神の巻
「やっぱり来てるわね」
「ああ」
歓声をあげるでもなく、手拍子を打つでもなく、ただじっと舞台を眺めている。
見つめる先は、恐らく
こいつも勘付いたのか。
晶が打ち鳴らす、羽紋様の付いたあのバスドラム……
「何か、仕掛けてくるでしょうか?」
やはり正面を向いたまま、
「分からん……だが油断しないでくれ」
時空の言葉に、横に並んで座る全員が頷く。
そして……
コンサートの終盤に、それは起こった。
館内に鳴り響いていた演奏が、突如中断する。
いや厳密に言うと、別の音にかき消されてしまったのだ。
それは、まるで脳内を掻き乱すような異音だった。
あえて例えるなら、金属の
「……時空っ!?」
「うむ!」
険しい表情を浮かべ、尊と時空が顔を見合わせる。
互いに頷くと、その場で立ち上がり周囲に目を走らせた。
会場内の観客が、耳を
どの顔も、苦悶に歪んでいる。
無事なのは、ここにいる四人だけのようだ。
「何でしょうか!?この音は?」
柚羽が音源を探るように、耳に手をあてがいながら言った。
「分からんが……俺たちには、効いていないようだ」
「神器が防いでくれているのかもね」
時空の言葉に続いて、尊が呟く。
なるほど……
確かにこの四人だけというのは、それしか考えられない。
それにしても、この音は、一体……?
「時空さん……あれっ!」
凛が声を上げ、舞台を指差した。
そこには、苦しそうに
いや……違う!
一人だけ、メンバーに声をかけている者がいる。
後醍醐晶だ。
「しっかりして!」
必死で呼びかける声が、観客席まで聴こえてきた。
時空らと同様、彼女も影響を受けていないらしい。
とすると、彼女も神器に守られているという事か。
やはり、あのドラムは……五つ目の神器!
時空の中の疑念が、確信に変わる。
だとすれば……
反射的に、時空は会場の最後部を顧みた。
このおかしな異音も、アイツの仕業なのか!?
今度は会場の観客まで巻き込んで、何かやらかそうというのか?
怒りの眼光を座席に向ける時空。
だが……
すでに、そこに仄の姿は無かった。
ウォォォォォーン!!!
突然、会場内に何かの遠吠えが響き渡る。
まるで、犬のような鳴き声だ。
四人の視線が、一斉に舞台袖に集中する。
そこには、見覚えのある黒い靄が渦巻いていた。
これまで、何度も目にした現象……
異形を生み出す、あの謎の靄だ。
そして、遠吠えはその中から聴こえていた。
時空の全身に緊張が走る。
やはり来たか!
程なく、何かが姿を現わした。
一見すると犬に似たそれは、長い
真っ赤な両眼に、二本の長い犬歯が口から垂れ下がっている。
たっぷり大人二人分はある
「久しぶりだな。神武時空」
その生物の背後で声がした。
見慣れた黒装束に赤い
続いて姿を見せたのは、あの赤角だった。
「また、お前か!」
時空が声を怒らせ、吐き捨てた。
素早く神鏡を取り出し身構える。
すかさず、尊たちも各々の神器に手をかけた。
凛が、慌ててミョウを起こしにかかる。
「これは、お前の仕業か。何を企んでいる!?」
時空の怒声を受け、赤角はおどけたように肩を
「前から言ってるだろ。俺が欲しいのは、お前の
「なに……!」
キッとした表情で、時空は異形を睨みつけた。
「この変な音は、一体何なの?皆をどうするつもり!」
尊も、背後から声を張り上げる。
「音……ああ、それはこの
ウォォォォォーン!!!
