6.
「国境だ」
適当なところで車を止めると、そこで降りる。女も慌てた様子で車を降りた。
国境付近の町の景色は、殺風景極まりない。
民家だったはずの建物の跡は無残で、残っているのは瓦礫と死臭だった。
ここはつい数日前、クルネキシアと交戦した場所だ。
「この前、ここで市街戦があった」
瓦礫を退かしながら、この場所で何があったのかを簡単に説明する。
「日にちがそんなに経ってないから、服や日用品がまだ残っている可能性が高い。だから、ここで着替えの調達を」
目の前の景色に言葉を失っている風の女に、暗に手伝うように伝えた。
女の視線がこちらを向くと、民間人のふりをするには無理がある、戦闘服姿の自分の出で立ちにやっと気づいたらしい。
「わかりました」
この女は物分かりが早いので、何をするべきか分かれば、すぐに動き出した。
瓦礫を退かして衣服か布かの端切れが見えれば、引っ張り上げる。
何が悲しくて略奪者の真似事をしているのだ、と喉まで出かかる。その言葉は胸の奥まで押し込めた。
瓦礫の隙間から見える布切れを探して回る女も、それは同じだろうからだ。
瓦礫同士がぶつかる音は、鈍かったり甲高かったり、灯りもない暗闇の廃墟の中で、やかましいほど響き渡る。
「めぼしいものがなければ、そこら辺に埋まっている死体から剥ぐしかない」
自分のその言葉に、黙々と瓦礫を拾い上げていた女は一瞬、険しい表情を見せる。目が合ったが、お互いに何を言うでもなく、視線が逸らされるとまた作業に取り掛かる。
不幸中の幸いで、自分なら着ないだろう柄とデザインのニットと、ジャストサイズのボトムスを用意できた。死体から強奪しなくて済んで、良かった。
それに着替え、着慣れた戦闘服を瓦礫の山の中に押し込めた。
もう一つの収穫物であるオレンジ色のダウンジャケットを片手に、車に戻る。
「すごい柄とデザインのコーディネート」
先に助手席へ乗り込んで、こちらが着替え終わるのを待っていた女が、自分の姿を見て開口一番に言う。
うっすら面白がっているのが透けて見えて、腹が立つ。
「言いたいことはわかるが黙れ」
ガソリンの節約のためにエアコンを消している車内は寒い。女は寒がる素振りもなく、平然としている。
「これはお前に」
ダウンジャケットを女に渡すと、ひどくびっくりした様子で受け取る。
「スーツじゃ寒いだろ」
「そう、ですね」
そう言いながらも、羽織りはしなかった。
「寒いって思う暇がなかった」
独り言かと思ったが、わざわざ英語で言うあたり、独り言ではないのかもしれない。どう返してやるべきか、わからない。
エンジンをかけ、溜息をついてからハンドルを握ると、隣からすっと掌が伸びてくる。
「お礼にどうぞ」
掌にあるのは、小さな四角形の包みの何か。ポップな柄と文字が並んでいる。
「何だ」
「チョコレート。毒なんか入ってないから大丈夫ですよ」
別に欲しくもなかったが、受け取ってやった方がいいのはわかっていたので、ダッシュボードに置いた。
*
国境検問所のゲートは、車両用と歩行者用の二つある。車のライトが検問所を照らすと、ゲートに付属した詰所の人影が動いた。
夜の検問所を通る人はまばら、車は自分のものだけだ。
つい先日、周辺で市街戦があったばかりなのに、検問所の担当官は、湯気を立てるマグカップ片手に悠然と歩いてくる。
のんきなものだ、と思う。戦闘に巻き込まれたらどうにもならない、ともはや諦めてでもいるのだろうか。
仕事でリエハラシアに来ていた日本人を連れている。安全に日本へ送り届けるために付き添いしている通訳だ。――と、急拵えした説明をした途端、担当官はこちらを値踏みする視線を向けた。
日本人を連れているせいで、リエハラシアからクルネキシアに逃げたい、というシンプルな話ではなく、イレギュラー対応が必要になる。
そこで担当官は賄賂の額を計算しているのだろう。
担当官からは、思っていたより安い額を提示された。ラッキーだと思いながらも、表情は渋々といった感じを出して、ボトムスに突っ込んでおいた札束を渡した。
自分とこの女は一介の民間人だと信じ込ませて、ここは切り抜けたい。
担当官は札の枚数を数え終わると、心なしか身軽な足取りで詰め所に戻っていく。電話片手に喋っているのが見え、日本大使館に連絡しているのだろうと悟った。
となれば、もう終わりだ。
「検問所で身元確認が終わったら、あとは大使館の指示に従え」
女がゆっくりとこちらを向いた。何か言いたげだったが、黙ったままだ。
もう一度、詰所から担当官が出てくると、助手席の窓を叩いた。ただそれだけなのだが、窓を叩く音に、一瞬体がびくついてしまった。
女が窓を開けると、担当官が英語でパスポートの提示を求める。
言われた通りにパスポートを出し質問に答えているのを、他人事のように眺めているしかなかった。
担当官は、大使館に連絡をするからこのまま車内で待つように、と説明して、詰所へ戻っていく。
この女を今降ろして、自分は車を急発進させてリエハラシア国内に向けて走り去る。そんなイメージが浮かんできて、半分その気になっていた。
すると、詰所の方向をみていたはずの女が、顔をこちらに向けてきた。
口元に笑みを|湛《たた》え、 黒い瞳は感情を見せない。
「あなたがもし、サヴァンセとリーシャロって人に会う機会があったら、伝言お願いしてもいいですか?」
女の言葉を聞いた瞬間、体が硬直した。それを悟られないよう、平然を装うので必死になっている。
「気が向いたら、日本へ遊びに来て」
女は、伝言という
言いたいことを言って満足したのか、女はドアに手をかけ、降りようとする。
「待て」
「早く逃げた方がいいですよ。生きてまた、会いましょう」
慌てて呼び止めた自分に向かって、女は笑顔で言い放ち、ドアを乱暴に閉めた。
女の言う通り、ここは逃げた方がいい。
最後の最後に山ほど聞きたいことを残して、女は詰所のドアを開けようとしていた。
いまさら車を降りて、女の後を追うわけにいかない。舌打ちが出る。
感情のままアクセルを踏み込んで走り出すと、検問所の担当官たちが慌てて追いかけてきた。発砲してきたが気にせず走る。
一瞬だけ背後を確認すると、担当官の背中に隠れた女が、こちらに向かって大きく手を振っていた。
「ありがとう」
声は聞こえなかったが、口の動きでわかった。こちらの言葉で、はっきりと。
アクセルを踏み込みながら、耳に残る言葉を脳内で反芻した。
『気が向いたら、日本へ遊びに来て』
『生きてまた、会いましょう』
サヴァンセ。
その言葉は、リエハラシア語で「
あの女は、「サヴァンセ」が人名だと思っている。その名前を持っているのが、自分だと気づいている。
梟は、自分が長年使ってきたコードネームだ。
今日何が起きたのかをどこまで知っている?