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5.


          *

 
 大統領府には緊急用の隠し通路がある。
 警察の機動隊が本格的に乗り込んでくる前に、自分たちは大統領府の敷地を抜けることができた。
 自分と同様、金髪の後輩も隠し通路の存在は知っているはずなのに、そこに現れなかった。
 僅かばかりの温情を差し向けられた事実に、反吐が出そうだった。
 
 
 大統領府の周辺には、入り組んだ路地が点在している。
 破壊されるたびに、修復と同時に新たな通路が作られて、自然に網目状の道が出来上がったのだ。
 
 その路地に入って、キーをつけたまま停められている黒い車に乗り込む。諜報担当が用意していた、予備の車両だ。

 女は、ただ黙ってついてきている。
 足手まといにならないように細心の注意を払いながら必死でついてきていた。
 その様子は、必死で訓練に食らいついていた訓練生だった頃の自分を思い出す。

「これから国境検問所を目指す。道路じゃないところを走るから、しっかり捕まっておけ」
 助手席の窓に頭をもたげて、外を見ているように見せかけている背中に声をかける。
 返事はないが、アシストグリップを掴んだので、こちらの言うことは理解している。

 この車は、舗装されていない、細くうねった道を延々と進んでいる。申し訳程度に立つ標識は落書きされていた。
 
「いっぱい人が死んでましたね」
 少しかすれた声なのは、久しぶりに声を発したからだろう。女が言っているのは、大統領府を抜け出すときに見た光景のことだ。
 
「戦場の方がもっと死んでる」
 自分の返事に、女は天を仰ぐような素振りを見せた。
 戦場で人を殺しているのは、自分たちが売る武器だとは一ミリも思っていなそうだ。
 
「質問しても?」
 ぽつりぽつりと話し始めたのがきっかけで、女が会話を振ってきた。
 
「答えを持っているとは限らない」
 女が何を質問しようとしているのか見当もつかないが、かといって質問を拒む理由もなかった。
 
「あなたは私と母を殺せと言われた人ではない、って理解で合ってますか?」
 この女は自身と母親が標的だと思い込んでいた。何か後ろ暗いものを抱えているのだろうが、自分には関係ない。
 
「違う。俺が頼まれたのは大統領暗殺」
 こちらの返答に、隣に座る黒い眼はゆっくり瞬きを繰り返して、小さく呻いている。
 
「要するに、クーデター? 未遂した側?」
 クーデター扱いには不服があるが、たまたま居合わせただけの人間に、それを説明する必要もない。
 
「俺が逃げないとヤバい理由はわかったか」
「下手すれば私の身も危ういですね」
 物分かりが良くて助かった。

 女が呟いた通り、運が良ければ逮捕、悪ければクーデター実行犯と一緒に殺される運命だ。
 
 そして、運は一切関係なく、自分は真っ先に殺される。
 
「お前が誰だか知らないが」
 日本から来た武器商人、という肩書しか知らない。
 この作戦の実行計画説明のミーティングで事前に確認していた名前も、今や薄っすらとしか記憶にない。
 
「とりあえずクルネキシアに行って、日本大使館に保護してもらえ。政府軍と反政府勢力との戦闘に巻き込まれたとか、適当に言えばいい」
 
 自分の口から「日本大使館」と出たことに驚きを隠さない女は、眉間に皺を寄せて聞き返す。
「なんで日本人だと?」
「今から乗り込みに行こうと思っている相手が、その時どこの誰と会うか調べずに行くわけがない」
「あぁ……そりゃそうか」
 女のよそ行きのキャラクターが崩れて、そこだけ日本語だった。
 
「大統領府でクーデターが起きた、なんて言わない方がいいんですか?」
「それはこの国が一番漏らされたくない情報。お前の一言で戦況が変わるから一言一言、慎重に振る舞え」
 自分は日本語も喋れるが、いまさらだと思って英語で話し続ける。

「クルネキシアに寝返るとか、クルネキシアに情報を売って戦況を変えようとか、そこまでは考えてない、んですか?」
 女の発言に神経を逆撫でされる。
 どう見ても年下で、いかにも平和な国で生きてきたのがわかるが故に、何も言わずにただ耐えるしかない。
 
