいます!」
「大丈夫大丈夫。路上と言っても学内だから」
「いやいやいや、むしろ学内の方が人通り多いじゃないですか! っていうか、そんなゲリラライブして怒られないんですか?」
「ガチ路上で無許可でやったら警察が来ちゃうね。でも、学内は一定の自治が認められているから。それでもさすがに、生ドラムやアンプ、スピーカーのように近所迷惑レベルの音量が出るモノは、無届け出ではNG。だから今日は、コレでやるよ」
手を引かれて階段を登った先。四階の物置に転がっているコンガ(ポコポコという音が出る、細長い太鼓。発祥は南米のどこかだったと思う。ボサノバとかジャズロックによく出てくる)を拾い上げて、アオ先輩が微笑んだ。
「アオって」すぐ後ろからついて来ていたくれなゐ先輩が言った。「最近、よく笑うようになりましたよね。何か、心境の変化でもあったんですか?」
「んっ。え、そうかな」途端、『スン』ってなったアオ先輩が、慌てたように頬を掻く。
「……いえ、私の気の所為かも。じゃ、私はコレで参加しますね」くれなゐ先輩がロッカーの中から取り出したのは、アコースティックギターだ。エレキ専門だと思ってたけど、アコギもできるのか。ドラムもできるらしいし、地雷系美少女な上に多芸な人なんだな。
「俺様とシロは」さらに後ろからついて来ていたイナズマちゃん先輩が言う。「留守番だな」
そりゃそうか。ベースとシンセサイザー(キーボード)には、アンプやスピーカー無しで音を出す方法がないから。シロ先輩はピアノでもあれば生音を出せるだろうけど、屋外に部室のアップライトピアノを持ち出すのはほぼ不可能だ。
「せやなぁ~」仁王立ちのイナズマちゃん先輩を後ろからハグしているシロ先輩は、そこはかとなく幸せそうだ。やっぱり百合の波動が以下略。
「あと三十分で六限終わり。今から正面玄関に陣取れば、たくさんの人に聴いてもらえるはずだよ。くれなゐ、看板頼める?」
「たったの三十分で⁉ 無茶振りが過ぎませんか、アオ」
「モヤシちゃんも喜んでくれるよ」
「腕が鳴りますね!」
三十分後、僕らは大学正面玄関に続く通りにいた。パートとメンバー、楽器は次のとおり。
ボーカル・アオ先輩、生声。
ギター・くれなゐ先輩、アコギ。
パーカッション・僕、コンガ。叩き方はアオ先輩が教えてくれた。
僕らの前には、立て看板が一枚。貼り付けられているのは、『YouTubeで五百万再生達成! 大人気ソングライターが歌う路上ライブ』という小ポスターだ。先輩が、たった今コンビニで印刷してきたものだ。
ポスターには『青と緑のハザマで』のイメージキャラクターのイラストが飾られている。……ん? こんなイラストあったっけ? 僕は『青子緑子』の粘着一歩手前のガチファンで、青子緑子の動画やX投稿、グッズに至るまでありとあらゆるものをチェックしている。そんな僕が初めて見た、このイラスト。画風は青子緑子のデビュー当時からずっとイラストを担当している『ラヰトレッド』氏のもののように見える。まぁ、アオ先輩は青子緑子本人なのだから、まだ一度も世に出していないイラストの一枚や二枚、持っていても不思議はないか。
「それにしても、素敵ですけど、露骨でもある看板ですね。動画へのQRコードまで付けて。あ」慌ててフォローを入れる。「露骨な先輩も素敵ですよ! 否定的な意味ではないんです」
「ふふふ」と言いつつ笑っていないアオ先輩。いつもの、よそ行きモードの先輩だ。「現代の若者はね、『バズらない』に諦めにも似た慣れを感じていて、同時に『バズり』に対して強烈な飢えを感じているんだよ。モヤシちゃんはインスタとかXはやっていないのかい?」
「すみません、やってないです」
「謝ることじゃないさ。ボクはこのとおりネット上での活動の方がメインまであるネット生物だから、両方やっている」と、『青子緑子』アカウントのXを見せてくれるアオ先輩。「今でこそフォロワー数十万、動画告知をポストすれば千~万単位のいいねが付くいっぱしのアカウントだけれど、始めた当初はそりゃあ悲惨なものだった。何か呟いても一つもいいねが付かないなんて、ザラだったよ。そういうとき、まるで世界全部から無視されているような、自分に生きる価値なんて一ミリも存在しないような気分になったものさ」
そういうものなのだろうか。『生きる価値がない』はさすがに大げさ過ぎる気もしたが、僕はどちらもやったことがないので、適当なことは言えない。それに、先輩の言葉には実経験に基づく、言いしれない重みがあった。
「そういうバズ願望の『渇き』を知っている人間は、『フォロワー何万人』とか『何十万再生』みたいな『数字』のモンスターに取り憑かれているものなんだよ」先輩は看板の、『五百万再生達成』の文字をなぞる。「それにこれは、別に嘘でも詐欺でも何でもない。まるっと事実、ボクの実力だ。自慢し倒しても、利用し尽くしても、何も恥じることはない」
