地の巻
ひと気の無い道場はいつも物静かだが、今の張り詰めた静寂は耐えがたいものがあった。
何らかの責任を感じているのかもしれない。
時空は、好きなようにさせる事にした。
結局、仄の口から真相は聞けなかった。
仮に彼女が犯人だとしても、あれだけ周到にアリバイを用意されては手も足も出ない。
それに問題は、何故こんな事をしたかだ。
「警告かもね」
伊織に聞こえぬよう、尊が小声で
時空も小さく
自分が隠し事をしている事は、気付かれているはずだ。
ならばこれは、『白状しろ』という脅迫ともとれる。
逆らえば、今度は竹刀だけでは済まないぞという脅しだ。
もしそうなら、とても高校生とは思えない
まるで犯罪者だ……
仄に対する懐疑の念は増すばかりだった。
「きゃあぁっ!」
突如、伊織のけたたましい悲鳴が響き渡った。
反射的に振り向いた時空の目に、信じられないものが映る。
いつの前にか、入口に一人の人物が立っていたのだ。
そして驚くべきは、その異様な様相だった。
まるで、忍者が
軽く二メートルを越す
だがそれ以上に身を
瞳孔の無いその目は、不気味な
手には、巨大な鎌のようなものが握られている。
そこから漂い出る血生臭い臭気が、時空の鼻腔を刺激した。
コイツは……やばい!
時空の武道家としての直感が、そう告げた。
「何だっ、あんたは!」
時空が吠えた。
咄嗟に身構え、自然と戦闘スタイルに切り替わる。
一瞬顔色を失った尊も、すぐに気を取り直し、伊織を手で
その二人の前に立ち、盾となる時空。
「一体、何の用だっ!」
更に時空が問い詰める。
だが黒装束は、終始無言で何の反応も見せなかった。
時空は隙をみて逃げるよう、尊に
自分が
手元に武器は無いが、素手での格闘術も心得ているので、いくらかの時間稼ぎは出来るだろう。
「ヒャヒっ!!」
こちらの意図に気付いたか、突然奇声を発する黒装束。
手に持つ鎌を振り上げると、そのまま襲い掛かってきた。
「逃げろっ!」
時空は一歩前に出て叫んだ。
同時に、振り下ろされた鎌の一撃を両手で受け止める。
ガシッ!!
骨の
なんて……馬鹿力だ……!?
たちまち体勢が崩れ、片膝をつく。
その隙をついて、尊と伊織が戸口に走る。
だが
黒装束は尊たちに気付くと、戸口まで跳躍した。
尊と伊織の頭上を、一気に飛び越える。
数メートルを、助走無しで跳んだのだ。
とても
出口を塞がれ、二人は逃げ場を失った。
顔面蒼白の伊織に、尊が覆い
「タケルっ!」
駆け付けた時空の正拳突きが、黒装束の脇腹にめり込む。
だが、相手が
黒装束は平然と時空を見降ろし、腹に刺さった
そのまま片手で、後方へ払い飛ばす。
宙を飛んだ時空の体は、道場の壁に激突し、床に転がり落ちた。
「ぐふっ!」
苦痛の声が漏れ出る。
壁面の破損状況から見て、
黒装束が、再び尊と伊織の方に向き直った。
赤い目を輝かせながら、ゆっくり鎌を振り上げる。
苦痛で霞む時空の視界に、恐怖に歪んだ二人の顔が映った。
まずい!
このままでは……二人が危ない!
