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23話 お目こぼしがあらん事を





窓の外からトランペットの音が、かすかに響いてきた。
朝の冷たい空気が隙間から忍び込むように部屋に入り込み、頬を撫でていく。
それと同時に、柔らかな感触が唇に触れた。


「ほら、起きて。ねぼすけさん。」


柔らかく、けれどどこか悪戯っぽい声が耳元で囁く。







「おはよう...」


ぼんやりと目を開けたウタは、長椅子に深く体を預けたまま、毛布にくるまっていた。寝癖で髪はあちこち跳ねている。

それを見たルネが、思わず笑みを漏らす。


「ふふ、ボサボサじゃない。ちょっと整えてあげる。」


彼女は椅子の横に腰を下ろし、手ぐしでそっと髪を整えていった。ウタは、くすぐったそうに目を細める。


「私がいない間、何かあった?」


ルネの口調はどこか母親が子供に問いかけるような優しさを含んでいる。ウタは少し考える素振りを見せてから答えた。


「ああ、ベルガールさんを呼んだよ。黒髪で猫耳の...」

「え?」


突然の返答に、ルネの手が止まる。


「この部屋に?」
「うん。」


ルネは目を見開き、ウタの顔を凝視した。だが、彼女は意に介さず続ける。


「フィアって子だったよ。お肉とか皮の買取をしてくれる場所を聞こうと思って。」

「そ、そう…。いくらだったの?」
「ん、お話だけだったから、お金はいらないって断られちゃった。」

「そうなんだ…。いい子ね、その子...フィアちゃんね。」


ルネは腕を胸の前で組み、ウタをじっと見つめた。その鋭い視線に気づいたウタが、少し首を傾げる。


「何?」


無言のまま、ルネは突然、毛布を引き剥がした。


「え、なに?寒い!」
「暖炉に火を入れたから、寒くないでしょ。」


ルネはウタの両手を軽く押さえつけ、そのまま身を乗り出した。彼女の顔が近づき、鼻先がウタの首筋や耳の後ろをくすぐるように動く。
ウタはくすぐったそうに身をよじり、笑い声を上げた。


「ちょ、くすぐったいってば!」


一通りいたずらを終えると、ルネは満足したようにウタを解放し、毛布を返した。


「私がいない間に他の女の子を呼ぶなんて─。」


ルネの声は淡々としていたが、その裏には確かに微かな嫉妬の気配が漂っていた。


「フィアは…女の子だから、大丈夫かなって思ったんだよ。」

「え?」


ウタは、フィアが女であることを強調しながら説明を続けた。自分が女性で、相手も女性なら問題ないと思ったこと。さらに、ラムエナやグリアナのような亜人的男性だったら、呼ぶことはしなかったとも。


「でも、ウタって亜人的には男なんでしょ?グリアナが言ってたわ。」

「え、そうだったっけ…。ややこしいなあ。」


ウタは苦笑いしながら頭を掻く。その仕草に、ルネは一瞬目を細めたが、次の瞬間には柔らかな笑みを浮かべていた。


「まあ、何もなかったならいいわ。ちゃんと話してくれたし。」


そう言って、ルネはポケットから青い宝石が埋め込まれたガラス玉を取り出した。それに白い光を送ると、青い宝石がガラスの中で踊るように反射する。


「ルネはどっちなの?」


ウタの唐突な問いかけに、ルネは一瞬眉を上げたが、すぐにおどけるように微笑んだ。


「さあ、当ててみて?」


彼女の声はどこか挑発的だったが、瞳の奥にはほんのりとした温かさが宿っていた。










ウタとルネが長椅子で寛いでいると、ルネが起動した青い宝石が入ったガラス玉が放つ柔らかな光が窓辺を照らし、一羽の白い小鳥を引き寄せた。

窓から舞い込んできたその小鳥は、純白の羽毛がまるで綿雪のようにふわふわと柔らかく、まん丸の黒い瞳がどこか知的な光を湛えていた。その細い首には青い宝石を飾った首輪が光を反射し、部屋全体を幻想的な雰囲気に包む。