赤角の言葉に呼応し、遠吠えをあげる狛犬。
「狛犬って……まさか、あのコマイヌ?」
「あんなのでしたっけ」
「……かわいくない」
尊、柚羽、凛の三人が、口々に印象を呟く。
狛犬の声と連動し、異音がさらに増幅する。
と……
今まで苦しんでいた観客が、次々と立ち上がった。
何かに操られている事は、すぐに分かった。
なぜなら、皆同じ方向──時空らのいる座席に向かっていたからだ。
取り囲まれた四人は、顔を見合わせる。
突然、先頭にいた観客が時空に掴みかかった。
難なく避けるも、後続の者も次々と襲い掛かって来る。
攻撃の手は時空だけでなく、他の三人にも向けられた。
「やめろ!目を覚ませ」
「しっかりしてください!」
懸命に声を掛けるが、目を覚ます気配は無い。
四人ともどうにか凌いではいるが、次第に疲れが見え始めた。
数が多い上に、操られているため反撃も出来ない。
相手は、ただの一般人なのだ。
なすすべ無く、ひたすら攻撃をかわし続けるしかなかった。
四人を囲む輪は、見る見る狭まっていく。
「ほらほらどうした!ヒャヒャヒャッ!そのままだとやられちまうぞ」
赤角の嬉しそうな金切り声が耳に刺さる。
「どうだ、同胞に襲われる気分は……やめてほしくば、八握剣を渡せ!早くしないと、皆まとめてあの世行きだぞ」
迫り来る観客を、怪我をしないよう押し返すのは至難の業だ。
特に闘い慣れていない凛は、時空の背後で
神器を使えば、あっという間になぎ払う事は可能だ。
だがそれでは、どうしても怪我をさせてしまう。
皆操られているだけで、罪は無いのだ。
かといって、このままでは劣勢に陥いるばかりである。
くそ、これでは埒があかない。
赤角は観客を人質に取る事で、八握剣を手に入れるつもりなのだ。
こんな汚い手を使うとは……
何とかして、あの異音を止めないと。
時空は唇を噛み締め、赤角を睨みつけた。
*********
一方舞台上では、晶が茫然とその光景を眺めていた。
あまりの非現実的な出来事に、思考が追いついていなかった。
何、これは!?
皆、どうしちゃったの?
あの、鬼と犬みたいな化け物は、一体何!?
アタイは……夢を見てるの?
疑問ばかりが累積し、頭がパンクしそうだった。
何かの映画を観ているような錯覚に捕らわれる。
背後に気配を感じ振り返ると、今まで
「……やめなよ!どうしちゃったのさ!」
引き留めようとするが、腕をはねのけられてしまった。
「……そうだ……真美は!?」
ようやく我に返った晶は、舞台上から妹の姿を探した。
最前列で、皆と同じように歩いている姿が目に入る。
「真美っ!」
慌てて駆け下りようとしたが、誰かに後ろから羽交い締めにされた。
振り向くと、メンバーの無表情な顔があった。
「は、離せっ、真美!」
呼びかけも虚しく、妹の姿は見る見る群衆の中に吞み込まれていった。
「くそ!……なんとかしなきゃ」
晶は動かぬ腕の代わりに、思い切り頭を後ろに反らした。
額に頭突きを食らい、羽交い締めするメンバーの手が離れる。
なんとか脱出した晶は、手立てを求め舞台を見回した。
ふと、ドラムに目がとまる。
何か思い付いたように頷くと、急いで駆け寄った。
「皆、目を覚まして!」
スティックを手にし、そのまま一気に打ちつける。
ズドドドドド……!!
一糸乱れぬ連打が、館内に響き渡った。
時空らは勿論、赤角も驚いたように振り返った。
と……
突然観客らの動きが止まり、次々とその場に倒れ始めた。
「……これは!?」
「ドラムの音だわ」
驚く時空に、瞬時に状況判断した尊が答える。
「どうやら、あの楽器音が狛犬の異音を中和したみたいね……それで催眠効果が切れたのよ」
「すごい……」
尊の解説に、柚羽が目を丸くして晶を見つめた。
「チッ!
赤角が、悔しそうに晶を睨みつけた。
「何なんだ、お前は!?何故お前には、催眠が効かないんだ?」
晶が継承者とは知らず、赤角はいきり立った。
「狛犬、やれ!」
主人の命令に、狛犬の視線が晶に移った。
巨大な犬歯を剥き出し、唸りながら近づく。
「あぶない!アキラ!」
そう叫ぶと、時空は素早く神鏡を取り出した。
我は
今再び一つにならん──
時空は、そのまま舞台上へ駆け上がった。
グガァァァッ!!