無意識に、時空の手がポケットの中を探る。
何か思いついた訳ではない。
体が勝手に反応したのだ。
取り出された手には、白い御守袋が握られている。
時空は震える指で、それを握り締めた。
言葉が、無意識に胸中に湧き上がる。
我は
今、再び一つにならん──
凄まじい閃光が、御守袋から飛散した。
うねる力の奔流が、時空の周りで渦巻く。
それは紛れもなく、
光は、幾度も時空の体を突き抜けた。
その都度、全身の痛みが薄れていくのが分かった。
やがて動きを止めた奔流は、吸い込まれるように御守袋に消えていった。
道場内が元の光景に戻る……
時空は、すでに立ち上がっていた。
その手には、青く輝く物体があった。
「シャァァァァァっ!」
時空の異変に驚いたのか、黒装束が威嚇するように叫んだ。
鎌を振り上げ、幾度も体を揺する。
時空は、冷ややかな
「キィィィーっ!!」
動じない様子に腹を立てたのか、黒装束が鎌を振り上げ突進してきた。
全身から殺気が放出している。
時空は剣を左腰に納めると、静かに身を沈めた。
攻撃をかわすでもなく、じっと構える。
黒装束の鎌が、頭上で弧を描いた。
と……
一瞬の閃光と共に、黒装束の体が静止した。
時空の毛髪に、刃が触れるほどの距離で鎌が止まる。
「
時空の抑揚の無い声が木霊する。
それは、
ほどなく、黒装束の体に異変が起こった。
仁王立ちの下半身を残したまま、上半身が床に滑り落ちる。
胴体が、真っ二つに分断されたのだ。
信じられない光景だった。
「グっ……ギャァァァっ!」
黒装束の口から、断末魔の叫びが放たれる。
と同時に、その体から黒い
靄は、瞬く間に黒装束の体を包み込む。
すると次の瞬間には、異形諸共その場から消失してしまった。
まるで、何かのマジックを見ているようだった。
道場内に静寂が蘇る……
「時空!」
駆け寄る尊の声で、我に返る時空。
八握剣は手の中で、すでに神鏡に戻っていた。
体の痛みも、嘘のように消えている。
「すごい……今のあなたがやったの?」
興奮気味の口調で問いかける尊。
信じられないといった顔だ。
「……ああ、そのようだな。八咫烏は、うちの流派の居合術の一つなんだが……」
夢から覚めたように、頭を振る時空。
「だが、あれ程の威力は無いはずだ。そもそも……今のは人間業じゃ無い……」
そう言って、時空は唇を噛み締めた。
八咫烏は高速の
だがその威力となると、せいぜい
弾力に富む筋肉や硬い骨を、一振りで断ち切るなど不可能である。
それをこの剣は、あっさりやってのけた。
まるで
驚くべき
それに、当然のごとく人を切ったのも初めてだった。
仮に今のが人間では無かったにしても、何らかの生き物であるのは間違いない。
声も発するし、感情表現も見せていたからだ。
その相手に、自分は太刀を浴びせてしまった。
真っ二つに切り裂いてしまったのだ。
なのに……
なのに、なぜだ?
なんで、何の感情も湧いてこないんだ!?
一瞬の
おかしい……
こんな事は初めてだ。
一体自分は、どうなってしまったのか……
もしかしたら、これも……
この剣のせいなのだろうか?
八握剣に対する強い
「とにかく助かったわ。ありがとう」
尊の言葉が、瞑想に耽る時空を現実へと引き戻す。
いずれにせよ、あのままでは尊も伊織も確実に殺されていた。
二人を救うには、ああするしか無かったのだ。
時空は己に言い聞かすように、大きく頷いた。
「い、今のは……な、何だったんですか!?」
尊の背後で、伊織の震えた声が響く。
涙でくしゃくしゃになった顔が、動揺の激しさを物語っていた。
突然、得体の知れぬ異形に襲われ、撃退したかと思えば霧のように消えてしまう……
そんな非現実的な出来事を、受け入れろと言う方が無理な話だ。
「分からん……だが、もう大丈夫だ」
そう言って、時空は伊織の肩に手を置いた。
今は落ち着かせる事が先決だ。
「とりあえず此処を出ましょう。伊織も怯えてるし……学校にも、報告しておいた方がいいわね」
冷静さの戻った尊の進言に、時空も同意の表情を浮かべた。
慎重に外を確認し、一行はそのまま職員室に向かった。
それにしても、アイツは何だったんだろう……
時空の脳裏に、深紅色の眼光が蘇る。
容姿や動きからも、普通の人間で無い事は確かだ。
言葉も話さず、発するのは動物じみた奇声のみ。
あんなものが、この世に存在している事自体信じられなかった。
そしてそれ以上に気になるのが、襲われた理由だ。
あのタイミングで現れたという事は、狙いはあの場にいた三人だ。
伊織では無い。
俺か、尊……いや一番可能性があるのは、やはり俺か。
これも、仄の差しがねなのだろうか。
竹刀による脅しだけでなく、強硬手段にまで及んだという事なのか。
だとすれば……
アイツの力は、度を越している。
あまりに、俺たちの想像を超え過ぎている。
一体どこから呼んだのか知らないが、あんな異形を操れるのだ。
もしあれが、大挙して襲ってきたら……
八握剣をもってしても、太刀打ち出来るかどうか……
自分だけならまだしも、尊や周囲の者にまで危害が及ぶとなれば、事は深刻だ。
これから先、自分はどうすればいいんだろう……
時空は