2.
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――時刻は遡り、三十分ほど前。
陽の沈みかけた空は冷え込み、息を白くさせる。太陽の後を追うように薄い闇が、空を覆う。
我が国、リエハラシアは、隣国・クルネキシアと長年、紛争状態だ。
お互いの領土を吸い上げて統一国家にしたい、と主張して譲らず、形ばかりの和平を結んでは反故にしている。
鉱物資源が豊富な、敵国クルネキシアは西側諸国からの支援を得た。天然ガス資源がメインの、我がリエハラシアはロシア・中国からの支援を受けた。
大国からしても、どちらかの国が速やかに領土を統一してくれたほうが、資源確保できるメリットから言っても、ありがたい。
故に、この戦争の終わりは見えない。
大統領府は美しい景観を保っているが、それは体裁のためだ。
首都であるはずの街は、廃虚と生活空間が入り混じっている。この国は、安定しているとはとても言えない。
大統領府に向かって走っている黒塗りの車が現れる。半壊状態の町並みにはそぐわない、光輝いたボディ。その後部座席にいるのは、アジア系の中年の女だった。女は瘦せ型で、疲れの色が濃い顔をしている。
これみよがしに先導する警察車両の後ろで、舞い上がった埃が車体に貼りついていった。
車の後を目で追うと、北側真正面に見えるのが、大統領府。
灰白い壁で横幅の広い、バロック様式を模した建物。周囲の荒廃とは一線を画す、きっちりと整備された庭。
傷一つない美しい建物に見えるが、数年に一度は砲撃を受けて、そのたびに修復されている。
自分が今いるのは、その大統領府を見渡せる場所にある、背の高いアパートメントの屋上だった。
市街戦でこれまで何度も砲撃を受けたアパートメントには、誰も住んでいない。
屋上に設置されていた貯水タンクには、銃痕がいくつも空いている。空っぽのタンクに溜まっているのは埃まみれの雨水だけだ。
「こんなVIP対応するほどの来賓だったか」
一八時に大統領府で会食のスケジュールなのは確認していた。この来賓はずいぶんものものしい護衛を付けて移動していると思った。
「大統領と会食するくらいだから、VIPなんじゃないの~」
間延びした、やる気のない声が返ってくる。
隣で、双眼鏡から車列を見届けている、諜報担当の赤毛の男の声だ。
「日本人の武器商人だったか」
作戦前の会議で、大統領が今日の晩餐会に招く客のデータも確認した。
今夜は、初めて会うはずの、日本人が来賓として招かれている。
隣の赤毛の男へ視線をやると、小さく頷かれる。
「そ。初めて取引する相手だね」
赤毛の男は、予想通り、補足情報を付け加えてくる。
我が国の大統領。
何を考えているのか、何も考えていないのか、方針と言動がいつも一致しない我が国の元首。
政治手腕に疑問はあるが、資金と装備を調達する才能はあった。
大統領は、公に配備できない、特殊かつ最新の装備品の数々を、今回のように武器商人と交渉して調達してきた。
今日やろうとしている取引も、そういう取引だ。
「他国の人間がいるのに、この作戦を実行するのは気が引けるな」
大統領府を見つめながら、ぼそりと呟いた。
赤毛の男が、訳知り顔で、下から顔を覗いてくる。
「まぁ、言いたいことはわかるさ。でも、この後のスケジュール考えても、今日ぐらいだからさ」
自分のぼやきに食いついてきた赤毛の男は、この作戦の実行日を決めた理由を、延々と語り出しそうだった。
なので、先に手を打った。
「言いたいことはわかるから黙ってろ」
赤毛の男は、言葉を遮れ、つまらなそうに双眼鏡のストラップを指先に引っ掛け、ぐるぐると回す。
その双眼鏡も軍の装備品で、安くはないんだぞと言いたくなる。
「だからさ、あの日本人だけは絶対手を出さなきゃいいんじゃん?」
赤毛の男は、自分に向かってにっこりと微笑む。
これから実行する作戦で、他国の人間の犠牲が出たら、ちょっとした国際問題になりかねない。