「そういうものですか」なんて会話で気を紛らわせてはいたものの、僕はもう、ガマンの限界だった。野次馬――というか観客が、何だ何だと僕らの周りに集まりつつあったからだ。「あのっ、とっ、トイレ!」
「こーら」アオ先輩に手を掴まれる。「ついさっき行ったとこでしょ」
「……ちょっと、アオ」くれなゐ先輩が咎める。「スキンシップが過ぎますよ」
「そう?」ぱっと手を放すアオ先輩。「こうでもしないとモヤシちゃんが逃げちゃうからさ」
「だだだだって」僕らはメチャクチャ注目されている。美人二人とモヤシだから、僕は絶対に悪目立ちしている。「本当に無理です! 帰らせてください!」
「冷静に。深呼吸。何が無理なのか、何が問題なのか、落ち着いて考えてみて」
「それは、だって、こんなにたくさんの人に見られて、悪目立ちするのが怖いんです」
「つまり、視線が怖いんだろう?」
そう、そうだ。僕は、野次馬たちの視線が怖い。漠然とした恐怖に名前が付いたことで、僕は少しだけ冷静になれた。やっぱりアオ先輩は、すごく頼りになる。
「よくあるやり方だけど。観客の顔を、全部かぼちゃだと思えば良いよ」
「うー……」思ってみる。が、「む、無理です!」
「じゃあ、さっきのボクの顔を思い出して。観客は全員、ヘン顔しているボクだ」
「んっぶふぅっ」僕は吹き出す。
「効果てきめんじゃあないか。自分から振っておいて何だけど、腹が立つね」
「ご、ごめんなさっ……ぶふふっ」
「むー……」くれなゐ先輩が、羨ましそうな目でアオ先輩を見ている。
「あのっ、くれなゐ先輩の顔もすごかったですよ!」僕は慌ててフォローを入れる。
「わ、私は別に。っていうか何ですか『顔がすごい』って。あ、でも『くれなゐ、すごい良かったよ』って何だかエッチな響きがして良いですね⁉」そう言って、くれなゐ先輩はクネクネしはじめる。平常運転だ。緊張しないのだろうか。さすがだ。
「あれ?」気が付くと、あれほど怖かったはずの観客の視線が気にならなくなっていた。
お客さんは全員、ヘン顔のアオ先輩。そして僕の隣には、ものすごく頼りになる先輩が二人もいる。僕はもう、大丈夫だ。
「ワン・トゥー・スリー――」アオ先輩の透きとおった声によるカウントで、曲が始まった。
演奏するのは、お馴染み『青と緑のハザマで』のボサノバ風アレンジ。ぶっつけ本番だったけど上手いこと演奏できた。といっても、僕はコンガをポコポコと言わせているだけだ。
くれなゐ先輩は、バッキングの合間にリードを織り交ぜている。ボサノバ風のリードを。作曲する暇なんてなかったはずだ。ということは、あれは即興か。薄々感じていたけど、くれなゐ先輩も十分に天才、十分にバケモノだな。
でも、そんなくれなゐ先輩よりもなおすごいのが、我らが青子緑子先生ことアオ先輩だ。だって、ものの十数分でボサノバ風に編曲してしまったんだよ⁉
イナズマちゃん先輩もシロ先輩もプロ顔負けの腕前を持っているし、もう本当、どうして僕が拾ってもらえたのか意味不明ってくらい、このバンドは粒揃いだ。
演奏中、たくさんの人たちが足を止めてくれた。五百万再生の、『青子緑子』の宣伝効果はすごいらしい。たくさんの視線にさらされて、何度か自分を見失いそうになったけど、僕は必死に顔を上げ続けた。そうしたら、要所要所でアオ先輩が振り向いて、笑いかけてくれた。すごく安心できる。
それでも、観客の何人かにスマホを向けられたときには、さすがに怖くなった。動画を撮影しているのだろうか。僕はちゃんと笑顔で演奏できているだろうか。顔は引きつっていないだろうか。半端な演奏を撮られて、拡散されて、先輩たちの迷惑になったりはしないだろうか。恐怖で塗りつぶされそうになったそのとき、アオ先輩が振り向いた。そして、一瞬だけ例のヘン顔を見せてくれた。途端、観客とスマホのレンズがすべてヘン顔のアオ先輩に見えて、僕はすっかり大丈夫になった。大丈夫。アオ先輩さえいれば、僕はもう大丈夫だ。
――パチパチパチパチパチパチパチパチッ! ヒューヒュー!
路上ライブは大成功で終わった。
その翌日。僕は、しっかりと顔を上げた状態で動画撮影に臨むことができた。昨日の、何人もの視線にさらされながらの路上ライブを思えば、全然楽ちんだ。
「うん、ちゃんと前を向けているね。それに、良い笑顔だ。頑張ったね、モヤシちゃん」
「はい!」
それから数週間。僕らは練習に練習を重ね、最高の一曲を撮ることができた。動画はオーディション委員会に提出された。あとはもう、合格を祈ることしかできない。
審査員は、二~四回生からランダムで三名ずつ選ばれる。審査員には守秘義務があるため、誰に審査されているのかは徹頭徹尾分からない。僕らにできるのは、祈ることだけだ。こんなにも何かを願ったのは、入試以来のことだった。