小鳥は興味深そうに部屋を見回しながら、華奢な体を巧みに使って辺りを小さく跳ねて回る。その姿はあまりにも愛らしく、ウタも目を細めて見守っていた。

そして、その小鳥は外見からは想像もつかない、低く落ち着いた紳士的な声で話し始めたのだ。


「また随分と豪勢な部屋に泊まっているな。」


驚きもせずルネはすぐさま応じる。


「いいでしょ。」


彼女は淡々と立ち上がり、傍に置かれたガラス玉を操作する。その中に埋め込まれた黄色い宝石が鈍い光を放ち、柔らかな音が響いた。


「なんと、この部屋は片腕の暴風《グリアナ》の奢りよ。」

「なん...だと...タダなのか。」


その声を聞いて、小鳥の表情――というよりその動きに、微妙な驚きと喜びが浮かんだ気がした。


「アイマン?」


ウタが静かに呼びかけると、小鳥は羽を広げ、深々と頭を下げた。


「おお、ウタ様。これは失礼を、アイマンでございます。」

「今日はまた随分と可愛らしいね。」


その言葉に応えるように、アイマンは軽やかにテーブルの上に降り立つと、楽しげにその場で踊り始めた。


「カワイイ!」
「もうそれで食べていけそうね、アイマン。」

「ふふ、ご冗談を。」


アイマンは小さく跳ねると、最後に優雅にお辞儀をして舞踏会の幕を閉じた。




「アイマン、報告よ。」


ルネがテーブルに肘をつきながら低く告げた。


「部員の三人は《アルファリオ城》内に軟禁されていることが分かったわ。」

「軟禁?監禁ではなく?」


小さな首をかしげるアイマン。その仕草のたびに羽毛が揺れ、ウタの視線は釘付けになっていた。


「昨夜、城内に忍び込んで様子を探ったけど、割と快適そうだったわね。少なくとも衣食住に困っている様子はなかった。」


ルネは肩を軽くすくめ、淡々と報告を続ける。


「ふむ……脱出の意思をそぐためかもしれん。下手に監禁や拷問されるより厄介だな。」


アイマンは小さな体で考え込むように羽を整えた。その姿が愛らしすぎて、ウタは思わずくすりと笑ってしまう。


「でも、アイシャとも話をしたわよ。少なくとも脱出や帰国の意思は強かったわ。」

「おお、無事だったのか!」


翼を広げて喜びを示すアイマン。しかしその体は小さく、どこか心許ない。ウタは手を差し出し、アイマンをそっと掌に乗せた。


「ええ、あなたの名前を出したら涙ぐんでいたわ。部員は三人だけなのよね?」

「はい、三人で全員です。ルネ、本当に感謝します。」


アイマンはウタの手の上で深々と頭を下げた。その礼儀正しい動作に、ウタの目はさらに輝きを増していく。


「でも、お礼はまだ早いわ。」


ルネが冷静な口調で遮った。


「大事なのはここからよ。今朝、小さな馬車を一台借りておいた。その馬車に──」


ルネは静かに計画の詳細を話し始めた。救出作戦はこうだ。夜陰に紛れて再び城内に忍び込み、鍵を開けて三人を連れ出す。外壁の外に停めてある馬車に乗せ、荷物に扮して運び出す。そこからは三人で南下を続けてもらい、十日かけて帝国の国境を目指すという。国境を越える段取りは、全てアイマンに委ねられていた。

話が一通りまとまった頃、静かにしていたウタがぽつりと口を開いた。


「少し思ったんだけど……正直に話して、三人を返してもらうことはできないの?」


その疑問に、ルネとアイマンは一瞬言葉を失う。


「悪くない案だとは思うけど、断られればこちらが無防備になるわ。」

「ですな……ウタ様やルネに危険が及び、最悪の場合、首都にいられなくなるやも。」


ウタはその言葉に小さく頷きつつも、少し顔を伏せてしまった。掌に乗せていたアイマンを太ももの上にそっと置く。


「グリアナなら快諾してくれそうだよね……でも、議会がそうじゃないのよ。」


ルネは冷たく言い放つ。その言葉にウタは何かを言いかけたが、小鳥のアイマンが翼を広げて前に進み出た。


「それでも、わたくしは信じますぞ!人間と亜人が仲良く暮らせる世の中を目指して!」

「そうだね。」


ウタはアイマンの真剣な眼差しに微笑みながら答えた。しかしその次の瞬間、ルネが無表情でアイマンを掴み、テーブルの上へと放り出した。


「決行は明後日よ。何か見落としていることはない?」

「あるとすれば、《テオ》でしょうな。あの者は《星狼の塔》から周辺を監視しているとか。」


アイマンが窓辺を見つめてそう告げると、ルネも自然と視線を向ける。遠くに見える星狼の塔。その影がどこか不気味に感じられたルネは、不意に立ち上がり、カーテンを閉めた。


「《テオ》のお目こぼしがあらんことを。」



アイマンはポツリと呟いたが、その声は妙に静まり返った部屋にこだました──




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