それを憂いているのだが、赤毛の男は適当に流すだけだ。
「お前は現場に出ないからいいが、現場の人間にはそれが大変なんだよ」
はぁ、と溜め息が出る。
うっかり混ざり込んだ民間人には流れ弾すら当たらないように細心の注意を払え、と言われても、現場の混乱で何が起きるかなど、誰も予想できない。
それが最前線だ。
それに、
「この取引が成立すれば、新しい装備を仕入れられるはずだったんだ。……それが惜しいな」
この交渉は確実に流れる。新しい武器が手に入らない。
自分は、驚くほど無意識にぼやいていた。それを聞いた隣の赤毛の男がブッと吹き出した。
笑い声につられて、赤毛の男と顔を見合わせると、赤毛の男は腹を抱えて笑い出す。自分は舌打ちしか出ない。
多少の気まずさを覚えながら腕時計を確認すると、日付窓の数字は14、時針が5、分針が6を指しているのを目で確認する。
「おい、一七時三十分だ。お前は移動するんだろう?」
赤毛の男が、作戦配置につく時刻が近づいてきていた。
自分の言葉を聞いた、赤毛の男は溜め息混じりに座っていた貯水タンクの影から立ち上がる。
「あ。そういえば、衛星の打ち上げ成功したんだって。いいニュースだね」
赤毛の男は、こんな時でも世間話を振ってくる。
その日の昼、軍事衛星の打ち上げがあった。
無事に軌道に乗ったと知らせが入って、大統領はたいそう喜んだそうだ。
その軍事衛星が機能すれば、戦況をもっと詳細に把握できるようになり、衛星通信の質も上がる、と聞いていた。
「そういえば、そんな予定があったな」
そんな世間話に対して、適当な相槌しか出てこなかった。
ふと、隣から聞き覚えのあるメロディーが聞こえ、顔を向ける。
移動のために屋上から建物内に戻ろうとしている赤毛の男が、鼻歌を口ずさんでいた。重大な作戦の前だというのに、どこまでもマイペースで、つかみどころのない性格だ。
こちらと目が合っても、まだ歌っていた。
「……鼻歌を歌うな」
黙っていてもやめないので、仕方なく指摘すると、赤毛の男は静かに笑顔を見せる。どことなく、いやらしさがあった。
「いや、この曲、あのクソ教官が作戦中とかでも、お構いなしによく歌ってたよなーって思って」
そんなことは、懐かしいどころか、思い出したくない。眉間に皺が寄る。
それを見た赤毛の男は、手を叩いて笑う。とてもおかしそうに。
赤毛の男の笑い声を聞きながら、脳裏に蘇った、あの教官のことを思い出す。
『与えられた屈辱は、徹底的に返してやれ』
教官の言葉だ。
やられっぱなしは、絶対に許さない。
そう教え込まれた自分や、赤毛の男は、味方以外は全員殲滅する、機械のような正確さを持った。
軍人としては百点だろう。人間としてはどうだろうか。
感傷めいた記憶を思い出していたので、頭を振るって、忘れようとした。
そんな自分に、笑い過ぎて出てきた涙を雑に拭った赤毛の男は、ニヤッと笑って話しかけてくる。
「ところでさ、|作戦《これ》終わったら飲み行かない?」「行かない」
よりによって、一番面倒くさい誘いをしてきた。即座に断った。
「たまには付き合ってくれてもいいじゃん」
赤毛の男は唇を尖らせ、拗ねた様子を見せる。
いい歳した大人が、子供みたいな素振りをするのを見ているのは、見ているこちら側が恥ずかしくなる。
「お前の女遊びに付き合わされるのはごめんだ。そもそも、俺は酒が飲めない」
すると、ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。呆れているような、諦めているような、そんな空気を感じた。
「まぁいいや。じゃ、後で裏門で合流しような〜」
赤毛の男はこちらを振り向きもせず、踵を返していく。
その背中へ、返事の代わりに舌打ちをした。
今回の作戦が完了時刻は一八時二十五分、その五分後の三十分には、大統領府の裏門へ横付けされた車両に乗って、軍司令部へ帰投する予定だ。
この作戦では、赤毛の男は諜報担当として作戦の指揮と、車両を裏門に配置するのが役目だった。