「リエハラシアに害を及ぼすことはしない」
「あなたを追ってくるのに」
「それでも故郷は故郷だ」
「愛国心が強いんですね」
 女の言葉はどこまでも苛立たせてくる。無意識に、ハンドルを握る手に力が入った。
 煙草が吸いたくてしょうがないが、手元には一本もない。

「うちの軍や警察は、国境を越えてまで追ってくる力はない。お前がここから遠くに逃げれば、それだけ有利になる。クーデターの話を持ち出す必要もないだろう」
「この国って、お隣と延々揉めてますよね」
 何を言わんとしているのは大体わかっている。
 次に来る質問は、クルネキシア以外に逃げた方がいいのではないか、だ。
 
「それなら他に地続きの国があるじゃないですか」
 想像通りで、言い終えられる前に首を横に振る。
 
「クルネキシアの国境検問所の担当官は買収に乗ってくれる。うちからクルネキシアに出ていく国民もいるし、その逆もしかり。
 他は難民問題が起きると面倒だから、なかなか受け入れない」
「あぁ……なるほど」
 ずっと英語で話していた女の、この相槌は日本語だった。
 
「検問所の担当官に渡す賄賂は出してやる。俺ができるのはそこまでだ」
「私はどうにかなるにしても、あなたは?」
「何とかなる。さっき言ったように、金で解決出来る」
 資金は貯め込んできたから、ある程度まで逃亡生活はできるだろう。
 その先の想像は、今の自分にはできない。

「他人の心配の前に自分の心配をした方がいい」
 国境地下になるほど、戦闘の痕跡は色濃くなってくる。道が、道でなくなっている。強引にカーブを切ると、助手席から小さく悲鳴のような声が漏れた。
 もうここらでは、後続の車も居なければ、対向車もない。

「暗いのに、このスピードでよく走れますね」
「四の五の言ってられない」
「梟は夜目が利く」
 女は、自分と話す時は英語で喋るが、ぼそりと呟く言葉は日本語になる。
 それ自体は、特に気にすることでもないのだが、突然出てきた「梟」という単語に、ほんの少し違和感を覚える。

「クルネキシア側には、俺は通訳かガイドだと説明してくれ。付き添いであって亡命希望ではない、と」
 亡命すると伝えてしまうと、書類だなんだと手続きを踏まなくてはならなくなる。
 それよりも、自分は一分一秒でも早く第三国まで逃げ落ちたい。
 
 助手席に座る女は、しっかり一回頷くと、
「私は母親の仕事について来て、武装集団に襲われて逃げてきた」
 検問所の担当官に説明する内容を、暗唱する。
「母親と逃げる途中、はぐれた」
 母親、と発音するたび、毎回僅かに声が震えているが、あえて触れない。
 何を思い出しているか、虚ろな黒い眼が如実に語っている。
 
「俺もそう説明するから、お前も検問所の人間や大使館の人間にそう言え」
 そう言いながら、所持金や今後の自分の逃亡ルートを考える。気が重くなる。それは隣の女も同じだろう。
 
「これだけは言っておく」
 名前もよく知らない日本人との最低最悪の逃避行も、もうすぐ終わりだ。
 最後にしっかり釘を刺す。
「今までのことは全部忘れろ。お前の母親のことは俺も残念だ。いつか、お前の代わりに復讐してやる。だからお前は、日本で平和に暮らせ」
 金髪の後輩が、どうしてこの女だけ仕留め損ねたのか、疑問でしかない。
 
「わかりました」
 そう答える女の眼は、笑っていなかった。
 こちらを睨みつけているのに、口元だけは笑っている。表情のアンバランスさが、納得していないのをありありと窺わせた。
「嘘ですけど」
 思わず睨み返した。女はにこにこと笑っているが、自分は苛立ちがピークを迎えつつある。
 
「前見て」
 苛立ちもない平坦な声音で、前を見ろと注意してくる女。

 目が合えば、こちらを威圧してくるような強気な態度になり、次の瞬間には興味をなくしたように、窓の外に視線をそらす。

 この空気感は、記憶のどこかで知っている。
 自分の手で葬ってきた敵か、死んでいった仲間のうちの誰かか、思い出せないが。

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