狛犬が飛び掛かるのと、時空が晶を抱えて回避するのと同時だった。
自分より大柄な体を抱えたまま、一気に客席まで跳躍する。
神器によって向上した、身体能力のなせる業であった。
「ちょ、せ、先輩!?」
まさか抱えられるとは思わなかった晶は、目を白黒させた。
「大丈夫か?」
「えっ……は……はい……」
「お前は座席の陰に隠れてろ。あいつは、俺たちが何とかする」
あっけに取られた顔の晶を残し、時空は再び舞台上にジャンプした。
標的を取り逃がした狛犬は、時空を睨みつけ唸り声を上げた。
どうやら、頭に来ているらしい。
「時空っ!」
「時空さん!」
呼び声と共に、舞台に三つの影が並んだ。
そして、
皆、すでに神器により覚醒していた。
「観念しろ!今度は、お前の逃げ場が無くなったぞ」
激しく言い放つ時空の顔を、赤角は悔しそうに睨みつける。
深紅色の眼をギョロつかせながら、何かを模索しているようだった。
「……ヒヒヒ……まだ終わりじゃないぜ」
言い終えた途端、赤角は一気に舞台下へと飛び降りた。
そのまま、最前列で倒れている観客を抱きかかえる。
それは、一人の少女だった。
「真美っ!」
後方の座席から、叫び声が轟く。
晶が、顔面蒼白で立ち上がっていた。
その少女は、晶の妹の真美だった。
「ほう、コイツはお前の知り合いか……ちょうどいい。さっきはよくも、俺様の邪魔をしてくれたな。たっぷりお返ししてやるぜ」
そう言うと、赤角は真美の首に手を掛けた。
「うっ……ん」
息苦しさに、少女が目を覚ます。
「え……なに!?」
まだ朦朧とする意識の中、自分の首に巻かれた手に気付き、背後を振り返る。
「きゃあぁぁぁっ!」
赤角を見た真美の絶叫が、館内に木霊した。
「真美っ!」
「……おねえ……ちゃん?」
真美は、心配そうに立ち尽くす人影に気付く。
「お姉ちゃん!」
それが姉だと分かると、泣きそうな声で叫んだ。
赤角から逃れようとするが、びくともしない。
「真美を離せっ!」
「おっと動くなよ。おかしな真似をすれば、こいつの命は無いぞ!」
晶の言葉を無視し、赤角は不敵な笑みを浮かべた。
「やめろっ、卑怯者め!」
時空も、鬼の形相で怒声を浴びせた。
尊たちも、悔しそうに異形を睨みつける。
「ヒヒッ、また逆転だな。こいつの命が惜しければ、八握剣を渡せ!いや……お前ら全員の神器を渡してもらおうか!」
赤角の指は、確実に真美の首に食い込んでいる。
隙をついて助けようにも、これでは
「早くしろ!こいつがどうなってもいいのか」
「お姉ちゃん!」
晶は、血が滲むほど唇を噛み締めた。
助けを求める妹に、何も出来ない自分が情け無かった。
コンサートなんかに誘わなければ、こんな目に合わずにすんだのだ。
自分の責任だ……
悔し涙が、頬をつたって落ちる。
なんとかしなければ……
助けなければ……
晶の脳裏に、幼少からの妹との想い出が、走馬灯のように
アタイが──
アイツを──
助けなければ──
…………!!!
晶の中で、何かが音を立てて
掌の不思議な感触に目を落とすと、両手にドラムスティックが握られていた。
二本のスティックの表面には、深緑色の羽の文様が浮き出ている。
晶は無意識にそれを差し上げると、顔の前で交差させた。
突然、緑色の光球が彼女の体を押し包んだ。
ドォォォォォン!!
雷鳴のような轟音が鳴り響く。
次の瞬間、光球は両手に吸い込まれるように消失した。
そこには、両腕に深緑色の手袋をはめた晶の姿があった。
手袋の表面に刻まれた、鮮やかな羽紋様──
また一つ、神器の力が解放された瞬間だった。